量子力学と意識の変容(宇宙と人間の無限性について)

量子力学をどのように生活に活用するか、量子力学と意識の変容とタイムトラベル・パワレルワールドの究極の可能性を探求します。

光が宇宙空間を伝播するのに不可欠なエーテル:絶対空間の座標を持つもの

2012-04-23 | 日記
ニュートン、マクスウェル、プランク、アインシュタインと続いた
19世紀(後半から20世紀)の物理学は、大きな問題に差し掛かっていました。

それは、「エーテル」です。

この「エーテル」という概念は、
もともとは、ギリシア時代に発しています。

そして、ギリシア語のアイテール(αiθήρ)は、
人間の住む地上世界(目に見える物質世界)に対して、
神ゼウスと神々が住む「目に見えない天の国の領域(天国)」を指します。

(つまり「エーテル」は、形而上学的=「神の世界」を意味します。)

エーテル (神学) - Wikipedia

エーテル、アイテール(古希: αiθήρ)とは、古代ギリシャにおける輝く空気の上層を表す言葉であり、アリストテレスによって四大元素説を拡張して天体を構成する第五元素として提唱された。これはスコラ学に受け継がれ、中世のキリスト教的宇宙観においても、天界を構成する物質とされた。

アリストテレス以前より古代ギリシアにおいてアイテールは、大気の上層、雲や月の領域、あるいはゼウスの支配する領域を意味する言葉として用いられた。これに対して下層の空気はアーエールと呼ばれた。語源上、アイテールは「つねに輝きつづけるもの」を意味しており、そこから消えることのない空の輝きを表現した。パルメニデスはアイテールを大気の上の炎、「穏やかかつ希薄で、一面に均一に広がるもの」と表現し、暗く濃く重い大地の物質と対比した。またピュタゴラス教団は人が死んだ後に魂がたどり着く永遠の汚れのない領域だとした。これらいずれにおいてもアイテールは、地上の死すべきものの世界に対して、永続的な世界を指し示している。

元素にはそれぞれ固有の性質があるとされ、アイテールは天体の動きに見られるように、変形せず永遠に回転し続ける性質をもつとされた。 こうしたアリストテレスの考えによってエーテル(アイテール)は天界を満たしている物質として後世まで広く認知されることになった。


光が波の性質を持っていることから、
宇宙空間を伝播するために、媒質があるはずです。

ということで「エーテル」は、
理論的に不可欠なものとして古来から考えられて来ました。

そして、デカルト以後、
(神学的思考でなく)科学的思考において、この「エーテル」が、
「世界と宇宙のすべてを満たしているもの」とされたわけです。


しかし、「エーテル」には、幾つか問題がありました。

それは、

1 「エーテル」を誰も見たことがなく、物質として確認されたことがない。
2 マクスウェルの電磁方程式から、電磁波(=光)は、
  相対速度で動くデカルト座標系に無関係で、
  常に一定の 3.0×10の8条[m/s]となる。
3 光速 3.0×10の8条[m/s]は、何の座標系に対する速度か不明。
4 電磁波(光速)が(何かの座標系に対して)不変であることから、
  媒体としての「エーテル」が絶対座標である可能性があり、
  その場合、宇宙の中で相対的に動いている地球の周りには、
  「エーテルの風」が吹いていることになる。
5 光に偏光の現象がある。
6 ホイヘンスの言うような、空間に充満している「エーテル」が、
  ガス状である場合、流体エーテルは縦波しか伝えられない。
7 横波を伝えるためには、「エーテル」は
  格子結晶のような、強く結合した紐状の形態と予想される。
8 「エーテル」は、透明で、
  宇宙のどの場所にも一様に分布し、連続していることになる。

という問題です。


※ニュートンの「絶対空間、絶対時間」も、

「エーテル」の特徴である

「天界を構成する物質」
「ゼウスの支配する領域」
「永続的な世界」
「絶対静止系の座標」

から考慮されています。

ニュートンの「時間」と「空間」と「座標」の定義 5 『神の座標 絶対空間 絶対時間』


" Ether " by MunDoSow


エーテル (物理) - Wikipedia


エーテル (aether, ether, luminiferous aether) は、主に19世紀までの物理学で、光が伝播するために必要だと思われた媒質を表す術語であった。

このエーテルの語源はギリシア語のアイテール (αιθήρ) であり、ラテン語を経由して英語になった。アイテールの原義は「燃やす」または「輝く」であり、古代ギリシア以来、天空を満たす物質を指して用いられた。英語ではイーサーのように読まれる。

空間に何らかの物質が充満しているという考えは古くからあったが、17世紀以後、力や光が空間を伝わるための媒質としてエーテルの存在が仮定された。その端緒の1つはデカルトに見られ、デカルトはぶどうの樽のぶどう酒のようにあらゆる物質の隙間を埋める「微細な物質」を想定してそれが光を伝達させるのだとした。また惑星はその渦に乗って動いていると考えた(渦動説)。

ニュートンは、光の実体は多数の微粒子であると考えた。これは、光が直進することや物体表面で反射されるという事実に基づく仮定であった。しかし、光が粒子であると仮定すると、屈折や回折を説明することが難しいという問題があった。屈折を説明するために、ニュートンは『光学』(1704年)で「エーテル様の媒質 (aethereal medium)」が光よりも「速い」振動を伝えており、追いこされた光は「反射の発作」や「透過の発作」の状態になり、結果として屈折や回折が生じると述べた。

後年、マクスウェルの方程式から電磁波の存在が予想され、さらにヘルツは電磁波の送受信が可能であることを実験的に示した。マクスウェルの方程式によれば、電磁波が伝播する速さcは誘電率εおよび透磁率μとの間に



の関係があり、この速さは、実験的に知られていた光の速さと一致した。この事実から、光は電磁波の一種であると推定された。しかし、ニュートン力学の基準系、つまりガリレイの相対性原理に従うならば、光の速さは、その光と同じ方向に進む観測者からは遅く、逆方向に進む観測者からは速く見えるはずである。上式によれば、観測者の運動にかかわらず光の速さは一定である。従って、上式のような関係は一般には成立できないと考えられた。そこで、エーテルの運動を基準とした絶対座標系が存在し、その座標系でのみマクスウェルの方程式は厳密に成立すると推定された。

しかし、これらのモデルでは、エーテルが持つ機械的性質は、実に奇妙なものにならざるを得なかった。すなわち、空間に充満していることから流体でなければならないが、高周波の光を伝えるためには、鋼よりもはるかに硬くなければならない。さらに、天体の運動に影響を与えないという事実から、質量も粘性も零のはずである。さらに、エーテル自体は透明で非圧縮性かつ極めて連続的でなければならない。

エーテル仮説の最たる困難は、ニュートンの力学とマクスウェルの電磁気学の整合性であった。ニュートン力学はガリレイ変換の下で不変であったが、マクスウェルの電磁気学はそうでなかった。従って、厳密には、少なくとも一方の理論は誤りであると考えざるを得ない。

ガリレイ変換とは、観測者の視点を変えることである。例えば時速80キロメートルで走る電車の中を、進行方向に向かって時速4キロメートルで歩いている乗客は、別の乗客からは、もちろん、時速4キロメートルで動いているように見える。しかし、電車の外にいる人からは、この乗客は時速84キロメートルで動いているように見える。見る人が変われば運動も異なって見える、その見え方の違いを定式化したものがガリレイ変換である。そしてニュートンの運動方程式は、ガリレイ変換をしても、つまり誰から見ても、成立する。このように、常に成立することを「不変」という。

しかしながら、マクスウェルの方程式によれば、光の速さは誘電率と透磁率から定まるのであるが、この値は、観測者の運動に依存しない。つまり、電車に乗っている人にとっても、外にいる人にとっても、光の速さは同じでなければならないことになる。すなわち、マクスウェルの方程式はガリレイ変換について不変ではない。全ての物理学理論はガリレイ変換について不変であるべきだと考えられていたため、「エーテルに対する絶対座標系」が存在し、マクスウェルの方程式はこの座標系においてのみ厳密に成立すると考えられた。

そこで、地球の、絶対座標系に対する運動に関心が持たれるようになった。マクスウェルは1870年代後半に、地球の運動が光の速さに及ぼす影響を調べることで、地球の絶対座標系に対する運動を知ることができると述べた。光の進行方向が地球の進行方向と一致すれば光は遅く見え、逆方向であれば光は速く見えるはずである、と考えたのである。季節あるいは昼夜が変化すれば観測者の運動の方向が反転するが、この運動の変化は光の速さに比べて小さいものの、検出不可能なほど小さくはないと考えられた。すなわち、地球はエーテルの中を進んでいるのであるから、地上ではいわば「エーテルの風」が吹いていることになり、これは光速の変化として捉えられると考えたのである。


ニュートンの「時間」と「空間」と「座標」の定義 6 『運動動力源としての神 物理法則を司る至高存在』

2012-04-20 | 日記
太陽系の惑星の運動をよく観察すると、
引力という力によって、太陽を中心として、
全惑星が、互いにぶつからず、
互いに適切な距離を保って永続的に回転していることがわかります。

The Solar System: A Brief Glance


しかし、ニュートンは考えます。

慣性の法則にしても、
太陽系での諸惑星の回転運動にしても、
確かに、法則に則った力が働いており、
その力が宇宙のすべての物質を動かしている。

それは分かるが、それでは、慣性の法則の
「一旦動かしたものは、永遠に動き続ける」という原理について、
宇宙空間であっても、止まらず永遠に動くには「動力」が必要だ。

一体誰が、永遠に物質を動かし続けているのだろうか?

そして万有引力に、誰が永続的に「動力」を与えているのだろうか?

金星や地球、火星、木星、土星、彗星などの動きを研究すると、
太陽を中心として、引力の相互作用によって、
諸惑星と彗星群が回転運動を成して、太陽系を創っていることがわかる。

この万有引力の相互作用は、もし、一定の距離がなければ、
即座に互いに衝突して崩壊してしまうものであるから、
太陽系の諸惑星の運動が、永続的に安定して運行している理由は、
何かの原因によって、惑星同士の距離も、
最適の間隔に調整されているから、と見なされる。

(しかしながら誰が、もろもろの太陽系の相互に
 十分な距離を空けたのだろうか?)

地球は(後にフーコーが証明した通り)自転しており、
ガリレオの言う如く、公転している。

万有引力の法則があっても、相互が衝突せずに
宇宙空間で安定軌道を保っていられる大きな理由は、
それぞれの天体が自転し、相互に十分な距離を空けていて、
さらに太陽を中心にして、すべてが公転していることにある。

(誰が、惑星間の距離を最善に調整しているのだろうか?)

夜空の無数の星々は、我々の太陽系と同じように、
恒星を中心として、惑星群が公転している形になっていると思われる。

夜空に見えている星は、太陽のような自ら輝いている星であろうから、
地球のような惑星は、存在しても見えていない可能性が高い。

すると、宇宙には、見えている以上に
想像もつかないほどの天体があるに違いない。

その見えていないすべての星々も、この太陽系で見るような、
整然とした、物理法則に則って運行しているだろう。

太陽系同士も衝突しないように、
宇宙空間で、互いに相当の距離を持って、
存在していると予想できる。………


ニュートンはこのように推察しました。

そして、これらの宇宙での秩序整然とした物理法則を見て、

「人間の思考を超えた、至高の存在者(一なる神)が、
 すべての物理現象を支えている」

と結論を出しました。

それが
『運動動力源としての神 物理法則を司る至高存在』です。


この叡智の集積ともいえる
「一なる神(至高存在)」には、特徴があります。

それは「キリスト教で言われるところの神ではない」ということです。

つまり、如何にイエス・キリストが、
当時ナザレで「神」の如き力を発揮していたとしても、
天体のすべての運行を、イエス・キリストが
押したり、引いたりして行っているわけではないわけです。

そして、キリスト教が生まれる遥か遥か大昔から、
宇宙の全天体群の運行は行われていたわけです。

ですから、この「一なる神(至高存在)」というのは、
「キリスト教の神」「慈悲の神」という意味ではなく、
実際に万物を生んだ、根源的な存在(至高存在)となります。

それが『運動動力源としての神 物理法則を司る至高存在』の意味です。

しかしながら、ニュートンが、
イエス・キリストを軽視していたかというとそんなことはなく、
敬虔な信仰を持っていました。

ニュートンは、

宇宙を司る(人格を越えた)「一なる神(至高存在)」が
第一存在としており、

イエス・キリストは、至高神と人間をつなぐ仲介者として
(第二存在として)存在している、

と考えました。

そして、「神」と言われる存在が、
すべてこの「一なる神(至高存在)」ということではなく、
同じ「神」という名でも、分けて考える必要があるとしました。

※この意味でニュートンは、
「神の啓示を否定する理神論者」ではありません。

むしろ、神を否定する無神論、唯物論を非常に嫌悪していました。

ニュートンは、プリンキピアを
たくさんの数学的な物理法則の探求によって、
これらの精密な法則を生み出した至高存在の性質について吟味し、
人々の創造神(究極の実在)の尊崇に結びつくように書いています。

(現在の日本の数学や物理の教育では、
 この、重要なニュートンの「物理法則を司る至高存在」の言及が
 完全に削除されているため、
 非常に偏った教育内容=唯物主義無神論教育となっています。
 そしてこのために、学生が物理の真髄を十全に理解できなくなっています。)


Twelve articles on religion by Isaac Newton
ニュートンの宗教に関する12条

(訳 鈴木てつや)

Artic 1.
There is one God the Father everliving, omnipresent, omniscient, almighty, the maker of heaven & earth, & one Mediator between God & Man the Man Christ Iesus.

〔第1条〕

(この世には、この宇宙には)
一なる神、永続して存在する父なる者がおり、
永遠普遍で、全知全能であり、

天なる世界(天国)と、地球と、
イエス・キリストという神(と人間と)の仲介者とを産んだ存在である。

Artic 2.
The father is the invisible God whom no eye hath seen or can see, all other beings are sometimes visible.

〔第2条〕

(唯一の)父なる存在は、人間には見えない神であり、
過去に誰も見たことはなく、今も見えない。
他のすべての存在は目に見えることもある。


The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)/General Scholium
『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン

(訳 鈴木てつや)

This most beautiful System of the Sun, Planets, and Comets, could only proceed from the counsel and dominion of an intelligent and powerful being. And if the fixed Stars are the centers of other like systems, these, being form'd by the like wise counsel, must be all subject to the dominion of One; especially since the light of the fixed Stars is of the same nature with the light of the Sun, and from every system light passes into all the other systems. And lest the systems of the fixed Stars should, by their gravity, fall on each other mutually, he hath placed those Systems at immense distances from one another.

この、最も美しい、太陽と惑星群と彗星群からなる太陽系を見ていると、これらが、何者か―叡智と大きな力を備えた存在の、深慮と支配とによって運行されている、と考える以外にあり得ません。他のもろもろの太陽系群の固定軸となっている恒星群が、(太陽系と)同じように(中心の恒星を軸に回転運動を)成しているとしたら、(それこそ、また同じように)叡智的な深慮を以って運行されているということであり、一なる支配者の司りによっているに違いありません。そして特に、この(各太陽系の)中心として固定されている恒星群の光は、(我々の)太陽の光と全く同じ性質を持っており、その光が、お互いの太陽系の中に、光を届け合っている(夜空に互いの星々の光が見える)わけです。そして、万有引力が、お互いの太陽系同士にも働いているにもかかわらず、相互に引き合って衝突したりせずに済んでいるのは、(至高の存在である)父なる神が、相互の太陽系群を(引力が引き合わない程の)非常に離れた位置に(宇宙空間の中で予め)配置されたからに違いないのです。

This Being governs all things, not as the soul of the world, but as Lord over all: And on account of his dominion he is wont to be called Lord God παντοκρατωρ, or Universal Ruler. For God is a relative word, and has a respect to servants; and Deity is the dominion of God, not over his own body, as those imagine who fancy God to be the soul of the world, but over servants.

この存在は、万物を治めています。そしてそれは、宇宙の霊性としてではなく、万物の主として司っている存在です。かの存在者の(万物への)統治の姿から、「主なる神」「パントクラトール」「宇宙の法則を決めている存在」などと呼ばれています。というのは、「神」といっても、いろいろな意味で使われる言葉であり、(本当の意味での「神」は)すべての僕(しもべ)たち(=神の被造物=人間と生命と物質すべて)を尊重されているのです。というのも、「神性」とは、「神の主座」と言えますが、この意味は、「神性」というものが、(「外なる神」とも言われるような、例えば人間の存在と宇宙とから切り離された場所に「神」が存在していて)その「神」だけが「神性」に満たされているのだ、などといった夢想者が抱く「神」の概念ではなく、すべての宇宙にある存在、万物に(「内なる神」として)「神」の「神性」が作用して(宿って)いるという意味なのです。

The supreme God is a Being eternal, infinite, absolutely perfect; but a being, however perfect, without dominion, cannot be said to be Lord God; for we say, my God, your God, the God of Israel, the God of Gods, and Lord of Lords; but we do not say, my Eternal, your Eternal, the Eternal of Israel, the Eternal of Gods; we do not say, my Infinite, or my Perfect: These are titles which have no respect to servants. The word God usually signifies Lord; but every lord is not a God. It is the dominion of a spiritual being which constitutes a God; a true, supreme, or imaginary dominion makes a true, supreme, or imaginary God.

この至高の神は、永遠で無限なる存在であり、絶対的な完全なる存在です。しかし、(もし、その「神」が)「完全なる存在であるけれども、(物理法則の)支配力がない」場合は、それは(ここで言っている、究極なる)「主なる神」とは言えません。私たちは、(至高の神のことを)「私の神」「あなたの神」「イスラエルの神」「神々の神」「主の主」などと言いますが、「私の永遠」「あなたの永遠」「イスラエルの永遠」「神の永遠」などとは言いませんし、「私の無限」「私の完全」などという言い方もしません。というのも、これらの(使われない)言い方では、僕(しもべ)たち(=神の被造物=人間と生命と物質すべて)が全く尊重されていないからです。「神」という言葉は、通常「主なる神」を意味します。しかし、すべての「主」(と言われる存在)がここで言う「至高の神」であるとは限りません。「神」という言葉は、「一なる神」を構成している霊的存在者の司りを意味するからです。つまり、真実に、絶対的に(宇宙すべての)統治をしている「主」であれば、それは、真実の、絶対的「至高の神」であり、逆に、実際には(宇宙すべてを)統治していない「主」であれば、それは、「想像上(架空)の神」ということになります。

And from his true dominion it follows that the true God is a Living, Intelligent, and Powerful Being; and, from his other perfections, that he is Supreme or most Perfect. He is Eternal and Infinite, Omnipotent and Omniscient; that is, his duration reaches from Eternity to Eternity; his presence from Infinity to Infinity; he governs all things, and knows all things that are or can be done. He is not Eternity and Infinity, but Eternal and Infinite; he is not Duration and Space, but he endures and is present. He endures forever, and is every where present; and, by existing always and every where, he constitutes Duration and Space.

そして、神の真実の(宇宙すべての)統治という点から考えてみると、この真実の神という存在は、生き通しの、叡智的な存在者であり、最大の力を持った存在であることが分かります。また、宇宙のあらゆるところで見受けられる法則の完全性から考えてみると、かの至高存在は、絶対存在であり、最大なる完全性を備えていることが分かります。神は、永遠なる、無限なる存在で、かつ全知全能で、無限から無限へと在り続けています。つまり、神は、万物すべてを統治しており、今あるものすべてのことを知り、これから起こるであろうすべてのことも知る存在です。神は、(「外なる神」として宇宙から離れたところに居る)「永遠」「無限」という存在ではなく、現に今「永遠として在り続ける者」「無限として在り続ける者」です。というのも、神とは、「持続して存在する時空間」ではなく、神こそが、それ(時空間=宇宙)を支えており、、在り続けている存在だからです。かの至高存在は、流れ続ける時間と空間を構成しながら、永遠に宇宙を支え続け、永遠普遍に至るところで存在し続けているです。


ニュートンの「時間」と「空間」と「座標」の定義 5 『神の座標 絶対空間 絶対時間』

2012-04-16 | 日記
すべてが相対的な座標であれば、
一体、すべての運動をどのように記述したらよいのか、
ニュートンは考えました。

相対的でない、オリジナルの運動形式を
正確に把握できる方法はあるだろうか?

(そうでなければ、見せかけの運動形式を、
 それが真の運動形式だと思い込んでいるだけで、
 正確な初期条件を得ることができず、
 古典力学が目的とする正確な予測ができなくなるからです。)

地球上では、たくさんの座標系を持って、運動しています。
地球上だけでなく、太陽系のすべての惑星でも同じことです。

そして、すべてがお互いに対して(相対的に)動いています。

ニュートンは、いわば、無数の人間の視点で座標系がある現状で、
太陽系の星々は、皆、整然とした物理法則で運行していることから、
誰か、人間の視点を超えた第三者が、
すべての物理現象を総合的に見ている(管理している)
と考えました。

(なぜなら物理現象が、万物に及んでいるからです)

そして、この人間の視点を超えた第三者が、
あらゆる相対座標系、慣性系を独自の視点で見ていると考えたのです。

それが、『神の座標 絶対空間 絶対時間』という概念です。

「絶対時間」とは、
ほかの何ものにも影響されずに、
独立して継続的に、一様に流れて行く時間であり、

「絶対空間」とは、
ほかの何ものにも影響されずに、
「不動なるもの」を中心にして独立して存在している空間です。



『絶対空間 絶対時間』の座標は、直交座標がもとになっており、
3次元で、格子状になっており、
すべての点(全宇宙)で同じ時を刻みます。



この座標の特徴は、

「ユークリッド幾何学を前提にしたもので、
 形而上学的な定義を含み、
 永遠から永遠へ、形と流れが変化しない固定した時空の座標である」

ということにあります。

形而上学的な定義という意味は、

厳密な意味では、人間の目には見えないものであり、
また触ったり、取り出したりすることはできないが、
無いわけではなく、むしろそれがなければ万物が形成されないもの、

ということになります。

例を挙げると、
私たちは学校で、「円」(丸い形)ということを習います。



そして、角度の問題や接線の問題など、
幾何学の問題を解くことがありますが、

しかし実際には、幾何学で問題に出されている「真円」(正円)は、
現実の世界では、存在していません。

というのも、鉛筆やコンパスでどんなに丁寧に描いても、
太さが変わったり、ずれたりするからです。

また、正確な図を描くのにコンピューター(パソコン)で描いても、
ドット表示のため、拡大すると、ギザギザになっているか、
周囲がぼやけている表示なっている(がびがびな円である)わけです。



同じく、『絶対空間 絶対時間』も、
この現象世界には、取り出すことができないものです。

しかし、この概念がなければ、
「不動点(原点O)を中心とした真の運動形式」
が扱えなくなるのです。

※また、全宇宙で一様に、均等に流れる絶対時間がなければ、
時間が早く流れる場所と、遅く流れる場所とで、
同じ運動の時間も前後してしまうことになり、
重要な宇宙の法則、因果関係が壊れてしまいます。

そのため、ニュートンは、この考えを導入しました。

Philosophiae naturalis principia mathematica
『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン



The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)/Definitions

(訳 鈴木てつや)

Upon which account, the true and absolute motion of a body cannot be determin'd by the translation of it from those which only seem to rest. For the external bodies ought not only to appear at rest, but to be really at rest.

このような理由から、真の、そして絶対的な運動というものは、ただ一見すると止まっているかのように見える人が、観測するということだけで決定することはできません。なぜかというと、(観測する側の)外部の存在も、止まっているように見えるだけでなく、本当に(完全に)止まっていなくてはならないからです。

It is indeed a matter of great difficulty to discover, and effectually to distinguish, the True motion of particular bodies from the Apparent: because the parts of that immovable space in which those motions are perform'd, do by no means come under the observation of our senses. Yet the thing is not altogether desperate; for we have some arguments to guide us, partly from the apparent motions, which are the differences of the true motions; partly from the forces, which are the causes and effects of the true motions.

特定の、もろもろの物体の真の運動を、その見かけ上の運動から効果的に区別し、発見することは、実際には非常に難しいことです。なぜかといえば、運動が行われる中で、(重要な)不動の空間における座標というのは、私たち人間の観測する感覚世界には、決して入ってこない情報だからです。しかし、(見極めが)絶望的なわけではありません。というのも、(不動の空間における真の運動の)手がかりが、一つは、「真の運動と見かけ上の運動の差異」から見出すことができ、もうひとつは、因果関係を構成している「力」から見出すことができるからです。

Wherefore entire and absolute motions can be no otherwise determin'd than by immovable places; and for that reason I did before refer those absolute motions to immovable places, but relative ones to moveable places. Now no other places are immovable, but those that, from infinity to infinity, do all retain the same given positions one to another; and upon this account, must ever remain unmov'd; and do thereby constitute, what I call, immovable space.

そのようなわけで、完全なる、そして絶対的な運動(形式)というものは、「不動なる場所」から測定する以外には決定されないことになります。このような理由で、私は「絶対運動」を「不動なる場所」からのものとして言及し、「相対運動」を「互いに動いている場所」からのものとしたのです。そして、「不動なる場所」というものは、「無限から無限へと、すべてがお互いに固定した位置を与え続けられるもの」、という以外には在りえません。それは、いつまでも(互いに)位置を動かさない場所を構成し、保たれます。これを私は「不動なる空間」(=絶対空間)と呼びます。

『絶対空間 絶対時間』について

I. Absolute, true, and mathematical time, of itself, and from its own nature, flows equably without relation to anything external, and by another name is called duration: relative, apparent, and common time, is some sensible and external (whether accurate or unequable) measure of duration by the means of motion, which is commonly used instead of true time; such as an Hour, a Day, a Month, a Year.

I 絶対的な時間、真の時間、数学的な時間というものは、それ自身の天来の性質から、外部の何ものにも影響されずに、均等に流れて行くものであり、それゆえ、「持続(継続)」ともいいます。(絶対的な時間に対して)他方、相対的で、見かけ上の、そして(私たちにとって)日常的な「時間」というものは、ある種の「感覚的な時間」です。それらは、絶対的な時間の代わりに、一時間、一日、一月、一年などという形で、(精密なものも、不精密なものもありますが)外的な測度(※時計など)によって使われています。

II Absolute space, in its own nature, without relation to anything external, remains always similar and immovable. Relative space is some movable dimension or measure of the absolute spaces; which our senses determine by its position to bodies; and which is commonly taken for immovable space; such is the dimension of a subterraneous, an aerial, or celestial space, determined by its position in respect of the earth.

II 絶対的な空間というものは、その本性として、いかなる外部のものからの影響を受けずに、常に同じ性質を保ち、不動なるものです。(それに対して)相対的な空間というものは、(固定した絶対空間と違い)可動する次元(座標軸)を持っています。相対空間の中で、私たちは物体の場所を、(静止座標と見なした)ほかの物(位置)から測定しています。それは、(実際には測定できない)不動なる空間(真の運動)に対する代わりのものとして扱っています。そして、(絶対的空間に即するものとして)見えない不可思議なる、天界の物質である、「エーテル」というものが、地球を中心とした不動座標として考えられています。

IV. Absolute motion, is the translation of a body from one absolute place into another; and Relative motion, the translation from one relative place into another. Thus in a Ship under sail, the relative place of a body is that part of the Ship, which the Body possesses; or that part of its cavity which the body fills, and which therefore moves together with the Ship: And Relative rest, is the continuance of the Body in the same part of the Ship, or of its cavity. But Real, absolute rest, is the continuance of the Body in the same part of that Immovable space, in which the Ship itself, its cavity, and all that it contains, is moved. Wherefore, if the Earth is really at rest, the Body which relatively rests in the Ship, will really and absolutely move with the same velocity which the Ship has on the Earth. But if the Earth also moves, the true and absolute motion of the body will arise, partly from the true motion of the Earth, in immovable space; partly from the relative motion of the Ship on the Earth: and if the body moves also relatively in the Ship; its true motion will arise, partly from the true motion of the Earth, in immovable space, and partly from the relative motions as well of the Ship on the Earth, as of the Body in the Ship; and from these relative motions, will arise the relative motion of the Body on the Earth.

IV 絶対的な運動とは、ある物体が、ある絶対空間からある絶対空間へと移動することであり、相対的な運動とは、相対空間から相対空間へと移動することです。例えばもし、海上を帆走中の船があったとして、相対座標というのは、船全体のあらゆる場所であり、船の内部の空間も皆、含んでいます。そしてそれは船全体と一緒に動いているわけです。「相対的な静止」(船が海上で止まった)というのは、船の各部分と船内の空気も含めて、全体が止まっていることを意味します。しかし、本当の「絶対的な静止」という意味で考えると、船自体も、内部空間も、船の各部分も、(静止しておらず)動いているわけです。つまり、例えもし、地球が(絶対空間に対して)静止していたとして、船内にいる人が動かず、じっとしていたとして、(海にいるが)船が地球の動きと完全に同じであったとしても(潮の流れがなく海にくっつくように浮いているとしても)、地球が、本当は絶対空間に対して、真の運動として動いている場合や、船が地球に対して相対的に動いている場合や、船の中にいる人が、船の中で動いている場合は、これらの相対的な複合の運動が、地球に対しての相対運動の大きさを加算させることになるからです。


ニュートンの「時間」と「空間」と「座標」の定義 4 『ガリレイ変換』 すべてが相対座標

2012-04-13 | 日記
観察する人間の座標系によって、
見かけが異なる運動形式になるために、
それらをお互いに換算したり、変換したりする必要があります。





結局、それぞれが独立した慣性系(視点)が、無数にあるということです。
※ガリレイ変換



もし、室内で読書する人の運動状態を「静止している」としても、
本当は、車の中にいるかもしれないし、
または、ただの外の映像が部屋に流れていて
部屋が(動いていないのに)動いてるように見えるのかもしれません。

これらは、評価速度が全く変わってきます。

スピードが違う二台の車は、
それぞれお互いを違うスピードで動いていると見なします。
さらに、地上で静止している人からは、また2台とも違う速度に観測します。

そして対向車は、接近速度が加算されます。


では、静止座標というのは、どこにあるのでしょう?

もし人が、部屋で、車や電車にも乗らず、飛行にも乗らず、
本当に、地面に対して動かないという意味で、
椅子に座ってじっとしていながら、
同時に毎時900マイル(毎時1.450キロ)で移動する
なんてことは可能でしょうか?

答えは、「可能」です。

ある人が、机にじっと座り、
机は、家に対して固定していて、
家は大地(地球)に固定していています。

その地球は、しかし、自転しています。
一日に一回転しています。



もし赤道(Equator)下であれば、
周囲は25000マイル(40.075キロ)あるので、
時速約1000マイル(毎時約1.600キロ)です。

アメリカのアトランタだと、時速約860マイルになります。

でも、もし北極や南極で、地軸の真上にいたら、どうでしょうか?
完全な静止座標でしょうか?

ところが、地球は太陽の周りを好転していて、
そのスピードは、秒速約16マイル(秒速25キロ)です。

さらに、太陽系は、銀河系の中心を巡っています。

銀河系は、どこかに対して動いています。

ということで、この宇宙で、
計算に便利な「完全な静止座標」というものはありません。

Cognifront.Relative-Motion


ガリレイ変換 - Wikipedia
ガリレイ変換(ガリレイへんかん、英語:Galilean transformation)とはある慣性系における物理現象の記述を別の慣性系での記述に変換するための座標変換の方法の一つである。相対論的効果を考慮していないので厳密には正しくないが、光速に比べて十分遅い速度のみを扱う場合は近似的に成り立つと見なせ、特に日常生活で接する程度の速度では極めて厳密に成り立つ。

ガリレイ変換(ガリレイへんかん、英語:Galilean transformation)とはある慣性系における物理現象の記述を別の慣性系での記述に変換するための座標変換の方法の一つである。相対論的効果を考慮していないので厳密には正しくないが、光速に比べて十分遅い速度のみを扱う場合は近似的に成り立つと見なせ、特に日常生活で接する程度の速度では極めて厳密に成り立つ。

Physical Science 1.3a - Reference Frames


慣性系 - Wikipedia
慣性系(かんせいけい、ガリレイ系とも、英語:inertial frame of reference)は、慣性の法則(運動の第1法則)が成立する座標系である。太陽系の重心に原点を取り、恒星系に対して回転しない座標系は慣性系に近いことが現在分かっている。慣性系によって物体の運動状態を記述するとき、その物体は外力を受けない限り、等速直線運動を行う。


ニュートンの「時間」と「空間」と「座標」の定義 3 『測定と相対座標』 Frames of Reference

2012-04-11 | 日記
万物は、物理法則に則って動いており、
必要な初期条件さえ把握できれば、
すべての運動は予測が可能であるとされたわけですが、
すべての原子の動きを調べることで、 大きな天体から人間含めて、すべて計算ができると想定されました

ここで、ひとつ問題点が出てきます。

それは、「測定」です。





ある物質が、どのくらいの質量であり、
どのくらいの速度で、どちらの方向に動いているか、

これを正確に知ることは、大切ですが、
観測者が動いている中で、
対象の物質の運動を計ることは難しいことです。

よって、物理の前提として(いわば無意識に)、
「測定は、片方が静止しているところで行う」と考えられています。

例えば、車のスピードを計るときには、
観測者は、静止した座標(地点)で測定します。

しかし、世の中の動き、物質の動きは、
実際には、測定する場所によって変わってしまいます。

例えば、道路で車が近づいてくるのを見ている歩行者は、
立ち止まって、近づいてくる車を見ます。

逆に、車の運転手から見ると、
(自分が運転して歩行者に近づいているにもかかわらず)
歩きを止めた歩行者が、自分に近づいてくるように見えます。

逆さに立っている人から見ると、世界は逆転しています。
一方、大地に立っている人は、逆さに入る人を「逆」と見ます。

いわば、人の数だけ、座標系がありますが、
どれを基準にするかが問題です。

基準とするものを「基準系」Frames of Reference と言います。

しかしながら、人の目には錯覚というものがあり、
移動しているように見えても、背後のスクリーンが動いていたり、
静止しているように見えても、外が見えない電車の中の様子だったりします。

結局、すべての「動き」というのは、
「相対的」なものということになります。

新幹線に乗っている人は、最初は、加速度を感じるものの、
時速二百キロのスピードで走行中でも、車内では、普通に歩けますし、
物を落としても、遥か後方に飛ぶことなく、真下に落ちるわけです。

しかし、もし透明な新幹線のボディがあれば、
それを見た一般の市民は、ありえないような猛スピードで移動する、
車内の人々が見えるはずです。

速度は、(静止座標から見ると)
見せかけ上の速度と、移動座標系の速度を加減したものになります。

また、座標自体が回転した場合は、
物の動きは、静止座標での等速直線運動が、
回転運動に転換されて表現されることになります。

フーコーの振り子は、
それ自体、回転しているわけではありませんが、
地球が自転しているために、コリオリの力が働いて、
(回転体である地球の上にいる)人々からは、
振り子が回転しているように見えます。
(振り子:静止座標 VS 地上:回転座標)

Frames of Reference (1960) [part 1 of 2]


サイクロイド - Wikipedia


慣性 - Wikipedia
慣性(かんせい、英語:inertia)とは、ある物体が 外力 を受けないとき、その物体の運動状態は 慣性系 に対して変わらないという性質のことである。静止した物体に 力 が働かないとき、その物体は慣性系に対し静止を続ける。運動する物体に力が働かないとき、その物体は慣性系に対し運動状態を変えず、 等速直線運動 を続ける。これは 慣性の法則(運動の第1法則)として知られている。

Frames of Reference (1960) [part 2 of 2]


コリオリの力 - Wikipedia

コリオリの力(コリオリのちから、Coriolis force)とは、回転座標系(Rotating reference frame)上で移動した際に移動方向と垂直な方向に移動速度に比例した大きさで受ける慣性力の一種であり、コリオリ力、転向力(てんこうりょく)ともいう。1835年にフランスの科学者ガスパール=ギュスターヴ・コリオリが導いた。

地球は東向きに自転している。そのため、低緯度の地点から高緯度の地点に向かって運動している物体には東向き、逆に高緯度の地点から低緯度の地点に向かって運動している物体には西向きの力が働く。北半球では右向き、南半球では左向きの力が働くとも言える。

フーコーの振り子 - Wikipedia

フーコーの振り子(フーコーのふりこ、フランス語:Pendule de Foucault)は、長い振り子(通常10m以上)の底に質量の大きいおもりをつけたもので、地球が自転していることの証明に使用される。レオン・フーコーが1851年1月8日にパリのパンテオンで公開実験を行い、地球の自転を証明した。フーコーは、振り子を振れさせると、赤道以外の場所では、地球の自転によって振り子の振動方向がみかけ上少しずつ回転するようにずれていく(北半球では右回りに、南半球では左回りに)はずだと考えた。1851年にまず自宅地下室で2mの振り子を用いて実験を行い、同年2月パリ天文台にて公開実験を行って、成功を収めた。

ニュートンの「時間」と「空間」と「座標」の定義 2 『デカルト座標』1次元・2次元・3次元

2012-04-10 | 日記
しかし、物が動いているのを計算するにしても、
土台となる基準が必要になります。

この基準に、デカルト座標(直交座標系)があります。

(2次元)



デカルト座標の優れている点は、
数式の各点と、座標が一対一対応になっていて



数式(解)があれば、それは座標に対応しており、
座標の諸点は、数式(解)に対応していることです。

(1次元)


(3次元)


(回転体)


これらの座標は、ユークリッド幾何学が基になっています。

ユークリッド幾何学の特徴は、

1次元であれば、直線
2次元であれば、2本の直交座標
3次元であれば、3本の直交座標

から成立していることです。



The Cartesian Coordinate System an Introduction


直交座標系 - Wikipedia
数学における直交座標系(ちょっこうざひょうけい、rectangular coordinate system, orthogonal coordinate system)とは、互いに直交している座標軸を指定することによってさだまる座標系のことである。平面上の直交座標系ではそれぞれの点に対して一意に定まる2つの実数の組によって点の位置が指定される。同様にして空間上の直交座標系では3つの実数の組によって座標が与えられる。1637年に発表された『方法序説』において平面上の座標の概念を確立したルネ・デカルトの名を採ってデカルト座標系 (Cartesian coordinate system) とも呼ぶ。

Video for Lesson 22: Names of Three-Dimensional Figures


ユークリッド幾何学 - Wikipedia

ユークリッド幾何学(ユークリッドきかがく、英語:Euclidean geometry)は、幾何学体系の一つであり、古代エジプトのギリシア系哲学者エウクレイデスの著書『原論』に由来する。古代エジプトや古代ギリシャなどでは盛んに幾何学が研究されていた。

エウクレイデスはその成果を『原論』の1~4巻において体系化した。その手法は、1.まず、点や線などの基礎的な概念に対する定義を与える。2.次に、一連の公理を述べ、公理系を確立する。3.そして、それらの上に500あまりの定理を証明する。という現代数学に近い形式をとっており、完成されたものであったので、それ以降の多くの幾何学者はこの体系の上に研究を進めた。ヨーロッパでは重要な教養の一つと考えられていたものである。こうして基礎づけられ発展した体系は、エウクレイデス(英名:Euclid ユークリッド)に因んでユークリッド幾何学と呼ばれるようになった。

ニュートンの「時間」と「空間」と「座標」の定義 1 『力』

2012-04-08 | 日記
ここで、ニュートンの『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』に戻って、
「時間」と「空間」と「座標」の定義について考えてみます。

ニュートンは、地球上や宇宙で恒常的に働いている諸々の力が、
一体どこから来て、どのように働いているかを考えました。



例えば、
秋にりんごの木から、りんごが落ちるということ、


万有引力がすべての物質に働いていること、


太陽系で、太陽を中心として、諸惑星が一定の周期で公転していること、


力は質量と加速度を掛け合わせたものであること、


一旦動いたものは、動き続けるということ、


何かを押せば、同じ力で反動を受けること、


光が、宇宙空間を波(微粒子)として伝わってきていること・・・


Newton's Equation of Gravity - Beautiful Equations - BBC Four


VideoBrief: Newton's Laws of Motion illustrated with 3D animations and motion graphics


Best Idea Ever!