
5月1日のあさ空…を撮り忘れました。
あさ、ブログを書いている時間帯と撮影時間が重なり、さらにごみ出しとか、朝ごはんを何つくろうとか一緒に考えているうちに撮影した気になってしまいました。時間はあるのに、一度に何もかもやろうとしてしまう習慣はなかなか抜けないものです。もちろん、仕事復帰したらあたりまえのことなので、「あえて」意識する必要があるかなとも。
あさ空は曇りでしたが、午後からは本格的な雨になった一日。

5月1日は父の誕生日。生きていたら、どんな余生だったのかなと想像します。メーデー生まれだと気がついたのは、いつのころだったのか。かなり小さいときだったとは思いますが、メーデーの意味を知り。今風に言えば「マジ?」という気分になりました。というのも、こんなにメーデー生まれらしい人はいないので、とても驚いたのです。労働者のために闘った人でした。あまりにも会社に闘いを挑み過ぎて、まわりの方には「クビになるのでは?」と心配されていたようですが、父は意に介さず、社史にも残る働きをしたことは、間違いなく。父が亡くなったときはすでに定年退職していたにもかかわらず、社内放送があったとか。「巨星墜つ」という見出しで社内に報じられたそうです。葬儀にも本当にたくさんの方が足を運んでくださいました。
闘う人間としての境地は敗戦による日本の価値観の大変化で起きたもののようでした。とはいえ、父は一般的な戦後の物不足、食料難については未経験。父の祖父、私の曾祖父は一代で財を成した実業家で、娘(私の祖母)が産んだ初孫である父を自分の跡取りとして、手元に連れて来て育てたそうで、父は両親や妹たちとの家庭を知らずに育ってしまい、どこか、家庭的なあたたかさがどんなものかがわかっていなかったのではないかと思えることがありました。
曾祖父の家での父は大勢の使用人の方たちに上げ膳据え膳され、「お刺身を食べたくない」と言えば、曾祖父が「早く焼いてやらんか」と一喝。お刺身を焼いたものがすぐに出されていたそうです。それがためか、父は骨付きの焼き魚を食べるのがとても下手で、見かねた私は焼き魚を焼いたら、骨と皮をのぞいて、身だけにして父に出していたほど。戦中戦後の混乱の中、母の方は食べるものに困った子供時代だったので、成長したら、自分であらゆるものを作ろうと思ったようですが(それで料理を究めたようです)、父の方は、そんな世間の事情は全く知らずにお弁当を持たされて、「卵焼きは食べ飽きた」と言ったこともあったらしく、卵なんて贅沢品で口にできない人がほとんどだった時代、いかに父が恵まれていたのかと、私も驚きました。
朝ドラの「寅に翼」で、伊藤沙莉さんが卵焼きの入っているお弁当を隠しながら食べるシーンがあって、父のお弁当のことを思い出したのでした。 花岡が闇市の食糧を一切拒否したせいで、栄養失調で亡くなったというエピソードにつながるシーンです。
横道に逸れました。父の生い立ちにもどると、父が小学校に入学したときには、今の金銭感覚で言えば数千万円の貯金をプレゼントされたそうですが、戦後の貨幣価値の激変で、それは紙くずにしかならなかったそうで、そのことについては父も残念がっていました。それでも、夏休みには1か月も旅館を借り切ってもらって遊ばせてもらい、舟遊びには別の舟からその様子をプロに撮影してもらうなどのお坊ちゃまぶりだったようです。その当時、家を出ると、その周辺のすべてが曾祖父の家作だったそうで、お坊ちゃまのご機嫌取りに、写真館の方が1枚の写真に父の違う2枚の写真をおさめた合成写真を撮ってプレゼントしたり、床屋さんなども顔パスで、いちいち支払わなくても、家の方にまとめて請求がされていたとか。その合成写真の父にはなぜか手首ではなく、腕に腕時計をしている写真があって、不思議がっていたら、それは子供用の時計などがなかったので、曾祖父が大人用のものを買ってやり、手首には大きすぎたので、腕にしていたのだそうです(笑)
そんな父ですから、何もかも身の回りのことをしてもらうのがあたりまえで、あまりにも独善的なので、私は心の中で父のことを「殿」と呼び、自分は使用人だと思って父のお世話をしていました。もちろん、母は母でお嬢様育ちだったので、そのような父と合うわけがなく、若いうちは母も何とか父に合わせてはいたものの、次第に夫婦仲は決裂。私が父のお世話をするのが当たり前になってしまったのでした。父の葬儀で妻と間違われたお話は以前、書いた通りです。
父は戦後、東京に大学進学したのですが、政治活動に身を入れ過ぎ、祖父が無理やり郷里に連れ帰ったそうです。おそらく、そのまま東京にいたら、政治家として活動していたのではないかと思いますので、父も兄も私も、東京から鹿児島に帰らされたことで、やりたかった仕事から遠のいたということになったのかと思います。こんな年齢になっても、「あのまま東京で仕事を続けられていたら」と思ってしまうほど、鹿児島の土地も人も好きだとしても鹿児島で生きていくのは経済的に大変だったなと思うのです。今もそうですが。
ゆう空。雨続きました。

スイカが出て来る時期もものすごく早くなりましたね。4月にはあたりまえのように店頭に並んでいます。個人的にはまだ、早いかなと思っていましたが、昨日の日中は暑かったので、安売りのカットスイカの小さなパックを買ってしまいました。安かったけれど、今日、いただいてみたら、とてもおいしいスイカでした。これからはさくらんぼの季節ですね。お高いけど。昔はさくらんぼ→スイカだったのに、季節感逆転です。

西瓜は俳句の季語としては秋になるそうですが、今のように4月にはあたりまえのように出回っていると、季語の季節感と遊離してしまいそうだなあなんて思いつつ、スイカを食べました。初夏と呼ぶにもまだ早そうな寒い午後。
しっかりあったから
そのなごりがあったのですよね。
今裕福な家庭!を語っていたら、なにか
差別だとか、変なやっかみを食らいそうなお話は やっぱりあるんだなって思いました
reicobaさん、やっぱり縁があるんだ!
痛感しました…うんうん
コメント、うまく書けなくてすみません
>昭和は長かった…... への返信
いつもコメントをありがとうございます。
今日のコメントは意味が読み取れなくてごめんなさい<(_ _)> 何か私が書いたことが自慢話のように受け取られたのかな?と思いますが、そうでしたら、本当に申し訳ありません。そういうつもりでは全くないし、私は何ひとつ恩恵は受けていないので、ご不快でしたらお許しください。なんだか、いろいろと気を付けて書いているつもりですが、コメントをいただくと、難しいものだと反省しています。