森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

60年前の衝撃 ・・・・母の愛

2021-01-01 11:13:39 | 思うまま




  新年明けましておめでとうございます

  60年前の衝撃・・・・母の愛(高校三年生の部活活動とその仲間たちとの思い出)

  今回は、投稿者である私自身の事を書き綴ります。
  あれは、60年前の高校三年生の秋に開催された学校における文化祭のときの有様です。その学
校は兵庫県立洲本実業高等学校で、商業科、機械科、電気科の三つの科があり、私は機械科でした。
そこには男子生徒ばかり40名のクラス規模でした。

  私は、中学校からやっていた軟式テニスを高校でも部活としてやっていました。このクラブは歴
代の先輩の皆さんは成績優秀で、全国でも上位クラスに入るテニスの名門校といっていいでしよう。
その分、毎日授業終了後の練習は厳しいものがありました。この間、学校の授業の他には、何にも経
験することがなかったし私は、三年生になってもテニスの実力は学校で二番目という、あまり目立た
ない生徒だといっていいでしょう。

  機械科は40名の男性ばかりで、女子生徒との会話もふれ合いも全くなかったのです。三年にな
って間もなく親しいクラスの友達と何となく会話をしている時に、こんなことを思いつきました。そ
れは、女子生徒の多い部活を探そう、そして男子生徒が少ないところというのが、クラブを探す条件
として決めたのです。いろいろと学校における部活の内容を調べたところ、。ある部活が二つの条件
に当てはまるところが見つかりました。その部には我々男性として、おまけがありました。それは、
文芸部という部で、その部で活動している三年生の皆さんは、こぞって所謂美人ぞろいの女性中心だ
ったのです。

 そこで、最初に話し合った友人と相談して、相手の女性は7名おられるので、こちらも7名の男子
を誘って、当時の女性部長さんに入部の御願いに私が行つたところ一つ返事で心快く受け入れてもら
えました。すぐ機械科のクラスに帰って誘った7人の仲間とバンザイをしたものです。

 これら一連のこともつい数年前のように記憶にあり、良き思い出として残っています。でも、ほん
だいは、これからで、その文芸部においての活動ですが、何分にも動機が不純といえは不純のため、
詩とか、短歌とか、まして文章を考えて書くなどということは大の苦手でありましたが、文芸部とし
てこちらから入れてもらったことでもあり、男性のそれぞれは、仕方なく、何か詩らしい、文章らし
いものを書いて、優れた文章を書かれる女子部員の皆さんに教えて貰いながら、卒業するまでに、部
活として詩集「すらん」だったか「しののめ」でしたか、一年間に3回程度発行しました。その印刷
費用は、町の商店街を回って、一口500円か1000円だったと思いますが、店の広告代金として集
めて、学校から部に支給された金額と合わせて、少しおつりが出るくらい、うまく運ぶことが出来ま
した。

 あれは、7月ごろでしたか、学校の生徒会役員の皆さんは、秋の文化祭の計画を作り始めたとの情
報があり、誰からとはなく、学校生活の思い出づくりに、文芸部として、文化祭に演劇をしようじゃ
ないかということになったのです。文化祭に文芸部が参加し活躍することは、これは当然にあるべき
ことではないかと思いも部員のみんなにもあったと思う。しかし、この学校ではその様な単独の部が
演劇をした経験がなかったのです。
 そのため、生徒会の役員として、文化祭のプログラムの素案にはなかったのです。そこで、生徒会長
のところへ行き、文芸部として文化祭に演劇を演りたいので、90分の時間を取ってもらいたいと申
し出をしました。担当の部活の先生には何の相談もなくです。最初は、前例がないことから、なかな
か色よい返事を貰うことが出来なかったのですが、相手がしびれを切らすほど粘ったために、60分
の時間を約束してくれました。

  その演劇の脚本(劇の粗筋)や小道具、衣装、設営等はすべて、部員だけで実施するという方針で
部員それぞれ手分けして担当し、私もコタツ毛布を持ってきました。その演劇らしいものの内容は、
私達の高校は、実業高校であり、99%の生徒は就職することになっていたのです。しかし、一人の
生徒は、何とか大阪や東京の大学に行きたい、けれども、家庭が貧しく大学の学費が賄うことがで
きない。そんな三年生の子供を囲んで、そのことについて家族会議をしている場面を設定していた。

 その演劇で、私自身が大学に行きたいと思っていることもあって、進学希望生徒の役を演らせて
頂きました。この役柄は私そのものでした。私の家庭は、母と父方の祖母、八つ年上の兄、四つ上
の姉の5人家族で、父は、神戸の長田で船大工をしておったそうですが、私が生まれた(昭和19年)直
後に仕事中に海に落ちた時に頭を強く打って、私が4歳の時になくなったことを聞いています。私
には、父の姿は何一つ記憶にありません。父が亡くなって、母が一人で、家族5人の生活を養わなけ
ればならず、町の鋳物工場で働いておりました。鋳物工場というのは、私は機械科ですから、学校で
鋳物の授業をしたことがありますが、砂で型を作って、それに金属を溶かしたものを流し込んでする
作業で、それこそ真っ黒になっての仕事を母は、5人の家族のために朝は8時ごから夜に帰るのはい
つも9時ごろまでという記憶があります。そのために、私は家族との特に母との会話やふれ合いの記
憶がほとんどありません。

 そんな家庭環境ですから、小学校から高校までの間、例えば、学芸会で、運動会だ、参観日だとい
う日には、親が学校に来ることになります。しかし、私の母は仕事を休むわけにはいかない、休むと
給料が減って、家族の生活がなりたたない、それがたとえ一日でも大切な稼ぎ時間であったのでしよ
う。小学校の運動会の昼休みには、それぞれ親が来て、持参した御馳走をグランドに茣蓙を強いて、
家族とともに和やかに過ごします。私は、一度、弁当を持ってある年の運動会に行きました。一人で
弁当を食べていると、お隣の生徒の家族の方から、お一人で寂しいから一緒にたべましようと言って
くれました。しかし、私は喜んで、否、淋しさが増してきてしまいました。それ以降、運動会の昼食
時には、家まで走って食べに帰っていたことを忘れることができません。

 さて、文芸部の演劇のことですが、土曜日と日曜日の二回、生徒の家族の参加のもと、大講堂が満
員での開催です。私が、進学希望の生徒として家族で話し合っている簡単な筋書きでした。コタツに
入っての話し合っているときに、会場の方から紙飛行機が演じている私のすぐ側、手が届くところに
飛んで来ました。多分、参加者のお子さんが、飛ばしたものでしよう。その時、私は、自然とその紙
飛行機を手に取りました。もちろん、演劇の筋書きにはありません。そしてその紙飛行機を今度は飛
んで来た会場に飛ばし返しました。事件はその時に起きました。いや、事件というにふさわしい、劇
的奇跡的な光景が、私の目の中に飛び込んできました。

 それは、紙飛行機を会場に向けて飛ばしたときの視線の向うに、何と私の母の姿を目にしたのです。
うそでしようとおもいましたが、確かに母でありました。小学校から高校までこれまで、一度も母が
学校に来られなかった、母は学校に行きたかったに相違ありません。でも、それが出来なかった。私
の学校生活で最後の親が参加できるこの文化祭に、母は来てくれた。演劇を続けながらも涙が出てく
るほど感激というかびっくりしたことを昨日のように思い出します。たぶん母も涙をながしていたの
かもしれません。

 演劇のある当日、母は学校に行くことは素振りにもださず、私は、毛布を持って学校に行きました。
演劇の内容が自分の家庭の実体そのももだっただけに、貧しいために、自分の息子を大学に希望して
も行かせてやれない、親としての辛さをその時に複雑に思っていたことを懐かしくも母が不憫にも思
い出します。母には気の毒な内容の劇だったなあ-と。それまで余り母との会話らしきものが無かった
だけに、母の愛情の深さと強さを感じました。その母は30年前に72歳で亡くなっております。母よ
りも一歳でも長生きして自分らしく生活することが母へのせめてもの供養ではないかとずっと思って
今77歳に今年なります。

 これが今から60年前にあった衝撃であり、事件であり、奇跡であると思う。私にとってこのこと
今年77歳になりますが、これまでの日々の大きな糧となっていることは間違いのない事実で、この
高校三年生のたった一年間の間に、私の今日まで強く影響を与えた出来ごとの一つです、当時の文芸
部の皆さんに感謝しています。文芸部への入部を断られていたら、また、演劇をしなかったとしたら、
このような出会う機会はなかったのですから、誠に運がいいといいますか、これらの奇跡に感謝です。
この高校三年生において、まだ三つぐらい劇的なことがありましたが、それは、いつの日にか、また
書き綴りたいと今回はこれにて停めおきます。甚だ拙い文章にて失礼します。0



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