目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-09-28#2

2009-10-03 03:57:56 | Chapter 15
原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx

September 28, 2009 ©NWFFACIM


“The body is the symbol of the ego, as the ego is the symbol of the separation.”

〔身体とは、エゴのシンボル(象徴)です。 そしてエゴとは、分離のシンボルです。〕

貴方は、神が貴方を創造した(神が貴方を創造し続けている/神が貴方に成っている)マインドの現れです。

貴方は、創造と呼ばれている、無限の永遠の意識なのです。 貴方は、分離を体験していない「意識的気付き」の総体なのです。

しかし何らかの理由で、(貴方の現れである)無限のマインドの中に(貴方が自分自身を現している所に)、まるでシャボン玉を吹いたように、薄い膜の玉が出現しました。

この小さなシャボン玉の中には、存在の小さな部分が入っていました。 その中にある部分は、神の全ての一部(貴方の全ての一部)なのです。 シャボン玉の中の全てのものは、リアルなものなのですが、シャボン玉の膜は人工的な想像上のものです。 しかしその膜が(その境界線が)現在「貴方」として解釈されているのです。

これは新しい体験でした。 初めのうちは楽しい体験でした。 貴方は独立と分離を楽しんだのです。

この非常に薄いシャボン玉(このシャボン玉は自身を保ち続けるだけの力は持っていません)の中に囲われた、無限な貴方の一部を我々はエゴとして認識しています。

こうして分離(薄いシャボン玉の膜)が貴方の無限の一部を囲ったのです。

これが分離のシンボルになりました。 このシャボン玉の中から見た視点(風景)が、急に重要なものに見え出しました。 今まで重要ではなかったものが重要に見えるようになったのです。  この「シャボン玉{の膜}から見たとき重要に見えるようになったもの」が、体です。


“The body is the symbol of the ego, as the ego is the symbol of the separation. And both are nothing more than attempts to limit communication, and thereby to make it impossible.”

だから
〔体はエゴのシンボルです。 そしてエゴは分離のシンボルです。 これら二つは、「コミュニケションを限定する事によって、コミュニケーションを無効にしよう」という試みに過ぎません。〕

コミュニケーション? 何とのコミュニケーションでしょう? 貴方の全て(貴方全体)とのコミュニケーションです。 貴方と呼ばれている、神が創造したものとは、神の無限の意識だからです。

神の自己表現は無限なのです。 そこには(Brotherhood)兄弟姉妹の共同体があります。 貴方の全ての兄弟姉妹が、全ての神の子が、この無限のマインド内(つまり神の中)に居るのです。 これが創造です。 これが貴方の存在の意識体験です。

貴方の無限の一部を小さな玉で囲んで、(それが貴方の全てでは無いにも関わらず)それを貴方の個人的身体として考えた途端、それを貴方を現す「見えるもの、触れるもの」と考えた途端、貴方はコミュニケーションを失います。 その時貴方は、全兄弟共同体との直接的コミュニケーションを失ったのです。

{以下の比喩に関しては、シャボン玉の比喩と分けて考えてください。 非常に似ていますが別の側面を表現しようとしているので、混ぜて考えるとかえって混乱します。 - 訳者}

以前これに関しては次のような比喩を使って説明しました。 大きな結晶体があると考えてください。 それはダイアモンドの様な多面体です。 その一つ一つの(外側に表れている)平面が個人を象徴しています。  個人としての貴方を含む、全ての神の子の共同体、兄弟姉妹の共同体がこの多面体で現されています。

貴方がこの多面体の中に居れば、貴方は全ての面を内側から眺めることになります。 貴方は、メアリー、ジョー、ピーター、神の子の共同体(Sonship)全て(の各面)を内側から見ることができます。 彼らは貴方の(面の)すぐ傍にいます。 この多面体の内部が、全てのものに対して自分を差し伸べている(自らを拡張している)貴方に当たるのです。

そして他の人たちにとっても、同じ多面体の内部とそれぞれの面が、彼ら(一人ひとりにとって)の総体を形作っています。


貴方達全員が集まって「一つの存在」を構成していると言う事もできます。 この様に考えれば、貴方が全ての人とコミュニケーション出来ることも解るでしょう。 誰も貴方と違ってはいないのです。 と同時に誰も貴方と全く同じではないのです。

しかし現在、貴方の一部を(神の子の共同体の)総体から分離させる想像上の体験が行なわれています。

すると、「多面体を内部から体験して居たのが」急に事態が変わって(貴方が多面体の表面だけに閉じ込められ)(そして表面から多角形の外側だけを見る様になり)、多面体を(言わば)外側から体験する事になったのです。

すると、メアリーやジョーなどの他者を内部から見ることは出来なくなったのです。

それでも貴方の面に隣接してる他者は見えるかもしれません。 しかし今では怒鳴って話さなければ成らなくなりました。

彼らはもう貴方とは繋がっていない(様に見える)ので、彼らの注意を惹くために何か行動しなければならなくなりました。 しかし彼らはすぐ近くに今でも居ます。

この様にして貴方は、コミュニケーションを失いました。 貴方は合一体験を失いました。 貴方はコミュニオン(霊的交歓)を失いました。


“The body is the symbol of the ego, as the ego is the symbol of the separation. And both are nothing more than attempts to limit Communication, and thereby to make it impossible. For Communication must be unlimited in order to have meaning.”

〔体はエゴのシンボルです。 そしてエゴは分離のシンボルです。 これら二つは、「コミュニケションを限定する事によって、コミュニケーションを無効にしよう」という試みに過ぎません。 何故ならコミュニケーションが意味を持つ為には、コミュニケーションを限定してはならないからです。〕

コミュニケーションは内側から起こるもの、全てが繋がっている(分離していない)全体性から起こるものです。


“And deprived of meaning, it will not satisfy You completely.”

〔この様に限定されて意味を失ったコミュニケーションでは貴方は満足できません。〕


そして、多面体の平面に閉じ込められ、そこから外側だけを見ながら、貴方は繋がりや関係を体験しようと努力しているのです。  


“will not satisfy You completely. Yet it remains the only means by which You can establish Real Relationships. ”

〔貴方は満足できません。しかし貴方がリアルな関係を築けるのは(コミュニケーション)を通してだけです。〕

限定されていないコミュニケーションが

“the only means by which You can establish Real Relationships.”
〔貴方がリアルな関係を築ける唯一の方法です。〕


だから目覚めるとは、「二つのステップ」を行なって、父の中に自分を浸して、あるいは多面体の、貴方に相当する面をひっくり返して、内部が見えるようにする感じです。

何故そうなるのでしょうか?
理由は、その時貴方が、「多面体の一面としてユニークに独自になって、自分一人で重要な位置を占める試み」を放棄したからです。 


“Real Relationships have no limits, having been established by God.”

〔リアルな関係は、神によって確立されたもので、限定されたものではありません。〕

リアルな関係とは、多面体の内部での築かれている(様な)関係です。

ここから多面体の比喩を離れて読み続けましょう。


“In the Holy Instant, where the Great Rays replace the body in awareness, the recognition of relationships without limits is given You.”

〔(意識の中で偉大なる光線が身体に置き換わる)聖なる瞬間の中で、限定されていない関係の認識が貴方に与えられます。〕


“the Great Rays replace the body in awareness”?

これはどういう意味でしょうか。 〔意識の中で偉大なる光線が身体に置き換わる?〕

貴方と兄弟姉妹の現れであり、動機であり、性質であり、性格である愛の光が、体に取って代わったなら、貴方達を形作っている愛の光が、体に取って代わったなら、(貴方が、体より愛の光をより重視するようになったなら。) 貴方が体を使って行なっている(と思っている)コミュニケーションが、愛の光で置き換わったなら、〔限りの無い関係の認識が、貴方に与えられます。〕


“the recognition of Relationships without limits is given You.”

〔限定されていない関係の認識が貴方に与えられます。〕

これは、貴方の個別性を表すものが、貴方の存在を表すものが、全て消えると言っているのではありません。

これは「体」の意味が、「限定されたコミュニケーション」から「父まで届く愛の輝き、コミュニケーションの(循環)サークルを完成させた(二つであったものを一つの全体にした)コミュニオン」へとシフトしたという事です。


“In the Holy Instant, where the Great Rays replace the body in Awareness, the recognition of Relationships without limits is given You.”

〔(意識の中で偉大なる光線が身体に置き換わる)聖なる瞬間の中で、限定されていない関係の認識が貴方に与えられます。〕

知覚の瞬間的シフトが起こるのです。 お互いと一緒に「いる」全く新しいあり方が現れます。 全く新しい意味で「一緒にいる」事になります。 そこにはお互いを「使う」事が無く、「卑小さ」や自己防御もありません。

お互いの中に、インタラクティブに(体験的に)真理と神を認識します。  と同時に「限定されていない喜び」を体験します。

神の子の共同体の全員が分け合っている(と貴方に感じられる)喜びの体験が、そこにあります。

彼らが貴方と分け合っている喜びもまた、貴方に向かって分け与えられます。

この様にして、喜びが「神の子の共同体内に広がる」愛の動きになります。 全てに輝きがもたらされます。

これは新しい体験です。 「自分達が体で、お互いに対して体でコミュニケーションをしていた」と考えていた時よりも、意味深い体験なのです。


“But to see this, it is necessary to give up every use the ego has for the body, and to accept the fact that the ego has no purpose You would share with it.”

〔しかし、これが見れるように成るには、「エゴの体に対する全ての使用」を放棄し、エゴと貴方の間には「共有する目的が無い」と自覚する必要があります。〕 

解りますか? ここで貴方は、(エゴとしての)自分が欲していたものは、(神の子としての)自分が欲していたものではなかったと気付くのです。 何故なら、(エゴとしての)貴方が求めていたのは永遠に手に入らない(目の前にぶら下れた)人参だからです。

それは意味の無いこと(意味の無いゴール)だったのです。 貴方は、それが無意味だと言う事を見抜いて、それを放棄する用意が出来ています。 ただそれを放棄すれば良いのです。

そうすれば(エゴの目的を放棄すれば)、多面体(の面)をもう一度引っくり返し直す事が出来ます。 


“For the ego would limit Every One to a body for its purposes. And while You think it has a purpose, You will choose to utilize the means by which it tries to turn its purpose into accomplishment.”

〔何故なら、エゴはその目的の為に、全ての人を体に限定するからです。 そして貴方がエゴの目的を認めている限りは、「エゴがその目的を業績として成し遂げようとする」方法を貴方は選択するからです。〕

つまり目の前にぶら下った人参を追いかけて、永遠に走り続けようとしてしまうのです。

こうして欲求不満の溜まる体験へ自分を縛りつけてしまうのです。 そして『「神の救済のプラン」が上手く働かないことの理由付け』を自分に対して証明し続けるのです。

ここでの学習は、貴方が今起こっている事をハッキリと見て、想像力でこじつけを作る事を止め、「私は、人参(成果)を求め続けて来た。 そしてそれなりの成果を上げてきたつもりだ。 しかし正直に考えれば、私の行動は私が真に求めていた事をもたらしてはいない。 だから、今までの行動はやめよう(今までの目的は捨てよう)。 そして神の救済のプランを求めよう。」と言える様になることです。