リタイヤおじさんの日々

日常のほっとする風景を描いています

道具としてのカメラ

2013-06-22 08:23:19 | 日記
昨日、アル会社の新宿カメラセンターに我がカメラ、同期の接点部分に不具合があるので持ち込んだ。使って4年目に入る(一眼デジタルカメラ-RAWで撮っている)。何回か出入りしたサービスセンターは年配の窓口Sさんの技術的対応が印象的だった。受付嬢にその方の名前をいったら、セン先月、定年で退職したと言う。残念。
だが、後がまの中年のサービスマンも事務的ながらてきぱきと対応してくれた。「1時間くらいいいですか」・「OKです」で、こ一時間で調整をしてくれた。使い方がかなり過酷ですねと言われたが、皮肉ではない嬉しそうな言い方だった。その中年の方は退職されたSさんに指導されたと言う。私の荒っぽいカメラの使い方を言い当てた。修理サービス部門も年々、縮小されていくとsさんは言っていたが、対応人数も減っていますと中年の方も言う。

壊れたら捨てる・買う。古くなったら更新する。ユニットの組み合わせで修理故障はユニット交換。何の商品もそうだが、製品のサポート・“修理”と言う言葉はどこか古い・ノスタルジア的なコトバになりつつある。そんな世の中、売る方も買う方もそんな傾向なのは知っている。

昨今の革新的な技術進歩は進歩として見極めればいい。それはそれで、世の中の進歩なのだから。(ケータイスマートフォンタブレット端末はその一例だろう。据置パソコンの更新はしないつもり)

でもだ。カメラだけではない。車でも、時計でも、着るものでも、刃物でも、、なんでも。使いこなす人は、手足同様の“道具“を知っている。100%近くの機能を維持したいと願っている。医者としての役割サービセンタは残っていていい。間違いなく生き残れると思う。

来週から、“調整された道具・カメラ”持参で信州方面に出掛ける。

付記)
ウグイスの鳴き声と、起きた家人との会話でしばらくキーボード打ち込みが中座した。
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