森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

人形浄瑠璃の起源

2022-09-09 13:24:45 | 森の施設

 

  人形浄瑠璃の起源

 文楽軒は遠目になって、しばらく川面に目を落とした。生まれは故郷の淡路の海を思いだ

していたのだ。

 植村文楽は軒-------今や大阪では知らない者がない。人形浄瑠璃の義太夫である。

 文楽軒が淡路から明石海峡を渡って、宮津に渡り、塩売りをしながら大阪に来たのが、天

保12年(1841)の夏、もう20年の歳月が過ぎたことになる。当時はまだ青年の顔が残って

いた文楽軒も、今は頭に白いものが混じり、年輪を感じさせる皺(しわ)も寄っている。

 大阪に出て来た時は、若いといっても、既に三十路(みそじ)に差し掛かっていた。妻子がい

たし、地元では庄屋として人望が厚く、酒も飲まず、博奕もやらなかった。ただ、人形浄瑠璃

が三度の飯よりも好きで、資材を投げ打ってまで、諸国に点在していた人形浄瑠璃の一座を招

き、村人に見せていた。

 そのうち、他人が演じるのを見るだけでは飽き足らず、自分でも浄瑠璃を歌うようになり、

自ら文楽軒と次葉瑠璃らしく芸名を名乗るようにもなっていた。

 地元の村人は、人形狂いと陰口をたたくようになった。文楽軒は一向に気にせず、いつしか、

本業にしたいと考えるようになっていた。そう思うだけあって、たしかに浄瑠璃を唸る声は玄

人はだだった。

 妻や年老いた両親の反対を押し切って、単身、大阪に来た時には、既に一銭の金もなく、物乞

い同然の暮らしをしていた。

 (所詮、芸人は物乞いや。どうせなら、日本一の物乞いになったる)

 そう自分を励ますのが、精一杯だった。

 無名の義太夫など、まともな劇場でやらせてくれはしない。文楽軒はいつも、河原や破れ寺

の境内で浄瑠璃を聞かせた。

 「しょむないコジキがおる。近寄るな」

 初めは敬遠されたが、文楽軒の声と表情にしびれ、いつの間にか贔屓(ひいき)がつくようになっ

た。人には言えない幾多の試練を乗り越え、人形遣いや三味線弾きを自分の足で探し出し、御霊

(ごりょう)神社で興行を打った。

 それが以外にも人気博してから、小さな葭簀(やしず)がけの小屋であろうとも、文楽軒の人形

浄瑠璃が持て囃(はや)されるようになつた。

 大きな劇場で人形芝居を討てるようになり、歌舞伎を凌駕(りようが)するほどになったときは、

天保から弘化、寛永を経て、安政に変って三年が過ぎていた。

 元禄時代に近松門左衛門らが盛り上げていた時代から、百数十年を隔てて、人形浄瑠璃を隆盛

させたのが文楽軒である。

 やがて、人々は、文楽軒の名前にあやかって、人形浄瑠璃のことを、文楽と呼ぶようになった。

 

この文章は、「ひとつぶの銀」井川幸四郎著より抜粋したものである。私が淡路島出身であるの

でここに記載させて頂いた。井川氏の著書は大変面白い内容でありますので、興味のある方はお読

みになられたらいかがでしよう。0

 

 

   

 

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