私が悠河ファンをやめない限り半年のお付き合いになるはず。
何度危機が襲ってきたことか。年を食ったA型女があの一月の大和悠河ファンをするのはなかなかきついものがある。
「バレンシアの熱い花」フェルナンドデルバレス。柴田先生演出、中村先生演出。
私はただ舞台をぼーっと見ている人なので、どの先生がどうとかは
全然わからない。ただ、その作品が好きかそうじゃないか・・だけ。
元来、集中力がないので、宝塚の作品を見て
色々気になることが多く、まともに芝居に集中できない。
文字を読んで、自分の頭の中で、
好きな人間に好きな洋服を着せて好きな声の高さで話させるのが一番好き。
脳内以上にイメージを表現してくれるのは映画くらいのものだろうか?
舞台は所詮人間が生でやるものなのでかなりの規制があって、
自分の脳内でできた物より
優れた作品に出会う事はなかなかない。
宝塚の場合、女性が演じるし、または役に役者を合わせるのではなく
役を順位に合わせるので、自分の想像の人間と異なる演技をする人が一人でも混ざると、もうその世界に入り込めない。
そういう意味で、ここ数年でまともに芝居の中に入っていけたのは数えるほどしかない。きっと私は芝居や舞台鑑賞に向かない人間なんだと思う。
と、前置きが長くなった。
要するに私の感想はとても当てにならない・・という事だ。
しかし、見たので一応感想を書く。
24日午前、午後観劇。
初日映像を見て、宝塚らしい作品だなーと思った。
そして、「大和悠河がこれをやるのか、ふーん」と思った。
私が大和悠河を注目するようになったのはかりんちょさんのファンの影響で
月を見るときには、かりんちょさんを目指すというタニちゃんをチェックしていたわけだ。何度か見て面白かったのは、なぜかタニちゃんは、「杜さんを目指している」というのに全く違う方向に進んでいるとしか見えなかったからだ。
見るたびに全く反対の方向へ成長している様に見えた。
本気でかりんちょさんを好きなのか、ポーズで言ってるんじゃないか?と思うほど。
宝塚の歴史の中で、いくつかの溝がある。何かの本に書かれていたけど
最後の「らしい」タカラジェンヌ・・しめさん。それを読んでなるほど・・と思った。
しめさんの時代には、月の天海ゆりちゃんが台頭していて、芝居は「自然に演じる」という方向に流れていっている様に感じたから。
それ以降も真矢さんや真美ちゃんのようなエンターティンメント性の強い
現代的な宝塚・・がどんどん出てきていたし。
で「バレンシア」これは、まさしく宝塚らしい作品。
昔のタカラジェンヌは何だか無駄な熱さがあった気がする。
タカラジェンヌでいることに迷いがないというか。
臭くても臭くても全然気にしない、というかもしかして
気づかなかったかもしれない・・って言う人がやっていたような気がする。
悠河さんもスタンスはそっちなんで、きっと私はこういう作品を楽しんでやっていることだろうと思う。思うけど全く反対方向のものが出るのが悠河さんな訳で。
初日のみんなの感想が「昔ながらの宝塚で舞台テンポが遅い」という事で
ますます・・「ふーん、それを大和悠河がするか」との思いを強めた。
大和悠河と言う人は、私は基本的に「舞台人」には向いてないと思う。
向いている、向いてないって言うのは私が決めることではないし
色々な舞台はあるけれど
舞台で本人が気持ちよく演技して、見るほうが気持ちよく見られる人人というのは
それ程多くはない。
そういう意味で、大和悠河は舞台には向いていないと思っている。
まず、顔が小さすぎる。そして声が響かない。声と言うものは、持って生まれたものなので、舞台に合う声・・例えばそれは声を職業とする人々・・アナウンサーだったり、
声優だったり・・そういう人には「才能がある」と感じる。
では、ダンサーとしてはどうか?背中が固い、股関節も固い。手足のつき方が
ダンサー体型じゃない。これは、悠河さんが宝塚に嵌って、バレエではなく
宝塚受験校に行ってしまったところにも、問題があるように感じる。基本だけでもやるべきだった。空間の使い方、空気の動かし方が上手ではない。
しかし、彼女にしか表せないダンスと言うものも当然存在する。
主演になった今、振り付け師さんによって、彼女の長所は遺憾なく発揮されるだろう。
宝塚は、普通の舞台とはまた違う。宝塚の男役は美しいこと。これは大変重要視される。何より彼女の良いところは、その性格だ。何度もここに書いているかも知れないが、とにかく慌てない。腰をすえて時間も忘れ没頭できる。そして、それが彼女の舞台の天真爛漫さとして表に表れる。
どんどん話がずれていく。
「バレンシア熱い花
消えた・・・ to be コンテニュー