発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり
お勧め度:
1.基本情報
所在地
山梨県甲府市下曽根町
現況
古墳
史跡指定
国指定史跡
史跡名:銚子塚古墳附丸山塚古墳
指定日:昭和5年2月28日
出土遺物が見られる場所
山梨県立考古博物館
東京国立博物館・平成館
2.諸元
築造時期
4世紀後半
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:169m 後円部径:92m 後円部高:15m 前方部幅:68m 前方部高:8.5m
段築:3段築成
葺石:あり
埴輪:あり
主体部
竪穴式石室
長さ:6.5m 幅:0.9m 高さ:1.35m
出土遺物
周堀
あり(前方後円形)
3.探訪レポート
2018年11月7日(水)甲信古代史探訪 その10
この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館
⇒前回の記事はこちら
丸山塚古墳に続いて、すぐ隣にある銚子塚古墳へ登りますよ。
銚子塚古墳は全長が169mもあり、4世紀後半の時点では東日本全体を見渡しても、宮城県名取市の雷神山古墳が銚子塚とほぼ同じ168mですので、両者はヤマト王権からすると東日本の二大与党ということになります。
銚子塚古墳は、私的には景行天皇の陵の可能性が高い渋谷向山古墳の平面形と似ていると感じますので、時代を見ても、この被葬者はヤマトタケルのモデルとなったヤマトの将軍の斡旋で景行の有力な支持者となったのではないかと考えています。
なお、両者と近い時期の古墳としては、もしかすると銚子塚より一世代後になるかもしれませんが、群馬県高崎市の浅間山古墳が両者とほぼ同じ大きさの171mなので、何か関連性があるかもしれません。
ちなみに、5世紀前半には群馬県太田市に太田天神山古墳(210m)が築かれ、当該古墳が古墳時代全時代を通じて東日本最大の古墳となりますが、太田天神山の時期にはヤマトのトップは景行系から応神系へ変わっており、この地の王に対しても対応が変わったことが想像できます。
前方部に登ります。
前期古墳らしく、後円部との比高差がありますね。
周溝は墳丘の形状に沿った形です。
後円部へ登ります。
こちらも広い・・・
これだけ広いと複数の主体部を期待できますね。
主体部の表示。
さきほどの丸山塚の被葬者はもしかすると女性かも知れませんが、こちらは鉄鏃片が出ているので男性でしょう。
特筆すべきは、5面出た鏡に三角縁神獣鏡が含まれていることで、甲信以東では三角縁神獣鏡の出土は少なく、被葬者の特別な地位が想像できます。
※東京国立博物館・平成館展示の甲斐銚子塚古墳出土・三角縁神獣車馬鏡(2019年9月3日撮影)
後円部から前方部を見下ろすとこの標高差。
これが前期古墳の素晴らしいところ!
後円部の高さが15mなのに対して、前方部の高さは8.5mですから、かなりの高低差がありますよ。
北側を見下ろします。
銚子塚の主軸と丸山塚の中心軸が合っていないところがまた面白い。
前方部に降りました。
では、墳丘の周りを一周してみます。
墳丘の周りにも説明板があります。
くびれ部分で祭祀が行われていたんですね。
おや、変わったものが建ってる。
凄いね!
こんなものが見つかったんだ・・・
木製品の出土が多いのも甲斐銚子塚古墳の特徴の一つですね。
これまた何かありますよ。
造出とは呼ばす、突出部と呼んでいます。
国史跡の標柱。
全体を写真に収めたいなあ・・・
側面は無理そうです。
一番好きなアングルで辛うじて撮れました。
これ以上は下がれません。
これで銚子塚古墳は一通り見たので、車へ戻ります。
いや、改めて見てみても、丸山塚古墳もでかいねえ。
⇒この続きはこちら
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