日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

富崎千里古墳群|富山県富山市 ~前方後方墳をはじめとして17基の古墳からなる四角形が優勢な古墳群~

2021-07-24 22:26:38 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>⑥



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 富崎墳墓群では、「生よすみ」を見ることができますが、バスで行くことができません。

 できれば王塚古墳と勅使塚古墳以外にも、もう一か所はどこかへ案内したいので、ダメもとで富崎千里(とみさきちさと)古墳群を確認しに行きます。

 富崎千里って人の名前みたいですが、手元のガイドマップを見ると駐車場もあるようなのでバスで行けるかもしれません。

 さて、現地に着きましたが駐車場は閉鎖されています。

 今日は王塚・千坊山遺跡群をさまよっていますが、一度はかなり整備をした形跡が見られるものの、その後それを維持することが難しくなったようで、いろいろな場所で残念な光景を見ます。

 しかしこういう状況はここに限ったことではなく、全国的に見られることですから仕方がないですね。

 駐車場の隅に説明板が見えます。



 駐車場には入れないので、空き地に車を停めて行ってみます。



 説明板が葉っぱちゃんに覆われそうになっていますが、富崎千里古墳群は、北群と南群に分かれ、北群には3基の方墳があり、南群には前方後方墳が1基、円墳が1基、方墳が12基の計14基があるということです。

 やはり、四角形が優勢なんですね。



 12号墳がないですが、もしかしたら後になって古墳ではないことが分かったのでしょうか?

 なお、富山市考古資料館の展示によると、富崎千里9号墳の築造時期は、先ほど訪れた勅使塚古墳よりも古く、富山県で最古の古墳になるようです。

 しかしここは、完全に侵入不能ですね。



 季節を選べばもしかしたら行けるかもしれませんが、何とも言えません。

 この場所もツアーで来ることはできませんね。

 以上で王塚・千坊山遺跡群めぐりを終えますが、この成果をもとにツアー本番の行程を考えることにします。

 つづいて氷見市方面へ向かいますよ。

 (つづく)

 

4.補足                             


 2021年7月20日の探訪では、王塚・千坊山遺跡群の遺跡のうち、王塚古墳、勅使塚古墳、富崎墳墓群、富崎千里古墳群の4か所を訪れました。

 実は昼休憩をとったローソンの近くに弥生時代の集落跡である千坊山遺跡があったため、近辺まで歩いて行ったのですが、何も見つけられず戻りました。

 帰宅してからWebを見たところ、説明板が設置してあるようで、それを見られず残念でした。

 では、何度も使わせていただいていますが、富山市考古資料館の展示パネルで遺跡を確認してみましょう。



 「国指定史跡 王塚・千坊山遺跡群」に含まれているのは、私が訪れた王塚古墳、勅使塚古墳、富崎墳墓群、富崎千里古墳群、千坊山遺跡(説明板を見つけられなかった)、それに今回訪れなかった六治古塚墳墓(四隅突出型墳丘墓)と、向野塚墳墓(前方後方形墳丘墓)です。

 Webで確認したところ、六治古塚墳墓は墳丘が残っているようですが、向野塚墳墓の墳丘は隠滅しているようです。

 『王塚・千坊山遺跡群』(大野英子/著)によると、旧石器時代から中世に至る複合遺跡である千坊山遺跡では弥生時代終末期の集落跡(当該期では県内最大規模の集落跡)が見つかっており、六治古塚墳墓、それと向野塚墳墓がこの集落に対応した墳墓となります。

 時期的に見ると、富崎墳墓群の3基の四隅突出型墳丘墓も後期から終末期にかけて築造されていますが、その中でも私が現地で確認した3号墓が最も古い弥生時代後期後葉の築造となり、富山県内で最古の四隅突出型墳丘墓となります。

 なお、有名な島根県出雲市の西谷墳墓群が築造され始めたのも後期後葉で、伝播の経路を考慮すると、西谷墳墓群で最古の西谷3号墓につづいて福井県福井市の小羽山30号墓(北陸最古の四隅突出型墳丘墓で突出部を加えた墳丘サイズは28×33m)が築造され、そのあとに富崎3号墓が築造されたと考えてよいでしょう。

 富山市のあたりは四隅突出型墳丘墓の東限ですが、『塩川町埋蔵文化財調査報告4 舘ノ内遺跡』によると、福島県喜多方市(旧塩川町)の舘ノ内遺跡の1号及び2号方形周溝墓は、四隅突出型墳丘墓の影響を受けての造営が推測され、東北地方最古段階の周溝墓(墳墓)と考えられています。

 出雲の王墓と言われる四隅突出型墳丘墓と同様の形態の墳墓が王塚・千坊山遺跡群にあるということは、普通に考えてこの地(越=古志=コシ)の首長と出雲の王は関係がありますね。

 時期的には北部九州で伊都国や奴国が中心となって大きな政治連合が結成されていた頃、出雲は出雲で独自の動きをしており、出雲は日本海沿いに東側に調略の手を伸ばしていたようです。

 出雲から古志へ海岸沿いに向かうと、その途中には丹後半島があります。

 丹後(丹波=タニハ)には台状墓という形態の墳墓が見られるため、独自の王権が存在したと考えられ、近年では丹後半島でも四隅突出型墳丘墓の発見があったものの丹後半島には出雲の力は及びづらかったようです。

 では、古志の王が出雲の王の支配下にあったかというとそうとも言えず、古志の王は出雲の王の強力なパートナーとして存在し、ヤマト王権が畿内に発足して北陸に触手を伸ばしてきた後も、出雲と同様、そう簡単にはヤマトには屈しなかったと考えます。

 

5.参考資料                           


・『塩川町埋蔵文化財調査報告4 舘ノ内遺跡』 塩川町教育委員会/編 1998年
・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年
・『出雲弥生の森博物館 展示ガイド』 出雲弥生の森博物館/編 2010年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」123 出雲王と四隅突出型墳丘墓』 渡辺貞幸/著 2018年



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