太陽系の惑星の運動をよく観察すると、
引力という力によって、太陽を中心として、
全惑星が、互いにぶつからず、
互いに適切な距離を保って永続的に回転していることがわかります。
The Solar System: A Brief Glance
しかし、ニュートンは考えます。
慣性の法則にしても、
太陽系での諸惑星の回転運動にしても、
確かに、法則に則った力が働いており、
その力が宇宙のすべての物質を動かしている。
それは分かるが、それでは、慣性の法則の
「一旦動かしたものは、永遠に動き続ける」という原理について、
宇宙空間であっても、止まらず永遠に動くには「動力」が必要だ。
一体誰が、永遠に物質を動かし続けているのだろうか?
そして万有引力に、誰が永続的に「動力」を与えているのだろうか?
金星や地球、火星、木星、土星、彗星などの動きを研究すると、
太陽を中心として、引力の相互作用によって、
諸惑星と彗星群が回転運動を成して、太陽系を創っていることがわかる。
この万有引力の相互作用は、もし、一定の距離がなければ、
即座に互いに衝突して崩壊してしまうものであるから、
太陽系の諸惑星の運動が、永続的に安定して運行している理由は、
何かの原因によって、惑星同士の距離も、
最適の間隔に調整されているから、と見なされる。
(しかしながら誰が、もろもろの太陽系の相互に
十分な距離を空けたのだろうか?)
地球は(後にフーコーが証明した通り)自転しており、
ガリレオの言う如く、公転している。
万有引力の法則があっても、相互が衝突せずに
宇宙空間で安定軌道を保っていられる大きな理由は、
それぞれの天体が自転し、相互に十分な距離を空けていて、
さらに太陽を中心にして、すべてが公転していることにある。
(誰が、惑星間の距離を最善に調整しているのだろうか?)
夜空の無数の星々は、我々の太陽系と同じように、
恒星を中心として、惑星群が公転している形になっていると思われる。
夜空に見えている星は、太陽のような自ら輝いている星であろうから、
地球のような惑星は、存在しても見えていない可能性が高い。
すると、宇宙には、見えている以上に
想像もつかないほどの天体があるに違いない。
その見えていないすべての星々も、この太陽系で見るような、
整然とした、物理法則に則って運行しているだろう。
太陽系同士も衝突しないように、
宇宙空間で、互いに相当の距離を持って、
存在していると予想できる。………
ニュートンはこのように推察しました。
そして、これらの宇宙での秩序整然とした物理法則を見て、
「人間の思考を超えた、至高の存在者(一なる神)が、
すべての物理現象を支えている」
と結論を出しました。
それが
『運動動力源としての神 物理法則を司る至高存在』です。
この叡智の集積ともいえる
「一なる神(至高存在)」には、特徴があります。
それは「キリスト教で言われるところの神ではない」ということです。
つまり、如何にイエス・キリストが、
当時ナザレで「神」の如き力を発揮していたとしても、
天体のすべての運行を、イエス・キリストが
押したり、引いたりして行っているわけではないわけです。
そして、キリスト教が生まれる遥か遥か大昔から、
宇宙の全天体群の運行は行われていたわけです。
ですから、この「一なる神(至高存在)」というのは、
「キリスト教の神」「慈悲の神」という意味ではなく、
実際に万物を生んだ、根源的な存在(至高存在)となります。
それが『運動動力源としての神 物理法則を司る至高存在』の意味です。
しかしながら、ニュートンが、
イエス・キリストを軽視していたかというとそんなことはなく、
敬虔な信仰を持っていました。
ニュートンは、
宇宙を司る(人格を越えた)「一なる神(至高存在)」が
第一存在としており、
イエス・キリストは、至高神と人間をつなぐ仲介者として
(第二存在として)存在している、
と考えました。
そして、「神」と言われる存在が、
すべてこの「一なる神(至高存在)」ということではなく、
同じ「神」という名でも、分けて考える必要があるとしました。
※この意味でニュートンは、
「神の啓示を否定する理神論者」ではありません。
むしろ、神を否定する無神論、唯物論を非常に嫌悪していました。
ニュートンは、プリンキピアを
たくさんの数学的な物理法則の探求によって、
これらの精密な法則を生み出した至高存在の性質について吟味し、
人々の創造神(究極の実在)の尊崇に結びつくように書いています。
(現在の日本の数学や物理の教育では、
この、重要なニュートンの「物理法則を司る至高存在」の言及が
完全に削除されているため、
非常に偏った教育内容=唯物主義=無神論教育となっています。
そしてこのために、学生が物理の真髄を十全に理解できなくなっています。)
Twelve articles on religion by Isaac Newton
ニュートンの宗教に関する12条
(訳 鈴木てつや)
Artic 1.
There is one God the Father everliving, omnipresent, omniscient, almighty, the maker of heaven & earth, & one Mediator between God & Man the Man Christ Iesus.
〔第1条〕
(この世には、この宇宙には)
一なる神、永続して存在する父なる者がおり、
永遠普遍で、全知全能であり、
天なる世界(天国)と、地球と、
イエス・キリストという神(と人間と)の仲介者とを産んだ存在である。
Artic 2.
The father is the invisible God whom no eye hath seen or can see, all other beings are sometimes visible.
〔第2条〕
(唯一の)父なる存在は、人間には見えない神であり、
過去に誰も見たことはなく、今も見えない。
他のすべての存在は目に見えることもある。
The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)/General Scholium
『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン
(訳 鈴木てつや)
This most beautiful System of the Sun, Planets, and Comets, could only proceed from the counsel and dominion of an intelligent and powerful being. And if the fixed Stars are the centers of other like systems, these, being form'd by the like wise counsel, must be all subject to the dominion of One; especially since the light of the fixed Stars is of the same nature with the light of the Sun, and from every system light passes into all the other systems. And lest the systems of the fixed Stars should, by their gravity, fall on each other mutually, he hath placed those Systems at immense distances from one another.
この、最も美しい、太陽と惑星群と彗星群からなる太陽系を見ていると、これらが、何者か―叡智と大きな力を備えた存在の、深慮と支配とによって運行されている、と考える以外にあり得ません。他のもろもろの太陽系群の固定軸となっている恒星群が、(太陽系と)同じように(中心の恒星を軸に回転運動を)成しているとしたら、(それこそ、また同じように)叡智的な深慮を以って運行されているということであり、一なる支配者の司りによっているに違いありません。そして特に、この(各太陽系の)中心として固定されている恒星群の光は、(我々の)太陽の光と全く同じ性質を持っており、その光が、お互いの太陽系の中に、光を届け合っている(夜空に互いの星々の光が見える)わけです。そして、万有引力が、お互いの太陽系同士にも働いているにもかかわらず、相互に引き合って衝突したりせずに済んでいるのは、(至高の存在である)父なる神が、相互の太陽系群を(引力が引き合わない程の)非常に離れた位置に(宇宙空間の中で予め)配置されたからに違いないのです。
This Being governs all things, not as the soul of the world, but as Lord over all: And on account of his dominion he is wont to be called Lord God παντοκρατωρ, or Universal Ruler. For God is a relative word, and has a respect to servants; and Deity is the dominion of God, not over his own body, as those imagine who fancy God to be the soul of the world, but over servants.
この存在は、万物を治めています。そしてそれは、宇宙の霊性としてではなく、万物の主として司っている存在です。かの存在者の(万物への)統治の姿から、「主なる神」「パントクラトール」「宇宙の法則を決めている存在」などと呼ばれています。というのは、「神」といっても、いろいろな意味で使われる言葉であり、(本当の意味での「神」は)すべての僕(しもべ)たち(=神の被造物=人間と生命と物質すべて)を尊重されているのです。というのも、「神性」とは、「神の主座」と言えますが、この意味は、「神性」というものが、(「外なる神」とも言われるような、例えば人間の存在と宇宙とから切り離された場所に「神」が存在していて)その「神」だけが「神性」に満たされているのだ、などといった夢想者が抱く「神」の概念ではなく、すべての宇宙にある存在、万物に(「内なる神」として)「神」の「神性」が作用して(宿って)いるという意味なのです。
The supreme God is a Being eternal, infinite, absolutely perfect; but a being, however perfect, without dominion, cannot be said to be Lord God; for we say, my God, your God, the God of Israel, the God of Gods, and Lord of Lords; but we do not say, my Eternal, your Eternal, the Eternal of Israel, the Eternal of Gods; we do not say, my Infinite, or my Perfect: These are titles which have no respect to servants. The word God usually signifies Lord; but every lord is not a God. It is the dominion of a spiritual being which constitutes a God; a true, supreme, or imaginary dominion makes a true, supreme, or imaginary God.
この至高の神は、永遠で無限なる存在であり、絶対的な完全なる存在です。しかし、(もし、その「神」が)「完全なる存在であるけれども、(物理法則の)支配力がない」場合は、それは(ここで言っている、究極なる)「主なる神」とは言えません。私たちは、(至高の神のことを)「私の神」「あなたの神」「イスラエルの神」「神々の神」「主の主」などと言いますが、「私の永遠」「あなたの永遠」「イスラエルの永遠」「神の永遠」などとは言いませんし、「私の無限」「私の完全」などという言い方もしません。というのも、これらの(使われない)言い方では、僕(しもべ)たち(=神の被造物=人間と生命と物質すべて)が全く尊重されていないからです。「神」という言葉は、通常「主なる神」を意味します。しかし、すべての「主」(と言われる存在)がここで言う「至高の神」であるとは限りません。「神」という言葉は、「一なる神」を構成している霊的存在者の司りを意味するからです。つまり、真実に、絶対的に(宇宙すべての)統治をしている「主」であれば、それは、真実の、絶対的「至高の神」であり、逆に、実際には(宇宙すべてを)統治していない「主」であれば、それは、「想像上(架空)の神」ということになります。
And from his true dominion it follows that the true God is a Living, Intelligent, and Powerful Being; and, from his other perfections, that he is Supreme or most Perfect. He is Eternal and Infinite, Omnipotent and Omniscient; that is, his duration reaches from Eternity to Eternity; his presence from Infinity to Infinity; he governs all things, and knows all things that are or can be done. He is not Eternity and Infinity, but Eternal and Infinite; he is not Duration and Space, but he endures and is present. He endures forever, and is every where present; and, by existing always and every where, he constitutes Duration and Space.
そして、神の真実の(宇宙すべての)統治という点から考えてみると、この真実の神という存在は、生き通しの、叡智的な存在者であり、最大の力を持った存在であることが分かります。また、宇宙のあらゆるところで見受けられる法則の完全性から考えてみると、かの至高存在は、絶対存在であり、最大なる完全性を備えていることが分かります。神は、永遠なる、無限なる存在で、かつ全知全能で、無限から無限へと在り続けています。つまり、神は、万物すべてを統治しており、今あるものすべてのことを知り、これから起こるであろうすべてのことも知る存在です。神は、(「外なる神」として宇宙から離れたところに居る)「永遠」「無限」という存在ではなく、現に今「永遠として在り続ける者」「無限として在り続ける者」です。というのも、神とは、「持続して存在する時空間」ではなく、神こそが、それ(時空間=宇宙)を支えており、、在り続けている存在だからです。かの至高存在は、流れ続ける時間と空間を構成しながら、永遠に宇宙を支え続け、永遠普遍に至るところで存在し続けているです。
引力という力によって、太陽を中心として、
全惑星が、互いにぶつからず、
互いに適切な距離を保って永続的に回転していることがわかります。
The Solar System: A Brief Glance
しかし、ニュートンは考えます。
慣性の法則にしても、
太陽系での諸惑星の回転運動にしても、
確かに、法則に則った力が働いており、
その力が宇宙のすべての物質を動かしている。
それは分かるが、それでは、慣性の法則の
「一旦動かしたものは、永遠に動き続ける」という原理について、
宇宙空間であっても、止まらず永遠に動くには「動力」が必要だ。
一体誰が、永遠に物質を動かし続けているのだろうか?
そして万有引力に、誰が永続的に「動力」を与えているのだろうか?
金星や地球、火星、木星、土星、彗星などの動きを研究すると、
太陽を中心として、引力の相互作用によって、
諸惑星と彗星群が回転運動を成して、太陽系を創っていることがわかる。
この万有引力の相互作用は、もし、一定の距離がなければ、
即座に互いに衝突して崩壊してしまうものであるから、
太陽系の諸惑星の運動が、永続的に安定して運行している理由は、
何かの原因によって、惑星同士の距離も、
最適の間隔に調整されているから、と見なされる。
(しかしながら誰が、もろもろの太陽系の相互に
十分な距離を空けたのだろうか?)
地球は(後にフーコーが証明した通り)自転しており、
ガリレオの言う如く、公転している。
万有引力の法則があっても、相互が衝突せずに
宇宙空間で安定軌道を保っていられる大きな理由は、
それぞれの天体が自転し、相互に十分な距離を空けていて、
さらに太陽を中心にして、すべてが公転していることにある。
(誰が、惑星間の距離を最善に調整しているのだろうか?)
夜空の無数の星々は、我々の太陽系と同じように、
恒星を中心として、惑星群が公転している形になっていると思われる。
夜空に見えている星は、太陽のような自ら輝いている星であろうから、
地球のような惑星は、存在しても見えていない可能性が高い。
すると、宇宙には、見えている以上に
想像もつかないほどの天体があるに違いない。
その見えていないすべての星々も、この太陽系で見るような、
整然とした、物理法則に則って運行しているだろう。
太陽系同士も衝突しないように、
宇宙空間で、互いに相当の距離を持って、
存在していると予想できる。………
ニュートンはこのように推察しました。
そして、これらの宇宙での秩序整然とした物理法則を見て、
「人間の思考を超えた、至高の存在者(一なる神)が、
すべての物理現象を支えている」
と結論を出しました。
それが
『運動動力源としての神 物理法則を司る至高存在』です。
この叡智の集積ともいえる
「一なる神(至高存在)」には、特徴があります。
それは「キリスト教で言われるところの神ではない」ということです。
つまり、如何にイエス・キリストが、
当時ナザレで「神」の如き力を発揮していたとしても、
天体のすべての運行を、イエス・キリストが
押したり、引いたりして行っているわけではないわけです。
そして、キリスト教が生まれる遥か遥か大昔から、
宇宙の全天体群の運行は行われていたわけです。
ですから、この「一なる神(至高存在)」というのは、
「キリスト教の神」「慈悲の神」という意味ではなく、
実際に万物を生んだ、根源的な存在(至高存在)となります。
それが『運動動力源としての神 物理法則を司る至高存在』の意味です。
しかしながら、ニュートンが、
イエス・キリストを軽視していたかというとそんなことはなく、
敬虔な信仰を持っていました。
ニュートンは、
宇宙を司る(人格を越えた)「一なる神(至高存在)」が
第一存在としており、
イエス・キリストは、至高神と人間をつなぐ仲介者として
(第二存在として)存在している、
と考えました。
そして、「神」と言われる存在が、
すべてこの「一なる神(至高存在)」ということではなく、
同じ「神」という名でも、分けて考える必要があるとしました。
※この意味でニュートンは、
「神の啓示を否定する理神論者」ではありません。
むしろ、神を否定する無神論、唯物論を非常に嫌悪していました。
ニュートンは、プリンキピアを
たくさんの数学的な物理法則の探求によって、
これらの精密な法則を生み出した至高存在の性質について吟味し、
人々の創造神(究極の実在)の尊崇に結びつくように書いています。
(現在の日本の数学や物理の教育では、
この、重要なニュートンの「物理法則を司る至高存在」の言及が
完全に削除されているため、
非常に偏った教育内容=唯物主義=無神論教育となっています。
そしてこのために、学生が物理の真髄を十全に理解できなくなっています。)
Twelve articles on religion by Isaac Newton
ニュートンの宗教に関する12条
(訳 鈴木てつや)
Artic 1.
There is one God the Father everliving, omnipresent, omniscient, almighty, the maker of heaven & earth, & one Mediator between God & Man the Man Christ Iesus.
〔第1条〕
(この世には、この宇宙には)
一なる神、永続して存在する父なる者がおり、
永遠普遍で、全知全能であり、
天なる世界(天国)と、地球と、
イエス・キリストという神(と人間と)の仲介者とを産んだ存在である。
Artic 2.
The father is the invisible God whom no eye hath seen or can see, all other beings are sometimes visible.
〔第2条〕
(唯一の)父なる存在は、人間には見えない神であり、
過去に誰も見たことはなく、今も見えない。
他のすべての存在は目に見えることもある。
The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)/General Scholium
『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン
(訳 鈴木てつや)
This most beautiful System of the Sun, Planets, and Comets, could only proceed from the counsel and dominion of an intelligent and powerful being. And if the fixed Stars are the centers of other like systems, these, being form'd by the like wise counsel, must be all subject to the dominion of One; especially since the light of the fixed Stars is of the same nature with the light of the Sun, and from every system light passes into all the other systems. And lest the systems of the fixed Stars should, by their gravity, fall on each other mutually, he hath placed those Systems at immense distances from one another.
この、最も美しい、太陽と惑星群と彗星群からなる太陽系を見ていると、これらが、何者か―叡智と大きな力を備えた存在の、深慮と支配とによって運行されている、と考える以外にあり得ません。他のもろもろの太陽系群の固定軸となっている恒星群が、(太陽系と)同じように(中心の恒星を軸に回転運動を)成しているとしたら、(それこそ、また同じように)叡智的な深慮を以って運行されているということであり、一なる支配者の司りによっているに違いありません。そして特に、この(各太陽系の)中心として固定されている恒星群の光は、(我々の)太陽の光と全く同じ性質を持っており、その光が、お互いの太陽系の中に、光を届け合っている(夜空に互いの星々の光が見える)わけです。そして、万有引力が、お互いの太陽系同士にも働いているにもかかわらず、相互に引き合って衝突したりせずに済んでいるのは、(至高の存在である)父なる神が、相互の太陽系群を(引力が引き合わない程の)非常に離れた位置に(宇宙空間の中で予め)配置されたからに違いないのです。
This Being governs all things, not as the soul of the world, but as Lord over all: And on account of his dominion he is wont to be called Lord God παντοκρατωρ, or Universal Ruler. For God is a relative word, and has a respect to servants; and Deity is the dominion of God, not over his own body, as those imagine who fancy God to be the soul of the world, but over servants.
この存在は、万物を治めています。そしてそれは、宇宙の霊性としてではなく、万物の主として司っている存在です。かの存在者の(万物への)統治の姿から、「主なる神」「パントクラトール」「宇宙の法則を決めている存在」などと呼ばれています。というのは、「神」といっても、いろいろな意味で使われる言葉であり、(本当の意味での「神」は)すべての僕(しもべ)たち(=神の被造物=人間と生命と物質すべて)を尊重されているのです。というのも、「神性」とは、「神の主座」と言えますが、この意味は、「神性」というものが、(「外なる神」とも言われるような、例えば人間の存在と宇宙とから切り離された場所に「神」が存在していて)その「神」だけが「神性」に満たされているのだ、などといった夢想者が抱く「神」の概念ではなく、すべての宇宙にある存在、万物に(「内なる神」として)「神」の「神性」が作用して(宿って)いるという意味なのです。
The supreme God is a Being eternal, infinite, absolutely perfect; but a being, however perfect, without dominion, cannot be said to be Lord God; for we say, my God, your God, the God of Israel, the God of Gods, and Lord of Lords; but we do not say, my Eternal, your Eternal, the Eternal of Israel, the Eternal of Gods; we do not say, my Infinite, or my Perfect: These are titles which have no respect to servants. The word God usually signifies Lord; but every lord is not a God. It is the dominion of a spiritual being which constitutes a God; a true, supreme, or imaginary dominion makes a true, supreme, or imaginary God.
この至高の神は、永遠で無限なる存在であり、絶対的な完全なる存在です。しかし、(もし、その「神」が)「完全なる存在であるけれども、(物理法則の)支配力がない」場合は、それは(ここで言っている、究極なる)「主なる神」とは言えません。私たちは、(至高の神のことを)「私の神」「あなたの神」「イスラエルの神」「神々の神」「主の主」などと言いますが、「私の永遠」「あなたの永遠」「イスラエルの永遠」「神の永遠」などとは言いませんし、「私の無限」「私の完全」などという言い方もしません。というのも、これらの(使われない)言い方では、僕(しもべ)たち(=神の被造物=人間と生命と物質すべて)が全く尊重されていないからです。「神」という言葉は、通常「主なる神」を意味します。しかし、すべての「主」(と言われる存在)がここで言う「至高の神」であるとは限りません。「神」という言葉は、「一なる神」を構成している霊的存在者の司りを意味するからです。つまり、真実に、絶対的に(宇宙すべての)統治をしている「主」であれば、それは、真実の、絶対的「至高の神」であり、逆に、実際には(宇宙すべてを)統治していない「主」であれば、それは、「想像上(架空)の神」ということになります。
And from his true dominion it follows that the true God is a Living, Intelligent, and Powerful Being; and, from his other perfections, that he is Supreme or most Perfect. He is Eternal and Infinite, Omnipotent and Omniscient; that is, his duration reaches from Eternity to Eternity; his presence from Infinity to Infinity; he governs all things, and knows all things that are or can be done. He is not Eternity and Infinity, but Eternal and Infinite; he is not Duration and Space, but he endures and is present. He endures forever, and is every where present; and, by existing always and every where, he constitutes Duration and Space.
そして、神の真実の(宇宙すべての)統治という点から考えてみると、この真実の神という存在は、生き通しの、叡智的な存在者であり、最大の力を持った存在であることが分かります。また、宇宙のあらゆるところで見受けられる法則の完全性から考えてみると、かの至高存在は、絶対存在であり、最大なる完全性を備えていることが分かります。神は、永遠なる、無限なる存在で、かつ全知全能で、無限から無限へと在り続けています。つまり、神は、万物すべてを統治しており、今あるものすべてのことを知り、これから起こるであろうすべてのことも知る存在です。神は、(「外なる神」として宇宙から離れたところに居る)「永遠」「無限」という存在ではなく、現に今「永遠として在り続ける者」「無限として在り続ける者」です。というのも、神とは、「持続して存在する時空間」ではなく、神こそが、それ(時空間=宇宙)を支えており、、在り続けている存在だからです。かの至高存在は、流れ続ける時間と空間を構成しながら、永遠に宇宙を支え続け、永遠普遍に至るところで存在し続けているです。