⇒前回の記事はこちら
森将軍塚古墳は有名な古墳ですが、今までなかなか探訪の機会がなく、ようやく訪れることができました。
そして長野県内にはもう一つ、以前から行ってみたいとずっと思っている古墳があるのです。
松本市の弘法山古墳。
国内最古級の前方後方墳です。
今でこそ古墳については講座やツアーでお客様に対して解説したりしていますが、実は古墳探訪を始めたのは2009年のことで、まだ9年しか経っていないのです。
当初はまずは自宅近くの古墳や古墳の跡地をいくつかめぐり、翌2010年に母の故郷の宮崎県に家族で行ったときに、私だけ別行動で西都市の西都原古墳群を見てきました。
それにより古墳への興味が爆発してしまったのです。
つづいて、いろいろ調べているうちに、2013年には前方後方墳に対して異様に興味が湧き、その年のGWに前方後方墳を見に行くことにしました。
そのとき候補に挙がったのが、松本市の弘法山古墳と群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳で、そのときの気分で訪れたのは元島名将軍塚古墳でした。
面白いことにその後縁があって、元島名将軍塚古墳はクラツーのツアーで何度もご案内していますが、弘法山古墳にはなかなか行く機会がなく、今日、ようやくその機会が訪れたわけです。
あれから5年・・・
5年間想い焦がれた会ったことのない恋人に会いに行くような気分です。
森将軍塚古墳を出て更埴ICから長野自動車道に乗ると、あっという間に松本に到着。
古代人からすると瞬間移動のようなものですね。
まずは松本市立考古博物館へ行ってみようと思います。
おや、あの山の上には古墳があるんじゃないか・・・
初めて来たまったく土地勘のない場所ですが、遠望した丘になんとなく古墳の匂いがしたので、近くに車を止めて確かめに行きます。
おっと、説明板発見!
なんだー、先に古墳に来ちゃった。
まあいいでしょう。
遊歩道を歩いて丘を登っていきます。
あれかな?
よし、弘法山古墳に到着!
さっそく墳丘に登ります。
ここもまたいい眺めだなあ。
西側の松本市街地の眺めです。
あれ!
建物の看板に大きく「古墳」って書いてある!
なんだ、「古着」か・・・
弘法山古墳は墳丘長66mの前方後方墳で、先ほどから強調している通り国内最古級の前方後方墳で、その築造時期は3世紀半ばから後半と考えられます。
古墳の造られている場所は中山と呼ばれる南北約3㎞の独立丘の北側先端部分で、前方部が北西へ向いており、墳丘からは東・北・西の眺望が開けています。
後方部から前方部を見ます。
北北西、3㎞強の地点には松本城がありますが見えませんね。
あの山が終わっているあたりの手前にあるはずなのですが・・・
しかし、いい眺めだ・・・
後方部の墳頂には主体部の表示がありますよ。
東海系の土器・・・
ククク・・・
前方後方墳の見どころは、後方部の角の部分ですが(前方後円墳の場合は、後円部は丸いので角がない)、後方部のエッヂは効いていません。
今度は前方部へ。
前方部から後方部を見ます。
初期の古墳らしく高低差がありますね。
でもそもそも、前方後円墳と前方後方墳は出自が違うので、前方後円墳で説明されるような墳丘デザインの変遷が前方後方墳に当てはまるとも限りません。
くびれ部分はあまりよく分からないかな。
あ、よく見る特急が走ってる!
南松本駅ですね。
ここも中央線の駅ですから、我が家の最寄り駅の高尾駅から一本です。
※ちなみに各駅停車でも松本行きがあるのですが、例えば9時47分高尾駅発に乗ると松本駅到着はなんと14時です!
墳丘全体を写真に収めたいなあ・・・
でも丘の上にあるので下がれる位置にも限界があります。
これ以上は無理。
よし、念願の弘法山古墳を見ることができた!
冒頭にお伝えした通り、私は前方後方墳に異常に執着しているのですが、その理由は、関東地方の初期古墳は前方後方墳が多く、それらは東海の勢力が関東に入部して築造した古墳だからです。
関東の初期古墳を関東の地元の人ではなく東海地方の人びとが造ったという事実を知った時に、一気に興味が最高潮に達してしまったのです。
在地でもヤマトでもなく東海!
古墳時代の初め、東海勢力は関東に軍事侵攻をしたのでしょうか、それとも平和裏に関東を治めたのでしょうか。
時代的にはちょうど邪馬台国の卑弥呼が亡くなる前後になります。
ですから、邪馬台国とも絡めて東日本の古代史を探求するときに重要な鍵を握るのが東海人や彼らの造った前方後方墳なのです。
私自身、今はまだ調査を進めている段階でまとまった話をできる状況ではないのですが、もう少し進展したら皆さんにご報告します。
では、松本市考古博物館へ向かいましょう。
⇒このつづきはこちら
ところで、長野県の県庁は長野にありますが、広大な長野県(ほぼ古代の信濃国の範囲)において、長野は北に偏っていますよね。
松本だとちょうど真ん中で良かったのにと思う方もおられるかもしれません。
その辺の経緯は、こういった本を読むと分かりやすく解説されていますよ。
明治になって新しい行政区画が誕生したのですが、今から1300年以上前に律令国家を作るときにもそれまでの国造を解体して評という単位に編成し直したりしました。
明治の官僚たちはもちろん律令国家のやり方を勉強していたはずです。
こういった行政区画の変遷の歴史も楽しいですね。
森将軍塚古墳は有名な古墳ですが、今までなかなか探訪の機会がなく、ようやく訪れることができました。
そして長野県内にはもう一つ、以前から行ってみたいとずっと思っている古墳があるのです。
松本市の弘法山古墳。
国内最古級の前方後方墳です。
今でこそ古墳については講座やツアーでお客様に対して解説したりしていますが、実は古墳探訪を始めたのは2009年のことで、まだ9年しか経っていないのです。
当初はまずは自宅近くの古墳や古墳の跡地をいくつかめぐり、翌2010年に母の故郷の宮崎県に家族で行ったときに、私だけ別行動で西都市の西都原古墳群を見てきました。
それにより古墳への興味が爆発してしまったのです。
つづいて、いろいろ調べているうちに、2013年には前方後方墳に対して異様に興味が湧き、その年のGWに前方後方墳を見に行くことにしました。
そのとき候補に挙がったのが、松本市の弘法山古墳と群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳で、そのときの気分で訪れたのは元島名将軍塚古墳でした。
面白いことにその後縁があって、元島名将軍塚古墳はクラツーのツアーで何度もご案内していますが、弘法山古墳にはなかなか行く機会がなく、今日、ようやくその機会が訪れたわけです。
あれから5年・・・
5年間想い焦がれた会ったことのない恋人に会いに行くような気分です。
森将軍塚古墳を出て更埴ICから長野自動車道に乗ると、あっという間に松本に到着。
古代人からすると瞬間移動のようなものですね。
まずは松本市立考古博物館へ行ってみようと思います。
おや、あの山の上には古墳があるんじゃないか・・・
初めて来たまったく土地勘のない場所ですが、遠望した丘になんとなく古墳の匂いがしたので、近くに車を止めて確かめに行きます。
おっと、説明板発見!
なんだー、先に古墳に来ちゃった。
まあいいでしょう。
遊歩道を歩いて丘を登っていきます。
あれかな?
よし、弘法山古墳に到着!
さっそく墳丘に登ります。
ここもまたいい眺めだなあ。
西側の松本市街地の眺めです。
あれ!
建物の看板に大きく「古墳」って書いてある!
なんだ、「古着」か・・・
弘法山古墳は墳丘長66mの前方後方墳で、先ほどから強調している通り国内最古級の前方後方墳で、その築造時期は3世紀半ばから後半と考えられます。
古墳の造られている場所は中山と呼ばれる南北約3㎞の独立丘の北側先端部分で、前方部が北西へ向いており、墳丘からは東・北・西の眺望が開けています。
後方部から前方部を見ます。
北北西、3㎞強の地点には松本城がありますが見えませんね。
あの山が終わっているあたりの手前にあるはずなのですが・・・
しかし、いい眺めだ・・・
後方部の墳頂には主体部の表示がありますよ。
東海系の土器・・・
ククク・・・
前方後方墳の見どころは、後方部の角の部分ですが(前方後円墳の場合は、後円部は丸いので角がない)、後方部のエッヂは効いていません。
今度は前方部へ。
前方部から後方部を見ます。
初期の古墳らしく高低差がありますね。
でもそもそも、前方後円墳と前方後方墳は出自が違うので、前方後円墳で説明されるような墳丘デザインの変遷が前方後方墳に当てはまるとも限りません。
くびれ部分はあまりよく分からないかな。
あ、よく見る特急が走ってる!
南松本駅ですね。
ここも中央線の駅ですから、我が家の最寄り駅の高尾駅から一本です。
※ちなみに各駅停車でも松本行きがあるのですが、例えば9時47分高尾駅発に乗ると松本駅到着はなんと14時です!
墳丘全体を写真に収めたいなあ・・・
でも丘の上にあるので下がれる位置にも限界があります。
これ以上は無理。
よし、念願の弘法山古墳を見ることができた!
冒頭にお伝えした通り、私は前方後方墳に異常に執着しているのですが、その理由は、関東地方の初期古墳は前方後方墳が多く、それらは東海の勢力が関東に入部して築造した古墳だからです。
関東の初期古墳を関東の地元の人ではなく東海地方の人びとが造ったという事実を知った時に、一気に興味が最高潮に達してしまったのです。
在地でもヤマトでもなく東海!
古墳時代の初め、東海勢力は関東に軍事侵攻をしたのでしょうか、それとも平和裏に関東を治めたのでしょうか。
時代的にはちょうど邪馬台国の卑弥呼が亡くなる前後になります。
ですから、邪馬台国とも絡めて東日本の古代史を探求するときに重要な鍵を握るのが東海人や彼らの造った前方後方墳なのです。
私自身、今はまだ調査を進めている段階でまとまった話をできる状況ではないのですが、もう少し進展したら皆さんにご報告します。
では、松本市考古博物館へ向かいましょう。
⇒このつづきはこちら
* * *
ところで、長野県の県庁は長野にありますが、広大な長野県(ほぼ古代の信濃国の範囲)において、長野は北に偏っていますよね。
松本だとちょうど真ん中で良かったのにと思う方もおられるかもしれません。
その辺の経緯は、こういった本を読むと分かりやすく解説されていますよ。
物語廃藩置県 | |
高野 澄 | |
新人物往来社 |
明治になって新しい行政区画が誕生したのですが、今から1300年以上前に律令国家を作るときにもそれまでの国造を解体して評という単位に編成し直したりしました。
明治の官僚たちはもちろん律令国家のやり方を勉強していたはずです。
こういった行政区画の変遷の歴史も楽しいですね。