競争は、参加する機会を平等に与えられ、ルールに則って公正に行われるならば大いに結構だ。しかし、殺し合い、奪い合いといった暴力的な争い事は避けるに越した事はない。では、争いは何故起こるのか。
他者に攻撃を加える行動の目的には、経験上2種類あると思う。1つは狩猟・捕食、もう1つは恐怖心から来る自己防衛だ。大抵の人には、後者が関心事だろう。
もう少し詳しく言うと、攻撃行動は自分自身、または自分に属する何かを護るために行われる。仕事、プライド、時間、故郷、親友、信仰等何でもよいが、自分のナワバリが何かに侵されている、脅かされているという恐怖心からパニックに陥った時、人は怒ったり攻撃的になったりする。
従って、人々が不毛な争い事を起こさず、生産的なWin-Winの関係を築くには、自分はあなたに害を及ぼすものではないのですよというメッセージを伝える事が必要だ。そのための実効的な作戦の端的な例が、ナウシカの処世術だ。
彼女はテトに手を噛まれて尚、「怖くない、怖くない。ほら、怖くない」と語り掛けて手懐けたり、クシャナに「貴女は何を怖がっているの?」と問い掛けて銃を取り上げたり、となかなか大胆だ。だが自分の懐を相手にさらけ出して信頼を得るやり口は、流石為政者の家系である。
このように、誠意を持って接する事は、相手の協力を引き出す上で有効な手である。いわばしっぺ返し戦略だ。但しこれは、一対一(サシ)なら比較的奏功しやすいものの、しっぺ返し戦略同様に一対多の場合には最適解でない事が多いように思う。
これには、最初に触れたもう1つの攻撃性が関係していると思っている。マンモスを狩るように、1人で立ち向かうのは無理でも数を恃めば人が攻撃性を顕わにする心理的ハードルが下がる。「敵を服従させ、蹂躙し、消費したい」という願望が集合的無意識となって表れた場合、モラルハザードを起こした圧倒的多数の前に、個は無力だ。
1つの解決策は、名無しさんの集合との一対多の関係を、顔の見える相手との一対一の関係の束に転換する事だ。こうする事で良識と良識とが出会い、互いを潰そうと争うのではなく尊重し合う関係が醸成される可能性が生まれる。
Facebookに見られるような、自分と周りの人間との関係を親子だろうが先生と教え子だろうがFriendかそうでないかの二分法で集約しようとする思想は、個人的には前から持っていた世界観と似ていて割と抵抗なく受け入れられた。
相性があるから、お友達になりたくない相手だっているものだ。だが友達になりたい相手には、友達付き合いを深めようと心を開き、自分の事を知って貰えるよう努力するのが近道だろう。
インターネットの登場によって可能になった他者へのダイレクトなアクセスは、そうした活動を盛んに促す。それによって、緩いが友好的な関係を好み、泥沼のように相手に粘着して不毛な争い事を起こすのを厭う人々が増える。
毎日人が沢山死ぬニュースが絶えないこの時代だからこそ、そんな世の中になればいいと切に願う。
他者に攻撃を加える行動の目的には、経験上2種類あると思う。1つは狩猟・捕食、もう1つは恐怖心から来る自己防衛だ。大抵の人には、後者が関心事だろう。
もう少し詳しく言うと、攻撃行動は自分自身、または自分に属する何かを護るために行われる。仕事、プライド、時間、故郷、親友、信仰等何でもよいが、自分のナワバリが何かに侵されている、脅かされているという恐怖心からパニックに陥った時、人は怒ったり攻撃的になったりする。
従って、人々が不毛な争い事を起こさず、生産的なWin-Winの関係を築くには、自分はあなたに害を及ぼすものではないのですよというメッセージを伝える事が必要だ。そのための実効的な作戦の端的な例が、ナウシカの処世術だ。
彼女はテトに手を噛まれて尚、「怖くない、怖くない。ほら、怖くない」と語り掛けて手懐けたり、クシャナに「貴女は何を怖がっているの?」と問い掛けて銃を取り上げたり、となかなか大胆だ。だが自分の懐を相手にさらけ出して信頼を得るやり口は、流石為政者の家系である。
このように、誠意を持って接する事は、相手の協力を引き出す上で有効な手である。いわばしっぺ返し戦略だ。但しこれは、一対一(サシ)なら比較的奏功しやすいものの、しっぺ返し戦略同様に一対多の場合には最適解でない事が多いように思う。
これには、最初に触れたもう1つの攻撃性が関係していると思っている。マンモスを狩るように、1人で立ち向かうのは無理でも数を恃めば人が攻撃性を顕わにする心理的ハードルが下がる。「敵を服従させ、蹂躙し、消費したい」という願望が集合的無意識となって表れた場合、モラルハザードを起こした圧倒的多数の前に、個は無力だ。
1つの解決策は、名無しさんの集合との一対多の関係を、顔の見える相手との一対一の関係の束に転換する事だ。こうする事で良識と良識とが出会い、互いを潰そうと争うのではなく尊重し合う関係が醸成される可能性が生まれる。
Facebookに見られるような、自分と周りの人間との関係を親子だろうが先生と教え子だろうがFriendかそうでないかの二分法で集約しようとする思想は、個人的には前から持っていた世界観と似ていて割と抵抗なく受け入れられた。
相性があるから、お友達になりたくない相手だっているものだ。だが友達になりたい相手には、友達付き合いを深めようと心を開き、自分の事を知って貰えるよう努力するのが近道だろう。
インターネットの登場によって可能になった他者へのダイレクトなアクセスは、そうした活動を盛んに促す。それによって、緩いが友好的な関係を好み、泥沼のように相手に粘着して不毛な争い事を起こすのを厭う人々が増える。
毎日人が沢山死ぬニュースが絶えないこの時代だからこそ、そんな世の中になればいいと切に願う。
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