目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-01-17#3 Littleness versus Magnitude

2009-01-17 14:12:26 | Chapter 15
http://www.nwffacim.org/default.aspx 原文


Littleness Versus Magnitude

次のセクションは「卑小さと巨大さ」(Littleness Versus Magnitude )と題されています。


“Be not content with littleness, but be sure You understand what littleness is, and why You could never be content with it. Littleness is the offering You gave Yourself. You offered this in place of magnitude, and You accepted it.”
〔卑小さに満足することは止めなさい。卑小さとは何か理解し、なぜそれでは満足できないか知りなさい。 卑小さとは、貴方が自分自身へ捧げた物です。 貴方は卑小さを巨大さの代わりに捧げ、自分でそれを受け入れたのです。〕  

これは、今まで私が話してきた事です。 貴方は、自分の絵を作り上げてきたのです。 貴方は卑小なルールを作ってきました。 そのルールは、貴方を不安にし、疑いを抱かせます。 貴方は、自分で作り上げたルールを、とても意識的に何度も繰り返して遂行したのです。

その結果、貴方が描いた自身の絵は、博愛主義者やメンターを描いていません。
〔貴方はこれを(卑小さを)、巨大さの代わりに捧げ、それを自分で受け取ったのです〕

貴方が卑小さを受け入れた事により、それはあたかも法律として制定されたようになり、貴方を規制するようになったのです。 貴方は今でも自分を治めていますが、現在は意識的に卑小さを使用して自分を治めるています。

“Every Thing in this world is little, because it is made out of littleness, in the strange belief that littleness can content you.”
〔この世界にある全ては卑小なものです。何故なら、卑小さが貴方を満足させられるという不思議な考えに基づいて、全てが卑小さから作られているからです。〕 

貴方は天国を再定義したのです。無限のものをそれ以下に限定させたのです。 つまり卑小さを作り出しました。

〔この世にある全ては〕 貴方が自分で定義して作り上げたものは全て卑小なものです。 何故なら、ここは貴方の卑小さから出来ている世界だからです。 博愛主義者やメンターには到底成れない、卑小さで満足している貴方の卑小さで成り立っている世界です。

貴方はこう疑問に思うかもしれません。「何故貴方は、私が卑小さで満足していると言うのですか?」 卑小さは、無力で傷つき易い貴方を作り、それを克服する欲望をもたらします。 そして不可能に挑戦し始めるのです。自己満足を求め、そして貴方は無知のまま、自己満足を求め続けるのです。

卑小さを乗り越えるプライド(自己満足)に酔う事が貴方を満足させるのです。それが、卑小さが貴方を満足させる、の意味です。

“When You strive for anything in this world with the belief that it will bring You Peace, You are belittling Yourself, and blinding Yourself to Glory.” “ Littleness and Glory are the choices open to Your striving and Your vigilance.” They’re the two choices You have: littleness and Glory. “You will always choose one at the expense of the other.”
〔それが平和をもたらすと考えて、貴方がこの世界で何かを確立しようと闘争(Strive)する時、貴方は自分を卑小なものにしています。そして、(神の)栄光を見えなくしているのです。〕 

〔貴方が神に逆らって骨折り(Strive)をするなら卑小さが、貴方が神を受け入れる献身(Vigilance)をするなら栄光(Glory)が現れるでしょう。〕貴方は、「卑小」と「栄光」の二つの中からどちらかを選ぶことに成ります。片方を選んだなら、もう一方は手に入りません。

“Yet what You do not realize” – each time You choose – “is that Your choice is Your evaluation of Yourself.”
何かを選ぶ際に、〔貴方が気づいていないのは、貴方の選んだものが貴方の自己評価を表しているという事です。〕 博愛主義者やメンターに成るか、愚かな者に成るか?  

愚かな者とは、僅かな金銭を恵んで、貴方が小さい愚者のままでいられる事を邪魔しない人を選んだ者です。

愚かな者とは、卑小なままでも耐えられるよう、貴方の事を称え、貴方のスピリチュアルな成長を助け、貴方の魂を磨いてくれるアイデアを提供してくれる人を選んだ者です。
それは博愛主義ではなく、それはメンターではありません。

“Choose littleness, and You will not have Peace, for You will have judged Yourself unworthy of It.”
〔卑小さを選んだ場合、平和を得ることは出来ません。何故なら、貴方は自分がそれに値しないと判定するからです。〕 自分がそれに値しないと判定するだけでなく。 貴方はそれを(平和を)経験する可能性も否定してしまいます。44:10:6

貴方は、自分の神性を認める事を拒否して、自分に関する真実の経験をさえぎってしまうのです。

“Choose littleness, and You will not have Peace, for You will have judged Yourself unworthy of it. And whatever You offer as a substitute is much too poor a gift to satisfy you.”
〔卑小さを選んだ場合、平和を得ることは出来ません。何故なら、貴方は自分が平和に値しないと判定するからです。その代わりに貴方が選んだものは〕 その代わりに貴方が作り上げた定義は、ギフトを贈らず利己的に振舞う言い訳の為に貴方が作った定義は、〔貴方を満足させるには余りに貧しいギフトです。〕

それは(卑小さは)貴方を本当には満足させません。何故ならそれは、貴方が無敵であるという事実を示さないからです。 それは、罪、病、死を超越した存在としての貴方を示しません。

“It is essential that you accept the fact, and accept it gladly, that there is no form of littleness that can ever content you. You are free to try as may as you wish, but all You will be doing is to delay Your homecoming. For You will be content only in magnitude, which is Your Home. “
〔貴方に満足をもたらす卑小さなど、何処にも存在しない事を受け入れるべきです。それを喜んで受け入れる必要があります。貴方は、それを(卑小さを)何度も試すことが出来ます。〕 実際貴方は何度もそうして来ました。〔しかし、卑小さを試す事は、貴方の帰郷を遅らせるだけです。 貴方を満足させるのは巨大さだけす。 巨大さが貴方の家なのです。〕

ここで一番初めの質問に戻ってきます。 貴方はメンターあるいは博愛主義者として振舞っていますか?

貴方は、他者に与えるという目的を持った存在として、自分を見ていますか? 
貴方は、他者に与える能力がある存在として、自分の事を見ていますか?
与えることが貴方の経験の意味なのです。 

兄弟や姉妹の事を思いやって、関わり、そして1日の終わりに「はい。私は、一人の人と(あるいは複数の人と)関わり合い、彼の為に何かをしました。立ち止まり、〔父よ、貴方と貴方の視点に譲ります。それで私を満たして下さい〕と言いました。」と言えるよう、  

与える能力と、与える意思が、貴方の目的であり役割なのです。

私は、真実があらわになるまで兄弟と関われるよう十分な時間を取ろう。 それが少し難儀でも、私がしたいと思っていたそれ以外の事を止める必要があっても、私は十分な時間を兄弟の為に取ろう。

「私がしたいと思っていた、それ以外の事は、兄弟との関わり合いでは無いので、それによって目覚める事は出来ないと解り始めました。 私がしたいと思っていた、それ以外事は、私の救済とはなりえません。」

私は、ここに座って、なんとなくスピリチュアルな言葉を言っているわけではありません。 私は、貴方が使っている言葉を使っているのです。 もしかしたら、貴方は、救済(Salvation, 救い)という言葉を頻繁には使わないかもしれませんが、その言葉は貴方にとって意味のあるものです。

貴方は何時か必ず救済を体験したいと思うようになります。 しかし、今現在はもう少しだけ、苦しみに耐えられるかもしれないでしょう。 まだ救済は、貴方にとって急を要する事ではないかも知れません。 救済を得るにはどうすれば良いか真剣に探し始めるほど、貴方はまだ困っては居ないかも知れません。


少し前まで戻って読み直しましょう。 

〔今から、貴方のわずかな役割を果たして、聖なる瞬間を見分け始めなさい。 それをするに従って、実際的な指示が出され続けるでしょう。〕

エゴにこう言わせてはいけません。「ポールはラッキーなんですよ。彼は自分のガイドと話が出来て。 私は自分のガイドと話せません。話そうと何度も試したけど、まだ何も起こらないのです。」

そうやって、貴方はストーリーを作り上げ続けるのです。そうやって自分のルールとなるストーリーを作って、それに従い始めるのです。 自信を持って疑いを使い出すのです。

しかし、それは貴方が作り上げた偽りのストーリーで、貴方はそれには縛られていません。 貴方をそこに縛っているのは、貴方がそのストーリー(お伽噺)を確信を持って支持しているからです。

〔それをするに従って、実際的な指示が出され続けるでしょう。〕 その指示を得るには、「私はメンターに成ります」、と確信を持って言わなければいけません。
確信を持って、「私は博愛主義者として行動します」と言わなければいけません。

「私は、自分の考えの枠組みを変えて、兄弟が助けを必要としていないか常に気にかけ、助けることが出来るなら、自分がしていた事を中断して彼を助けよう。 私は指示に耳を澄まして、それに従い、兄弟と関わり合いを持とう。」と言えるように成って下さい。

シンプルな黄金のルールの真実を証明するために、これほど厚い本が必要なのは皮肉とも言えますね。

でも、これは素晴らしいことです。この本を読んでいる限り、〔他者にして貰いたいと思う事を、他者に対して行いなさい。〕と言うシンプルな真実(黄金のルール)を知る絶え間ない機会にさらされ続けるでしょう。 博愛主義者に成りなさい。愛に成りなさい。

愛に成るという事が、どういうことか、自分で定義するのは止めなさい。自分で想像するのは止めなさい。 踏みとどまって、自分の心を静め、自分の思考と意識の源と成ることを放棄し、神か、(神の声であると共に貴方の正気である)精霊と繋がりなさい。 そして、神に寄り添い、神と一体になり、正気を取り戻して、兄弟を祝福しなさい。そして目覚めるのです。

I love you All.

博愛主義者、メンターに成るチャンスに満ちた、目覚めのチャンスに満ちた、日々を楽しんで下さい。

来週、またお会いしましょう。