~Words~

心に宿る言葉たち

10年

2021-03-11 | essay
今日は記憶を辿りながら書いています。10年目の今日だから‥


工業高校電子科を卒業した次男が
否が応でも譲らなかった就職先

東京電力福島第一原発に旅だったのはこのイベントの次の日
2009.3.30でした。

https://blog.goo.ne.jp/rarano-anzu/e/8501c32eb49c571e70f0190e7dab4d5d

何回も説得しても、梃子でも動かない意思。
振り返りもせず、旅だったのを昨日のことのように覚えてます。
次男は物心ついた頃から本当に電気が好きで、親としては少々心配はあったものの。
次男の持ち場は1号機と3号機の制御を司る仕事。少し離れたコントロール室で幾つもあるスイッチの切り替えをする仕事。
地震が起こるまでの2年間は帰還する度に凛とした成長ぷりと、その信念を見るにつけ天職だったのだろうなと思いました。


東日本大地震の日は奇しくも
一番下の娘の中学卒業式。

卒業式と吹奏楽の卒部式。全て終わる頃14時30分過ぎていただろうと思います。
家に帰ってテレビをつけることもなくホッとしたその時一本の電話がありました。

それは地震があった事を伝える
次男からの電話。

慌ててテレビをつけて、愕然とする風景に只々呆然と立ち尽くしたあの日。

丁度、次男は東京研修のため福島には居なかったと言う事実に少しだけ気持ちを落ち着かせる事が出来た事を思い出します。

それでも、1ヶ月ぐらい経って作業員として片付けに入らなくてはならない事を次男から聞かされた時には居ても立っても居られなかった。

毎日毎日爆発を繰り返す原発。お世話になった大熊町の寮も当番のおばちゃんも居ない。そんな現実を見るにつけ、聞くにつけ、何もできない自分に腹立たしく、行き場のない怒りが込み上げる毎日。

正に悪夢の日々。戦時中に戦ってる誰かを待ってる人の気持ちって多分こんな感じだったんだろうなと思います。


地震から3年が経とうとしていました。そんな折、一本の電話がありました。それは、次男の上司

廃炉処理の指揮を取る東電の先輩からの電話でした。

最近、麻人くんが元気がないと。
片付け作業で疲れているのではないか?もしも、辞められるんだったら止めはしないと‥

次男の事を心底心配しての連絡でした。

その年の5月どう考えているのかを確かめに福島へ。

次男は福島が東電が仕事が大好きだったので、私達が帰還を勧めなければ、きっと今でも福島に居たんだろうけど、この先の事を考えるとやっぱり親としては帰って欲しい。

一つ一つの選択が、次男にも私たちにも本当に痛いほど辛くて。。

それでも考えて考えて
翌月の6月福島から車で帰ってきました。

手放しでは喜ばない、しかしこれでとりあえず落ち着く。

これからまた1から始めればいい。
希望を持って。。
幸い、私の知り合いが電気に関わる仕事をしていて、良かったら働いてみないかと言われ、帰還して間もなくしてそこにお世話になることになった。2014年の夏。

一安心はそこから2年ほどでした。

震災鬱。

障害というレッテルを掴んでしまっている今ですが、

このままじゃ終わらないですもんね。

終わらせないよ。って思いは強く強くあります。

私担当の神は本当にコクな神だなと思います。

一昔前は自分自身で立ち上がれ。と言い
それがクリア出来たら今度は、あの子を立ち上がらせろ。と課題を出す。

大丈夫!親子してクリアしますから!




一生かけて付き合う所存です。
10年目の震災の日に寄せてー