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📖本『シンドラーに救われた少年 THE BOY WOODEN BOX』レオン・レイソン著 古草秀子 訳 河出書房新社

2021-04-11 09:01:33 | 日記


📖本『シンドラーに救われた少年
こTHE BOY ON THE WOODEN』
レオン・レイソン LEON LEYSON著
古草秀子 訳
河出書房新社

(引用始め)
プロローグ--
オスカー・シンドラーとの再会
1章 嵐の前の日々
2章 ドイツのポーランド侵略
3章 地獄のはじまり
4章 「浄化」という名の虐殺
5章 引き裂かれた絆
6章 完全に正気を失った世界で
7章 プワシュフ収容所と瀕死の日々
8章 シンドラーのリスト
9章 生と死の帰路
10章 移動虐殺部隊の恐怖
エピローグ--
自由という遺産
あとがき
謝辞
訳者より
プロローグ--
オスカー・シンドラーとの再会
じつをいえば、手のひらがひどく汗ばんで、
胃がきりきり痛かった。
おとなしく列に並んでいたものの、
私の心は荒く波立っていた。
もうすぐ順番が来て、
この命を幾度となく救ってくれた恩人と
握手するのだ。けれど、
あれからもう長い年月が過ぎた。
彼は私のことなど
すっかり忘れているのではないだろうか、
それが不安でたまらなかった。

1965年の秋、
彼(オスカー・シンドラー)を
出迎えにロサンゼルスの空港へ
向かうときからずっと。
これから再会する相手が
こちらを覚えていてくれなくても
仕方のないことだと、
私は自分に言い聞かせていた。

最後に会ったのはもう二十年も前、
遠い欧州の地で、
状況もまったく違っていた。
当時の私は15歳なのに、
10歳くらいにしか見えない、
飢(う)えて痩(や)せこけた少年だった。

それがいまや35歳の立派な大人だ。
既婚者のアメリカ市民、
陸軍を退役して教師となった。

遠来の恩人を迎えようとして
集まった人々が前のほうへ進みはじめたとき、
私はそのまま後ろにいた。
なにしろ私は最年少だし、
年長者が優先のは当然のことだ。

けれど本心では、
再会した恩人に
(自分のことを)覚えていないと
言われてがっかりするのではないかと不安で、
そんな瞬間を 
少しでも先延ばしにしたかったのだ。

がっかりするどころか、
私は彼(シンドラー)の笑顔とやさしい言葉で
胸が熱くなり、
(👴👨👩👧👶😢😢😢😢😢)
有頂天になった。

「わかったぞ!きみは〈ちびのレイブ〉だな」
彼は目を輝かせて言った。
昔と変わらず、
オスカー・シンドラーは、
私を決して失望させない人だった。
この再会の日、
第二次世界大戦ちゅうの
オスカー・シンドラーの英雄的行為を、
世界はまだ知らなかった。

だが、空港にいた私たちは、
彼の偉業をよく知っていた。
その場にいた全員が、
さらには1000人以上の人々が、
彼に命を救われたのだ。

シンドラーは途方もない危険を冒し、
可能な限りの手段を尽くして、
工場で働くユダヤ人が
アウシュビッツ絶滅収容所の
ガス室送りになるのを
救ってくれた。

そのおかげで、
私たちは
ホロコーストを生き延びたのだ。
私たちの命を救うために、
彼は自分の心と魂と、
驚異的な処世術を駆使し、
巨額の財産を投じた。
彼は多くの
ユダヤ人労働者を救うために、
なんの技術も持っていない私たちを
軍需品生産に欠かせない熟練工だと偽って
ナチスを欺いたのだ。
じつのところ、
私は木箱の台の上に立たないと、
自分が担当していた機械の
スイッチに手が届かなかった。
その木箱は、
私を役に立つ存在に見せ、
生きるチャンスを与えてくれたのだ。
私はホロコーストを奇跡的に生き延びた。
不利な条件ばかりで、
有利な条件などほとんどなかった。
年端(としは)もいかぬ少年で、
なんのツテもなく、
特別な技術も持っていなかった。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
だが、なによりも
重要なひとつの要素が
味方してくれた。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
私の命には価値があると、
オスカー・シンドラーが
考えてくれたことだ。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
自分の身を危険にさらしてまでも、
救う価値があると考えてくれたのだ。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
そして、今度は、
私が彼のためにできることをする番だ。
オスカー・シンドラーについて
知っていることを語るのだ。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
私が彼の記憶のなかにずっと 
あったように彼を読者のみなさんの
記憶の一部にしてほしい。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
この本は私の人生の物語であり、
彼との出会いの物語でもある。
そして、私の家族についても
語っている。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
彼らもまた、
私を救うために 
自分の命を危険にさらした。
(👴👨👩👧👶拘束されているウイグル人のご家族の方々も同じだ。)❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️たとえ最悪の時期にあっても、彼らのおかげで私は愛されていると感じ自分の命がかけがえのないものだと感じることができた。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️私からすれば、彼ら(自分の家族)もまた英雄(ヒーロー)なのだ。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️2章 ドイツ軍のポーランド侵攻(中略)1938年の10月は、数々の不穏なニュースではじまった。新聞もラジオもそこかしこの会話も、ドイツと、その指導者であるアドルフ・ヒトラー総督の話であふれていた。1933年にヒトラーが率いるナチ党が政権を掌握すると、彼らはすぐさま支配力を強化し、反対派を黙らせ、ドイツを世界の超大国として再構築するために動きだした。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ユダヤ人を排斥(はいせき)して「他者」とすることは、ヒトラーの重大計画の一部だった。ヒトラーは、第一次世界大戦での敗北から不況にいたるまで、ありとあらゆる問題の責任をユダヤ人に押しつけた。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1938年3月にドイツがオーストリアを併合(へいごう)し、その六カ月後にチェコスロヴァキアのズデーテン地方を割譲(かつじょう)させると、ユダヤ人に対する差別はいっそう激しさを増した。新たに定められた数々の規制によりこれらの地方に住むユダヤ人の生活はますます不安定な状況に陥った。そうした出来事をきちんと理解するまでもなく、私たちはさらなる大きな衝撃に見舞われた。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ヒトラーの命令で、1万7千人にものぼるポーランド出身のユダヤ人がドイツから追放されたのだ。ユダヤ人はドイツ領内で生きる価値がないので出ていけと、ナチス政権が宣言した。ポーランド政府はナチスと同じく反ユダヤ主義を明白にして、ユダヤ人がポーランドへ帰国するために必要な難民許可を与えなかった。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ユダヤ人たちは、国境周辺のごみごみした中間地帯でみじめな生活を強いられるはめになった。その後、一部の人々は警備兵を買収して国境を越え、クラクフなどへ向かった。(本書の著者であるレオン・レイソンの)両親は私の前ではそうした一連の出来事の深刻さを控えめに語っていた。「東では以前、ポグロムがあった。今度は西で問題が起きている。だが、そのうちに落ち着くさ。見てなさい」と父はのんきを装っていた。父がほんとうにそう思っていたのか、それとも私だけでなく、母を、そして自分自身にもそう思わせようとしていたのか、それはわからない。結局のところ、逃げる場所などあったろうか?できることなどあったろうか?そして、最悪の知らせがもたらされた。1938年11月9日の夜から10日にかけて、ドイツとオーストリアで、シナゴーグが焼き打ちに遭い、ユダヤ教の聖典(トーラースクロール)が燃やされ、ユダヤ人の家々が破壊された。ユダヤ人は手当たり次第に殴られ、100人近くが殺された。(👴👨👩👧👶どあほう‼️ばっかじゃないの(怒)‼️)それほど恐ろしいことが起きているのに人々が傍観しているとは、私(著者)にはとうてい信じられなかった。ナチスのプロバガンダはその晩の出来事を、ユダヤ系ポーランド人の青年ヘルシェル・グリンシュパンがフランス在住のドイツ大使館付き書記官を殺したことに抗議する反ユダヤ人デモから自然発生したのだとした。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼それはナチスが必要とした口実だったと、私たちはすぐに思い知った。彼らはこの出来事を口実にして、💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼組織化された暴力を全国的に展開したのだ。のちに、この晩は💀水晶の夜(クリスタルナハト)と呼ばれるようになった。シナゴーグやユダヤ人の家や商店で破壊されたガラスが、月明かりに照らされて水晶のようにきらめいて見えたからだ。じつのところ、この晩に破壊されたのはガラスだけではなかった。(👴👨👩👧👶😢😢😢😢😢😢🌊🌊🌊🌊🌊🌊)ナチスが正気に返って、ユダヤ人への迫害が終わってほしいと、私たちは切に願った。わが家に危険が及ぶことはないし、そのうちに状況が落ち着くはずだと、父になだめられても、私は生まれてはじめて心底から恐怖を感じた。(中略)シンドラーは私たちに東部戦線の状況を話してくれた。1945年早々に、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所を解放したと知らされた。地理に明るい囚人たちが地面に地図を描いて、進軍の様子を図にしてくれた。彼らの地図を見ると、ソ連の動きが現実的に感じられた。ソ連軍がやってくる日はそう遠くないと、彼らは言った。戦争の最後の数カ月間、戦況が決定的になるにつれて楽観的になっただろうと思われるかも知れないが、1945年の春、私たちはすっかり疲弊して体力も気力もまったく失っていた。心は粉々に砕け、体はかろうじて息をしているだけだったのだ。父は12時間勤務の間ずっと立っていられなかった。誰も見ていない隙にしゃがみこんでいた。ダヴィドは両脚の痛みを抱えていた。私は物が二重に見えた。機械の目盛りを読まなくてはならないのに細い線は小さい虫がのたくっているようにしか見えなかったのだ。ドイツ軍のポーランド侵攻ではじまった六年間の艱難辛苦(かんなんしんく)がたまりたまったせいかもしれないが、恐ろしい考えが頭から離れなくなっていた。自分が戦争の最後の銃弾で倒れると思えて、どうしようもないのだ。私は頭のなかでその悪夢をくりかえし反芻(はんすう)した。解放を目前にした、まさに最後の瞬間に運が尽きるのだ。実際に、私の恐れはさほど的外れではなかった。1945年四月にSSは工場にいるすべてのユダヤ人を殺せと命じられた。その命令が実行される前に、シンドラーが彼らを放逐して阻止したのだ。当時、急速に接近するソ連軍に捕えられるのを恐れて、ドイツの将校や兵士たちが脱走していた。その混乱に乗じてシンドラーは私たちのためにまたしても危険を冒した。破棄されたナチスの倉庫へ行って、ネイビーブルーの布とウォトカ(ウォッカ)を大量に持ちかえったのだ。迫ってくるソ連軍に捕まれば、自分もどうなるかわからないと、シンドラーは知っていた。彼はまず監視兵たちに向かって、ただちに自発的に去れば生き残れる可能性が高いと伝えた。それ以上うながす必要はなかった。兵士たちは何も反論せず逃げだしたがシンドラー(ドイツ人)は残った。工場を離れる前に、彼はユダヤ人たちを集めて最後の別れの挨拶をしたのだ。あまりにも長い年月を恐怖のなかで過ごしたため、私は彼(シンドラー)の言葉が事実とはなかなか信じられなかたった。❇️「きみたちは自由だ」シンドラーが言った。自由。誰も一言もはっしなかった。なんと言えばよかったのか? 心の底で渦巻いている感情を、どんな言葉で表現できたろう?自由とは、実現不可能な夢のように思えた。その場から去る前にシンドラーはこう言った。近くの町の(ドイツ人の)人々に復讐しようなどと思わないでくれ、彼らは君たちを生かすためにてを貸してくれたのだから。話を終えると、彼は私たち一人ひとりに布一反とウォトカ一瓶をくれた。食料や宿や衣服と交換できるからだ。(👴👨👩👧👶 ううっっっっ、😢😢😢😢😢🌊🌊🌊🌊🌊)私(著者)はシンドラーと個人的な別れの挨拶はできなかったがある囚人の金歯でつくった指輪を彼に贈るための式に参加した。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️その指輪にはヘブライ語で「ひとつの命を救うものは全世界を救う」とタルムードの言葉が刻まれていた。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️真夜中過ぎに、オスカー・シンドラーは車で去っていった。彼(ドイツ人)はアメリカ軍の陣地をめざし無事にたどり着いた。もしソ連に捕まっていたら、たんなるナチスの一員として殺されていただろう。シンドラーが去ってから、私たちは宙ぶらりんな状態でソ連軍の到着を待った。監視兵たちはさっさと職務を放棄して逃げ出してしまっていたので、出ていこうと思えばできたけれど、私たちはそうしなかった。情報もなく、行くあてもなく、収容所の外で何が待っているのか想像もできなかった。まるで台風の目に入ったように静かだった。若者たちが兵士の残した銃を手に見張り番をした。次にどうしたらいいのか誰もわからないまま、夜がさらに更けた。1945年5月8日、答えがやってきた。ソ連兵がひとり、ゲートに現れた。あなたたちは誰かと尋ねられたので、私たちはポーランド出身のユダヤ人だと答えた。あなたたちは自由だ、囚人服から番号と、囚人をランク別に識別するために色分けした三角形のしるしを取りなさい、とソ連兵が言った。いっせいに番号と三角形の印をむしり取ったその瞬間のことを思い返せば、それは私たちの団結と勝利の瞬間だった。圧倒的に不利な状況のなか、私たちは生き延びた。ナチスの日和見(ひよりみ)主義、策略家、勇気ある異端者、英雄など、オスカー・シンドラーは相反するさまざまな評価を受けている。けれど、彼は死を約束された1200人ものユダヤ人を救うという奇跡を成し遂げたのだ。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️(引用、終わり)(👴👨👩👧👶なぜ世界各国の政府が助けないでたった一人の一般人がやらねばならないのか‼️世界各国の政府の人々は、オスカー・シンドラーや杉原千畝などのたった一人の人間よりぜんぜん機転がきかない、ということではないか。ウイグルやチベット問題で同じ過ちを二度と繰り返さないでください。たくさんの人間のかけがえのないいのちがかかっている。傍観してはならない。毎日毎晩女性たちがレイプされていると思うと、ご飯も喉を通らなくなるのが同じ人間というもの。英国のBBCなどからこれだけ事実や証言があがると人間というものは想像力があって考えれば考えるほど苦しくなる。大企業の社長も善意をもって対処すれば、それでまた会社が盛り上がっていくかも知れない。だから一刻も早く救出してほしい。追伸:中の子どもたちに罪はないから、国が崩壊した暁には、もっと開かれた学校で開かれた先生と一緒に学ばせてあげたい)(引用、続き)10章 移動虐殺部隊の恐怖ソ連が去ると、ゲートが大きく開かれた。私は呆然(ぼうぜん)としていた。みんな同じような状態だった。長年の囚人生活から解き放たれたのだ。当惑と脱力感と激しい喜びが、同時に全身を満たした。頭がすっかり混乱して、どうしたらいいのかわからず、私たちはそれから二日間、そのままブリンリッツ収容所周辺にいた。敵であるドイツの惨敗兵が何百人も列をなしてぞろぞろあるいていくのを目にしても、自分たちが自由になったのだという実感がなかった。かつてあれほど自信満々だった兵士たちがソ連の捕虜となり意気消沈しているのを私は道端に立ってじっと見ていた。とぼとぼと前進する列は何時間も続き彼らは頭を垂れ、陰気な顔をしていた。数人が兵士のブーツを奪って代わりに収容所で履かされていた木靴を放りつけた。私はそれには加わらなかった。たとえどんなことをしてもナチスの仕打ちを「帳消しにはできない」からだ。あれほど意気揚々としていた兵士たちがみじめな敗残の姿でよろめきながら目の前を通る光景をそれを見つめていた数時間を、私は決して忘れまいと思った。やがてチェコスロヴァキア政府がポーランドへの帰国希望者に無料で汽車を提供してくれることになった。母はナフレカへ行ってヘルシェルや親族を探したいと熱望したけれも、父がそんなに東へ行くのはまだ危険だと言った。そして、父は五人でクラクフへ戻ろうと決めた。むろん私たちはみな、ツァリグが敵の手を退かれてナレフカへ戻り、そこで待っているという期待を抱いていた。今回も家畜用の👴👨👩👧👶わたし、今思ったのですけど、昨日の夜就寝していま朝の4時。起きたばっかりだからこれは考えがまとまったということで、マーフィーの何とかでしょうか。👑宮崎駿先生に、


足繁く食べ物を隠れ家に運んでくれたアンネの父オットー・フランクの秘書ミープ・ヒース以外に救いのない❇️『🎥アンネの日記』ではなく、❇️『🎥シンドラーに救われた少年』を是非ともアニメーションにしてほしいと願っております。こちらもやはり「思いをつらぬく」物語だからです‼️『🎥シンドラーのリスト』というタイトルでも良いのですけれどもそうすると、シンドラーの女性関係にも踏み込まねばなりません。そうなると子ども向きでなくなりますので。(引用、続き)今回も家畜用の貨車だったけれど、寝棚があり、引き戸は開いていた。私たちは春の香りを吸い込み、田園風景を眺めることができた。風景を眺めていたが、多くの人の命を奪った戦争の痕跡はほとんど目につかなかった。木々は新芽を伸ばし、野の草花が盛りを迎えている。私の心には戦争の傷痕が深く残っていたが、過ぎゆく風景にはそれらしきものは見えなかった。まるであの恐ろしい苦難の日々は存在しなかったように思えた。だが両親の疲れはて憔悴(しょうすい)しきった顔に目をやると、たちまちあれは現実なのだとわかった。汽車ががたんごとんと音を立てながら東に進むにつれ、私はここ数年していなかったことを自分に許した。❇️将来について考えたのだ。過去数年間というもの、先のことを考えるとなると、つぎの数時間をどう生き延びるか、わずかな食料をどうやって手に入れるか、目の前に待ち受けている死の瀬戸際からどうやって逃れるか、ということを意味していた。それがいまや、「将来」にはもっとたくさんの意味があった。❇️また学校へ行けるかもしれない。❇️家やちゃんとした食事や安全を手にできるかもしれない。❇️いつの日かふたたび、安穏(あんのん)な日々が来るかもしれない。(👴👨👩👧👶それは、私たちがしっかりと見、守り続けなければならないものなのだ。)列車はたびたび停まって、それぞれの故郷の近くで人々を降ろしながら進んだ。列車が停まるたびに、降りた人々はみな後ろを振り返らず、さよならも言わずに去って行った。もはや一瞬たりとも試練を長びかせる気はないからだ。それまで一緒に働いていた人々が、ひとりずつ、家族ごとに、ポーランドのあちこちへ散っていった。私たちはみな、苦難が終わり、❇️自分の人生を取り戻し、(👴👨👩👧👶ナチス政権が人の人生を奪っていたのだ。)長いあいだ離れ離れになっていた家族のもとへ戻れますようにと祈った。悲しいことに、クラクフに着くとすぐに、苦難は終わっていないとわかった。両親もダヴィドもペシャも私も縞柄の囚人服のままだった。私たちは唯一の財産である、シンドラーからもらった布地とウォトカ(酒のウォッカ)を握りしめて、以前住んでいた場所を目指しておずおずと街中を歩いた。好奇の視線を浴びせられたり冷淡に無視されたりして、ひどくいたたまれない気持ちになった。そして、父のキリスト教徒の友人で、以前スーツを売りさばいてくれたウォジェクを見つけ、かつて住んでいたアパートの隣人とも再会した。隣人は私たちをアパートに数日間泊めてくれ、父のためにささやかなパーティを開くことを決めた。貴重なウォトカを一瓶開けて、杯を重ねた彼は、私たちが生きて戻ってきたことに驚いたと告白した。じつのところ、街の多くの人々が同じように驚いていた。 そして、ユダヤ人の予想外の生還を喜ばない人々がいた。私たちが彼らになにかを要求するだろうと、彼らは考えた。彼らは彼らで戦争中に苦しみや喪失を体験しており▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼私たちの苦しみや喪失には感心を▼▼▼▼▼▼持たなかった。反ユダヤ主義の人々などは、ユダヤ人がそこに1000年以上も暮らしてきたという事実を無視して彼らだけのものとみなしている土地から私たちがいなくなったのを見て喜んでいた。そして、私たちが戻ってきたのを目にして不安を感じていた。私たちにしてみれば、たんにようやく取り戻した自由に適応して人生をやり直そうとしていただけだったというのに。(🇯🇵👴👨👩👧👶 強制収容所からウイグル人の方々が帰ってきたとき、自分たちの土地、自分たちの家に他人が住んでいて良いわけがない‼️)母が仕立屋を見つけて、私の分の布地でズボンをつくらせた。新しい服を着るのは六年ぶりだった。仕立屋への支払いはあまった布地だった。父は戦争前に働いていたガラス工場でふたたび雇ってもらえた。(🇯🇵👴👨👩👧👶当然だろう。)住む場所が早急に必要だった。難民のために受け入れセンターになっている学生寮に間借りすることになった。(🇯🇵👴👨👩👧👶ウイグル人解放後は、受け入れセンターを発足させ、そちらにしばらく入居していただかねばならないだろう。難民という言葉が失礼だ。)難民というのが現在の自分たちの姿なのだと、私は実感した。皮肉にも、ユダヤ人が長い歴史を築いてきた国で、私たちは異邦人だった。戦前にはクラクフに六万人もいたユダヤ人が、戦争が終わってみるとわずか数千人になっていた。(🇯🇵👴👨👩👧👶「職業技能教育訓練センター」には、100万人ものウイグル人が収容されているという。100万人て、どんだけ多いことか‼️📖『シンドラーに救われた少年』がアニメーション化されるまでに最短1年?間に合わないかなぁ。その間にどれだけ大勢のウイグル人の命が失われるのだろう‼️「夜半に嵐の吹かぬものかは」。急いで‼️👩どんどんキャッチ・コピーを考えなきゃ‼️👧お母さんっったら‼️また何を考えているの💦💦👩人権を侵害されている人々を救いたい一心で、その思いをつらぬく主人公。提供は、当然ながらウイグル綿を使用したり、収容所で働くウイグル人を無賃金で使った日本企業12~14社でお願いいたします。親鸞の言葉です。「いわんや、悪人をや。」 👩👧宮崎駿先生、「職業技能教育訓練センター」内の🌜🌟ウイグル人の皆さんの命を助けるために、人権を回復するために、どうかアニメーションを制作してください‼️どうかお力をお貸しください。👴どうして僕がやらなきゃならないの?👨なんて、宮崎先生は言わない。👧🇯🇵日本の文科省と、🇯🇵NHKも宮崎アニメーション制作に協賛しよう❇️👴ドイツの了解を得るのが大変だと思いますが、ドイツがどうのこうのとか、歴史を掘り返し批判するためではありません。二度とこの人権無視の歴史をぶり返さないようにアニメーションで全世界の皆さんに知って用心していただきたいのです。どうかよろしくお願いいたします。敬具👧おかあさん、そんなことしても日本はきっと無理だよ。👩いいよ、それならそれで。日本はそこまでの国だっていうことだから。また次のことを考えよう!


宮崎駿先生は、自分がそれをアニメにするかしないかは、「そのストーリーじゃなくって自分がこれだ!と思ったひとつの風景だ」


とおっしゃっておられる。


📖『シンドラーに救われた少年』は 宮崎先生の琴線(きんせん)に触れる、見る者の魂を震わす、または逆撫でするどんな名場面があるだろう。やはり最後、解放直後に「君たちは自由だ」とシンドラーが言う場面だろうか。皆から指輪を贈られる場面だろうか。いや違う。シンドラーが指輪を見て、「もっと交換するものがあればもっともっとたくさんのユダヤ人を救えたのに‼️あと1人、あと2人救えたのに‼️」と嘆き残念がり、


❇️助けきれなかった申し訳なさに


身悶えする場面だと思う。この進化した国際情報社会でいまだにナチスドイツのホロコースト、民族大量虐殺と同じかそれ以上の大惨事が共産国内で起きている。誰もそれをとめる方法がわからない。とめる方法がわからなくても とめたいと思うのが温かい真っ赤な血のかよった人間というものだ。


1日も早くとめなければ毎日毎晩多くの人々の大切な命と心が刻々と奪われていく。私たちはケータイでつたないサイトを見て遊んでいる場合ではない。今こそ、考えて考えて考えねばならない時がきている。アニメ『🎥シンドラーに救われた少年』(仮題)は、収益度外視。ヨーロッパやアメリカのアニメーターの皆さんの協力も仰ごう! 宮崎駿先生が総指揮を取って、パソコンで遠隔会議ができるんだから!宮崎先生のいのちが短くなってしまうのだけが心配ですが。今何もやらない自分を許せない‼️シンドラーが感じたように1人でも多くのウイグル人を救いたい‼️


👧すみません😣💦⤵️母は時々意味不明なことを言います。母はもう宇宙人なんです。👩いえ、わたしはゲルダです。👨👨👨(失笑)そして、君は?👧はい、わたしは🇯🇵日本のハイジです。👶メイでしゅ。👨👨👨(笑い声)いいね!全員合格です。


 


 


夏裘冬扇KAKYU-TOSEN97 片山杜秀 Morihide Katayama

2021-04-11 03:57:55 | 日記

週刊新潮
4月15日号
440円

夏裘冬扇 KAKYU-TOSEN
(万葉集を出典とする著者の造語で、
夏に毛皮のコート、冬に扇子の意味。

「石に口すすぎ、川の流れに枕する」
という意味の夏目漱石のペンネームの
由来を思い出した。

本文から引用始め)

功を焦ればこんなもので、
今度の五輪はそんなものかもしれない。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
『香妃(こうひ)』(日米開戦の翌年、山田耕作が北京で講演し、
日中親善の証としてぶち上げた新作オペラの大構想。舞台は清代の中。
第6代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)は、
カシュガルの王の妃が香気漂う絶世の美女と聞き、
王を殺害して彼女を略奪。
が、美女は皇帝に靡(なび)かず殺意さえ抱き、大騒動へ。
これぞ諸民族入り乱れる大陸ロマン!)
『香妃』で中の独裁皇帝を倒そうとする絶世の美女とは
ウイグル人なのだ。
誰か上演したくなってきませんか。

(引用終わり)


片山杜秀(かたやまもりひで)さんとは、
1963年、宮城県生まれ。
思想史家。音楽評論家。
『音盤考現学』『音盤博物誌』(吉田秀和賞、サントリー学芸賞)、
『未究のファシズム』(司馬遼太郎賞)、
『新冷戦時代の超克』など著書多数。
本コラムのタイトルは上記にて説明。




📖本『シニアひとり旅 インド、ネパールからシルクロードへ』下川裕治 著 平凡社新書

2021-04-03 19:01:25 | 日記

📖本『シニアひとり旅 インド、ネパールから
シルクロードへ 』
下川裕治 著
SHIMOKAWA YUJI
平凡社新書914
平凡社新書創刊20周年

旅人を魅了する、その先のアジアへ

かつて過酷そのものだったインドの列車旅、
困難を極めた中央アジアの国境越え、
シルクロードの交易地として栄えたスイアブはいま……。

第一章 インド-この地を踏まずに、
ひとり旅は語れない…………

第二章 ネパール-再訪トレッキングの聖地へ…………

第三章 パキスタン-旅すればときは遡る…………

第四章 バングラデシュ-支援と自立の狭間で…………

第五章 中央アジア-旧ソ連から独立した国々…………

第六章 シルクロード-交易を担ったソクド人の面影…………

第七章 新疆ウイグル自治区-
ひとり旅だからこそ見えるもの…………

終章 南・中央アジアへの旅で
知っておきたいこと…………


(引用始め)

第七章 新疆ウイグル自治区-
ひとり旅だから見えるもの

旅をするにも厳しいチェックが待ち受ける

この章を書くのは気が重い。
しかし実態がそう進んでしまっている以上、
避けて通るわけにもいかない。

日本人がこの問題にかかわっているわけではないが、
旅行者として中の新疆ウイグル自治区を歩くと、
いやおうなしに巻き込まれていってしまうからだ。

ガイドブックやネット系のガイドも、
この問題にあまり触れていない。

旅行者たちのブログを読んでも、
自ら規制をしているのか、
避けてしまう傾向が強い。

話はどうしても、中政府の方針に絡んでいってしまうからだ。


パキスタン北部で、
ひとりのシニア旅行者と出会った。

僕はイスラマバードから北上し、
フンザを訪ね、
そこから中に向かおうとしていた。

パキスタンの出国審査はソストで行われる。
フンザからソストに向かう乗り合いバンに乗っていると、
彼(ひとりのシニア旅行者)が途中から
乗り込んできた。

翌日、僕らはクンジュラブ峠を越えて、
中の新疆ウイグル自治区に入った。

タンジュラブ峠を越えた最初の街はタシュクルガンである。
新疆ウイグル自治区はイスラム教徒が多いが、
移り住む漢字の民族も多い。

パキスタンでは飲むことができなかったビールも、
この街では大丈夫だった。

僕らは連れだって
四川料理店に入り、
まずビールを注文した。

彼はいま農業をやっているというが、
長く会社に勤めていた。

中在住の経験もあり、中語もかなりうまい。
定年退職後は、農業をしながら、
暇な時期に中にやってくるのだという。

目標は、中の世界遺産をすべてまわることだった。
しかし、それはなかなか大変らしい。

今回の旅でも、青海(チンハイ)省のゴルムドに近い
世界遺産を訪ねようとしたが、
そこはチベット自治区のなかで、
入城許可をとらないと
むかうことができなかったという。

せっかく新疆ウイグル自治区まで足を延ばしたから、
世界遺産はないが、
パキスタン北部を訪ねてみたいという。

彼は新疆ウイグル自治区の話をした。

「いや、すごい検問ですよ。もう二時間おきぐらいにあります。
ウイグル人と外国人はかなり厳しいチェックを受ける。

そのチェックをするのが、
ウイグル人ということもある。

ウイグル人はあまり仕事がないから、
彼らを雇用する目的もあるのかもしれませんけど」

彼は僕と出会う前に、ゴルムドから新疆ウイグル自治区のカシュガルに
出たという。タクラマカン砂漠の南縁を通る道だ。
このルートの大半はバスに頼らなくてはならない。
そのバスの旅の検閲が大変だったらしい。

僕もそのルートを通り、
敦煌まで出るつもりでいた。

そんな旅話でもりあがった。

新疆ウイグル自治区は、シルクロード好きや、
中の仏教遺跡に興味のある人には
魅力的なエリアだ。

前章でも述べたが、かつていくつもの
シルクロードが通っていた。

タクラマカン砂漠の西域南道は
マルコ・ポーロが通った道としても知られている。

タクラマカン砂漠の北側には
天山南路がある。

トルファンから北上し、
ウルムチから西に向かう天山北路もある。

これらの道に沿って、
オアシス国家の遺跡や仏教遺跡が点在している。

楼蘭(ロウラン)の遺跡へは
日本からのパッケージツアーも組まれている。

敦煌にある莫高窟(バツコウクツ)

クチャに近いキジル石窟……。
どれも世界遺産である。

しかし、このエリアに入り込むと、
厳しいチェック体制に巻き込まれることになる。

ウルムチ、トルファン、クチャ、カシュガル、ホータン……。
新疆ウイグル自治区のおもだった街を歩き、
その間を移動したが、

▼どこでも、「ここまでやるか」と
天を仰ぎたくなるようなチェックを受けた。

その内容を旅行者の視線で
しょうかいするとこうなる。

〈ホテル〉
外国人が泊まることができるホテルは
限られている。

中では、外国人を受け入れるには
政府への登録が必要になる。

最近の中は豊かになり、
多くのホテルが中人で埋まる。

あえて外国人に頼る必要を感じていないところも多い。
そんなホテルは登録をしないため、

北京や上海でも、
外国人が泊まることができないホテルはある。

しかし新疆ウイグル自治区は
別の文脈が流れている。

セキュリティーの関係で、
外国人が泊まることができるホテルを
制限している。

新疆ウイグル自治区では、
すべてのホテルの入口で
セキュリティーチェックが行われる。

荷物はX線検査機を通し、
金属探知機のゲートを
通らなくてはならない。

飛行機に乗るときのようなチェックを
受ける必要がある。

検査機が反応すると、鞄を開けたり、
ボディーチェックを受ける。

連泊をし、顔を覚えてくれると、
検査機が反応しても、そのまま
通してくれることも多いが。

〈空港・駅〉
飛行機に乗るときは、
ほかの国と同じように
セキュリティーチェックを受ける。

そのチェックの厳しさに多少の差はあるが、
ほかの国と大差ないと思っていい。

しかし新疆ウイグル自治区の空港は、
飛行機を降り、
空港ターミナルを出るときにも
チェックされることが多い。

カシュガルの空港では、その出口で、
ウイグル人は並ばされ、
ボディーチェックを受けているところを目撃した。

外国人もパスポートの提示を求められることは少なくない。
不審だと見なされるとボディーチェックが待っている。


鉄道の駅でのチェックはさらに厳しい。
トルファン駅で列車に乗るときは、
X線検査機、金属探知機、パスポートチェックを
それぞれ三回受けないと
待合室に入ることができなかった。

これだけでかなりの時間がかかる。
駅には切符売場があるが、
そこに入るときも、
このセキュリティーチェックを
受けなくてはならない。

列車を降り、
駅の敷地を出るときでさえ、
セキュリティーチェックが
行われることが多い。

▼ホータン駅では、
漢字の民族とウイグル人で
出口を分けていた。

漢字の民族はフリーパスで
回転バーを押すだけで
外に出ることができるが、

▼ウイグル人は厳しいチェックを受ける。
さらに身分証明書をリーダーにかざし、
モニターに映し出される顔との
照合も行っていた。

外国人は基本的にウイグル人と同じ扱い。
僕(本著者の下川さん)は、公安から
漢字の民族ラインに向かっていいといわれて
簡単に出ることができたが、

▼ウイグル人ラインに並ぶと、
駅を出るのに一時間はかかったと思う。


〈列車〉
二、三時間でも乗ると、必ず公安がやってきて、
パスポートの提示が求められる。
これは外国人のみ。
ウイグル人は人数が多いためか、
チェックは受けない。

公安にもよるが、
パスポートチェックの後、
尋問を受けることも多い。

目的地、旅の目的、
前日に泊まった街、
旅行の日程……と
内容は難しくないが。

尋問はスマホの翻訳アプリが
使われることもある。

▼そして必ず写真を撮られる。


〈バスターミナル〉
バスターミナルに入るとき、出るときも
同様のセキュリティーチェックを受けなくてはならない。

切符を買うときも同じ。
長距離バスは、街のバスターミナルに停車していくが、

入口には頑丈なゲートがつくられ、
許可されたバスしか入ることができない。

乗客はいったんバスターミナルに入ると、
停車時間中に食事をとるために
街に出ることも難しくなる。

街に出るためには、
セキュリティーチェックを
受けなけれはならず、
また、戻るときも同じ。

外に出ないようにと
バスの運転手から注意を受ける。

バスターミナルに食堂はほとんどないので、
売店でパンや菓子類を買ってしのぐことになる。



〈バス〉
ルートにもよるが、
検問は頻繁に行われる。

ホータンから東に向かったときは、
ひとつの街の入口、そして出口に
検問所があることか多かった。

ここでチェックを受けるのは、
ウイグル人と外国人ということが多い。

漢字の民族はバスのなかで待つことになる。
この検問は時間がかかる。

荷物はバスのなかに置いていっていいので、
内容はおもに尋問。

パスポートを渡し、
公安の質問に答えていく。

目的地、旅の目的……など通り一遍の内容だが、
その内容をパソコンに打ち込み、

パスポートのコピーと一緒に
提出しなくてはいけないらしい。

ときに、日本人はとる必要のないビザについても
訊かれ、その問い合わせに
十分以上もかかったりする。
ひとり、二、三十分はかかることが多い。

ホータンから東に向けてバスに乗ったときは、
十時間ぐらいの間に七回、この検問があった。
さすがに辟易してしまう。

ウイグル人と外国人の検問のために、
バスは二時間以上遅れたと思う。

(👴なぜ、これほどまでの検問をするのか?
その理由は何じゃ?
打ち込んだデータをいったい何に使うのか?)


〈バザール、公園〉
バザールに入るときも、
ウイグル人と外国人は
セキュリティーチェックを
受けなくてはならない。

X線検査機に荷物を通し、
金属探知機を通り、ボディーチェック。

ウイグル人は身分証明書、
外国人はパスポートの提示。

外国人はそこで写真を撮られる。

▼ウイグル人はリンゴひとつ買うのにも、
チェックを受けなければならないわけだ。

これは公園の入口や出口でも
行われている。

人が集まるところでは必ずチェックをする
という体制が組まれている。


〈路上検問〉
街なかを歩いていても、
しばしば検問にあう。

横にある公安の詰所で
尋問を受けることになる。

これがはじまると、
二、三十分はかかることを
覚悟しなくてはならない。

ときにパスポートチェックだけで
終わることもあるが。

タクシーに乗っているときも、
しばしば検問にあう。

道端に検問所がつくられていると、
避けることはできない。

このときはパスポートチェックだけで
終わることが多いが、
ときに尋問を受けると時間がかかる。

駅や空港に急いでいるときは苛立つ
ことになる。


〈鉄格子〉
▼このカシュガルの街に限ってのことだが、
すべての店舗に鉄格子がとりつけられている。

食堂や銀行、
雑貨屋、用品店、靴屋……と、
とにかくすべての店に鉄格子
なのだ。

これは、ウイグル人の暴徒が
入ることを防ぐ目的だといわれている。

この鉄格子は、外から開けることはできない。

客はまず、顔がわかるように
鉄格子の前に立つ。

店員がチェックし、
「この人は大丈夫」と判断して
鉄格子を開けてくれる。

(👴髪をきちんと散髪して笑えば
良いのか?
こぼれそうなダイヤの指環や
ネックレスを見せれば良いのか?
判断基準は何だ?)

こうしてやっと店に入ることができる。

それは誰でも同じことなので、
観光客も鉄格子の前に
立たなければならない。

もっとも雑貨屋などはそれが煩雑で、
昼間など、鉄格子を開けているところもある。

ウイグル人の靴屋や洋服屋などは、
客を店に入れることを諦め、

鉄格子に服をハンガーで吊るしたり、
鉄格子の間に靴を挟んで売っている店も出てきている。


〈ウイグル人居住区〉
カシュガルやクチャなどには、
ウイグル人居住区がある。

ウイグル人の街は、どこか
ヨーロッパのような雰囲気がある。

土の壁が続き、
その途中の入口から入ると中庭に出、

そこにはブドウ畑やアンズの木が
植えられていたりする。

ウイグル人居住区に、
外部の人が入っても問題はない。

外国人観光客も大丈夫なのだが、
入口には、日本の駅の自動改札機のような機械がすえつけられている。
▼住民だけしか入ることができないようかになっているのだ。

住民は、その機械に身分証明書をかざすとバーが開く。
住民ではないウイグル人は入ることはできないのだ。

カシュガルのオールドバザールも
ウイグル人居住区。

その入口には
検問所が設置されている。

もう、うんざらではないだろうか。
新疆ウイグル自治区の街は、とにかく
セキュリティーチェックだらけなのだ。

「ここまでやるか」
と溜め息がでるほどで、
日本の四、四倍もある広い自治区に、
いったいいくつのX線探知機や
金属探知機があるのかと考えると、
なんだか気が遠くなってくる。

このチェックは旅行者といっても免れないから、
新疆ウイグル自治区での日々は、
セキュリティーチェックにはじまり、
セキュリティーチェックに終わるといった感じになる。

ただしこのチェックは、
ただ素直に受けていけば、
通りすぎていく。

危険物を持っていなければ、
引っかかることもない。
ただ耐えればいい。



ウイグル人に課される踏み絵


しかし旅を続けていくて、
ウイグル人が置かれている環境が
目に入ってきてしまう。
精神的にはこのほうがつらい。

トルファンで一軒のウイグル料理店に入った。
店先で、地元でジク・カワープと呼ばれる
ケバーブを焼いていたからだ。

新疆ウイグル自治区のケバーブは羊肉が小ぶりで、
焼き上がると表面に香辛料をぱらぱらとかけて出してくれる。

中央アジアのケバーブは肉が大きく、
食べていると気性が荒くなってくるような気がするものだが、

新疆ウイグル自治区のそれは焼き鳥感覚で食べることができるのだ。

店内に入ると、
入口脇に黒い金属製の盾と、
黒いヘルメットが置かれていた。


盾には白い文字でくっきりと、
「防暴」という文字が躍っていた。

防暴は日本語に訳すと、
機動隊という意味になる。

店の主人や従業員は全員がウイグル人である。

そこに盾やヘルメットがあるということは、
ウイグル人の過激派が暴動などを起こしたとき、

彼らが機動隊になるということを意味していた。

▼同じ民族同士で対峙することになる。

日本の過激派と機動隊が向き合うこととは
意味が違っていた。

日本の場合、過激派は国家権力に反抗していた。

しかし、ウイグル人は、
過激派とケバーブ屋の主人や従業員は
同じように、政府から抑圧されている。
😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢

彼らの置かれている状況を考えると、
ケバーブ屋の主人が過激派を検挙するとは
とても思えなかった。

▼しかし店には盾とヘルメットがある。
踏み絵ってことだろうか……。

暴動が起きたとき、機動隊になって
鎮圧に向かうように指示したのは
公安のはずだった。

しかし公安にしたら、一般のウイグル人が
すぐに機動隊になれるなどとは
思っていないだろう。

公安が見ようとしたのは、
機動隊になれ、という指示がきたときの
反応だった気がする。

そして、そこから生まれる空気を
計算していたようにも思う。

「私は機動隊には入りません」と表明することは、
過激派を支持するともとられた。


そうなればウイグル料理店を営むことも難しくなるかもしれないという読みが働く。
機動隊になれ、という指示を受けざるを得ないのだ。


街に並ぶウイグル人の店の人々が、
次々に機動隊になっていく。

その証(あかし)のように、公安からは
盾とヘルメットが届けられる。

店の主人が、店の入口脇の見えやすいところに
盾とヘルメットを置くのは、
公安が確認しやすくするためのようにも思う。

こうしてトルファンの公安は
点数を稼ぎたかったのだろうか。

いや、皆が機動隊を受け入れていく事実が
生み出す空気を演出したかったようにも思う。

しかし店の主人や従業員の本心はわからない。
それが処世術だという人もいるかもしれないが。

同じようなことを、カシュガルの街で、
毎朝、行われる鉄パイプ訓練を見ながら考えていた。

カシュガルにこんな訓練があるとは知らなかった。
朝の十時前、街を歩いていると、
鉄パイプやこん棒を手にした人たちが、
急ぎ足で歩道を歩いていた。

新着ウイグル自治区は、
北京時間より二時間遅いウイグル時間で
生活している人が多い。
彼らにしたら朝八時である。

「なんだろうか……」
彼らの後をついていってみた。

店の鉄格子が開き、なかからやはり
鉄パイプを手にした女性が現れ、
道を歩く人に加わってゆく。

鉄パイプは二メートルほどの長さだった。
その光景は少し異様だった。

顔をみると、ウイグル人もいれば、
漢字の民族もいる。

手に鉄パイプやこん棒がなければ、
朝のラジオ体操に集まる住民といった雰囲気だった。

百メートルほど進んだだろうか。
そこにはすでに十人を超える人が立っていた。

中央には、「安全員と書かれた腕章を腕に巻いた中年女性が立っていた。

次々に集まってくる人々は、
前後二列に整列をはじめた。

すると急に、腕章をつけた女性が声をかけた。

「エーッ」
僕の耳にはそう聞こえた。

すると集まった住民の間から、
それに倣ったかけ声が起き、
鉄パイプやこん棒が前に突かれたのだった。
「……?」

鉄パイプ訓練だった。
安全員の声に合わせ、次々に
鉄パイプやこん棒がつき出された。

その光景を、同行していたカメラマンが撮ろうとすると、
安全員の女性が「ノー」といって、
手を左右に振った。

いったい、これはなんなのだろうか。
誰に向かって鉄パイプやこん棒を突いているのだろうか。

予想はついた。
ウイグル人の過激派である。

暴動を起こしたウイグル人を、
鉄パイプやこん棒で攻撃する。

その訓練が行われているのだ。

訓練は十分ほどで終わった。
皆、鉄パイプやこん棒を肩に乗せて、
ぞろぞろと家に帰っていく。

その姿は、やはり朝のラジオ体操の帰りだった。

気になって、翌朝はビルが並ぶ
オフィス街に行ってみた。

やはりそこでも、朝十時に
訓練は行われた。
カシュガルの街のさまざまな場所で
行われていたのだ。

日本でいえば、
町内会レベルで集まる。
そんな人数だった。

その日、旅行会社に出向く用事があった。
そこのスタッフに訊いてみると、
憶測通りだった。

あと三年は続くと思う、ともいった。
三年の根拠がなんなのかはわからなかったが。
(👨本書の発行日は、2019年6月14日)

日本には太平洋戦争の末期、
竹槍訓練があった。

周辺の住民が集まり、竹槍で、
「エイッ、エイッ」と突きだすのだ。

ほとんどの男性は戦地に駆り出されていたから、
訓練に参加するのは女性や子どもたちが多かった。

僕は当時の空気を知らない。
しかし戦後、出版されたさまざまな書籍を読むと、
多くの人が、この訓練の意味をはかりかねていたことがわかる。

当時の日本はアメリカ軍の空爆に晒(さら)されていた。
投下される爆弾に竹槍で立ち向かうことなどできるわけがなかった。

竹槍訓練は、地上での戦闘を想定していたように想う。

しかし重装備のアメリカ兵に、
竹槍で向かっていくことは、
なんの意味もなかった。

玉砕の精神が日本の空を
覆っていたのかもしれないが、

戦争が終わり、振り返ってみると、
本当に竹槍訓練に意味があるとは
思っていなかった自分にきづくのだ。

しかし皆、それを封印して、
「エイッ、エイッ」と竹槍を
突きだしていた。

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
軍からの指示には誰も
逆らうことはできず、
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
無意味だと口にすることは
できなかった。

毎朝、鉄パイプ訓練を眺めながら、
トルファンのウイグル料理店に置かれていた
盾とヘルメットを思いだしていた。

鉄パイプ訓練も公安の指示だったはずだ。
かつて大人数の暴動が起きた新疆ウイグル自治区だったが、

その後、過激派はテロに方向を変えてきていた。

中という国は、報道が厳しく制限されているので、
実態はわかりにくいが、

少なくともここ十年、
大規模な暴動の話は耳にしていない。

テロが主流になってきた時代に、
鉄パイプ訓練などなんの意味もないことは、
住民全員が認識しているように思う。

しかし公安の指示は絶対である。
訓練が無意味だとは、
誰も口にできない。

へたなことをいえば、
過激派のレッテルを貼られてしまう。
そのほうがよほど怖いのだ。

この空気はおそらく、
戦争時代の日本と同じだった。

戦時なのである。

中は新疆ウイグル自治区のなかに、
戦時という空気を広めようとしている節があった。

その意味を高めるために、
鉄パイプ訓練を思いついたのかもしれなかった。

テロは起きているかもしれないが、
戦時中の日本とは違った。

そのあたりは、住民も
わかっている気がする。

鉄パイプ訓練にしても、
皆が、そろっているわけではない。

鉄パイプを突きだす顔がにやけているわけではないが、
緊張感に支配されている訳でもない。
どこか投げやりなところも感じとってしまう。

(中略)

2016年、台湾の○英文総統が、
台湾の少数民族に対して、
正式に謝罪した。

これに対して、中政府内には
激しい反発の意見が出たという。

中に対する露骨なあてつけではないか……と。

中の少数民族問題といえば、
ウイグル人とチベット人問題がまず全面に出てくる。

民族弾圧ともとれる政策をとる中は、
ある意味、この問題にナーバスになっているのかもしれない。

新疆ウイグル自治区内にある、
ウイグル人の収容所が急増しているという指摘もある。

衛星写真を分析すると、
収容所の建物が急に大きくなっていることがわかるのだという。

収容されているウイグル人は、百万人を超えているともいわれる。

公安に反発したり、刃物をもっていたりすると、
過激派の関係を疑われ、
▼▼▼
簡単に収容所に送られるらしい。

収容所では、宗教的な信条を
脅かそうとする再教育が
繰り返されているという。

過去に収容所に入れられた経験をもつ
ウイグル人の発言も伝わりはじめている。

「この世に神などは存在しない」、
「宗教も存在しない」と詰問され、
への賛美を唱えさせられる。

▼そして、食事は豚肉……。
(👨イスラム教の人は豚肉を食べないのに!)

宗教弾圧の色合いすらあるという。



それでも彼らの笑顔が絶えないわけ

ウイグル人はいま、そんな環境のなかで生きている。

クチャではしばしば、市内をパトロールする
ウイグル人の隊列をよく目にした。

「南疆民兵」と胸に書かれた制服を着ていた。

南疆とは、新疆ウイグル自治区のなかで南部を示している。
政府はこうして
警備兵を雇うという懐柔策もとっている。

政府に従えば、
給料がちゃんともらえる仕事に就くことができる……と。

しかし隊列は足並みもそろわず、
手の動きもばらばらで、
統率がまったくとれていない。

それを目にして、つい吹きだしてしまった。

ときに腕に、「安全員」という腕章を腕に巻いた
中年女性が立っていた。

次々集まってくる人々は、
前後二列に整列をはじめた。

すると急に、腕章をつけた女性が、
かけ声をかけた。

(中略)

中の少数民族問題といえば、
ウイグル人とチベット人問題がまず全面に出てくる。

民族弾圧ともとれる政策をとる中は、
ある意味、この問題にナーバスになっているのかもしれない。

新疆ウイグル自治区内にある、
ウイグル人の収容所が急増しているという指摘もある。

衛星写真を分析すると、収容所の建物が急に大きくなっていることがわかるのだという。
収容されているウイグル人は百万人を超えているともいわれる。

公安に反発したり、刃物をもっていたりすると、
過激派との関係を疑われ、
簡単に収容所に送られるらしい。

収容所では、宗教的な信条を脅(おびや)かそうとする再教育が
繰り返されているという。

過去に収容所に入れられた経験をもつウイグル人の発言も
伝わりはじめている。

「この世に神などは存在しない」、
「宗教も存在しない」と詰問され、
への賛美を唱えさせられる。

そして食事は豚肉……。
宗教弾圧の色合いすらあるという。



それでも彼らの笑顔が絶えないわけ

▼ウイグル人はいま、そんな環境のなかで生きている。
クチャでは、しばしば、市内をパトロールするウイグル人の隊列を目撃した方が

「南疆民兵」と胸に書かれた制服を着ていた。
南疆とは、新疆ウイグル自治区のなかで南部を示している。

政府はこうして警備兵として雇うという懐柔策もとっている。
政府に従えば、給料がちゃんともらえる仕事に就くことができる……と。

しかし隊列は足並みもそろわず、
手の動きもばらばらで、
統率がまったくとれていない。

それを目にして、
つい吹き出してしまった。

ときに腕に、「安全員」という腕章をつけた女性が、
友だちと一緒に市場の車道で、鍋をつついているところも見た

本来は注意しなくてはいけない立場のウイグル人である。

幾度となく受ける検問にも、彼らはへこたれない。
いつも笑顔でバスに戻ってくる。

🌕そう、ウイグル人は、
いつもいい笑顔をつくって僕を迎えてくれる。
彼らはわかっているのかもしれない。
こういうときは、笑顔でやりすごそう、と。

シルクロードは、その道が生む利益のために、
常に周辺国の圧力を受けてきた。

激しい支配にも晒されてきた。
しかしそのなかで、何百年もシルクロードとともに
生きてきた彼らの体に流れる時間感覚からみれば、
中共党による中政府の歴史はあまりにも浅い。
たかだか七十年なのだ。

シルクロードの歴史は、現代に生まれた国の政策を凌駕している。
多くのウイグル人が、一見、柔順に政府の方針を受け入れているのは、
実はそういうことなのかもしれない。
そう考えると、漢字の民族の顔はどこか焦っているようにも映る。


(👩眠くて二回同じ部分を抜き書きしてしまった!
許してね。

👴👨👩👧👶
「内政干渉は許さない」
といってくる前に、
自分の国の大切な国民を
虐殺したりレイプしたりしてはいけないだろう。
それをやめてくださいと世界中の国々が言うことの
どこが内政干渉だというのか?
自分の国の国民なら何をしてもいいのか?
この進化した世の中で
またアウシュビッツを真似たアウシュビッツ以上の大惨事が行われていることに
驚愕しまた最高にがっかりしている。
戦国時代の者共がAIを手にするとこうなるのか!
そんなことしてはならないことなんて、
この時代に生きてる人の常識なんですよね!
ヒヤシンス王子を育ててしまった者が居て、
ヒヤシンス王子を言い聞かせる人も
やめさせることができる人も
この世に1人もいないということに驚愕する。
誰も命をかけて真剣にやめろと言わないし、
やっている人の本心もわからない。
人のいのちという大切なものについて
どういうふうな概念を持っているのか?
人権について、人のいのちは所有できないことを知らないのか?
そんなこと、この時代に生きてる人の常識なんですよね!

また、人権について世界共通の規則と法律を
この進んだ世の中でまだ決めていなかったのか?
なぜその揺るぎない規則に背く国が存在するのか?
そういう者に国を治めてもらい続けてよいのか?
いいわけない。
倫理観と道徳心を持たないことは非常に恐ろしいと感じ
身震いしている。
1日も早い肉体と精神の解放を望む、
祈る、願う。
😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢)



ひとり旅は立場が弱い。
しかしそれだからこそ、みえてくるものがある。
新疆ウイグル自治区の旅は検問だらけだが、
同じように、セキュリティーチェックに並ぶと、
🌕ウイグル人の心のなかが
少しだけわかった気にもなる。
🌕そして彼らの笑顔と優しさが
心に染みる。
(😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢
助けてあげて
🌊🐚🌊🐚🌊🐚🌊🐚🌊🐚🌊)



十年ほど前、ウルムチに一週間ほど
滞在していたことがあった。

僕(下川さん)は毎日、夜になると一軒の安い食堂に坐っていた。
そこは四川料理が多い店だったが、
店の入口の脇で、
ひとりのウイグル人のおじちゃんが
ケバーブを焼いていた。

ウイグル料理の店には
ビールが置かれていない。

しかしここは四川料理の店だから
ビールがある。
そしてケバーブも。



(👧ケバーブって、『大岡川桜祭り』の出店で見たよね?
あれがいわゆる日本人が呼ぶ「シシカバブ」なんだよね?
肉のとってもいい匂いがしたね、おかあさん!

👩そうだったわね。まだあのときの私たちは、
ケバーブがウイグルを代表する料理のひとつだということすら知らなかったわね。
あの肉の香りの遠い空の下に
ウイグル問題が起きていたのね。

👧そうだね。私たちは表面だけすーっとこするだけでなぁんにも知らない。

👴👨それではいけない!


👩蛇足だけど手のひらサイズの
『プチ玩具(おもちゃ)シリーズ』
のなかにシシカバブがあって、
お前はそれを大切に大切にしていたね)




新疆ウイグル自治区のケバーブは
焼き鳥のようでビールによく合う。

ウイグル人のおじちゃんは
ケバーブの注文が入らないときは
いつも店内にいた。

そして、客にビールや料理を運ぶウェイターの役もこなしていた。

店の脇でケバーブを売らしてもらう条件が、
店を手伝うということだったのではないだろうか。

いまはだいぶよくなってきたが、
漢字の民族の店のなかには、
サービスとは無縁というところがよくあった。

安い食堂はとくにそうだった。
店員はテレビを見続け、
いくら呼んでも腰をあげてくれない世界である。

この店もそうだった。
🌕しかしウイグル人のおじちゃんはいつもすぐに気づいてくれた。
メニューをもってきては、
まったくうまくない英語で説明してくれる。

(👧そのおじちゃんと、おじちゃんの家族は無事かな?
イヤだ、まさかもういないなんてことがあったら
ぜったいにイヤだ!)




実は(僕は・下川さんは)日本人だから、
漢字メニューの意味がかなりわかることを
ウイグル人のおじちゃんは知らなかった。

それを(おじちゃんに)伝えたかったが、
共通の言葉である英語のレベルは低かった。

❇️それでも僕は毎日、この店に通った。
ひとり旅の夕食は寂しい。
ときに孤独感に苛(さいな)まれることもある。

それを救ってくれたのは
🌜🌟ウイグル人のおじちゃんだった。

いつもケバーブを頼んだが、
一串一元の安さだった。

これで生活ができるのかと心配になったが、
それでもおじちゃんは、
働かない若い漢字の民族に
文句ひとつ口にするでもなく、
客の注文をとり、
料理を運んでいる。

新疆ウイグル自治区のなかの、
ウイグル人の立場は危うい。

それでも生きなくてはならない。

ひとり旅をしていると、
そんな世界がよく見える。

(引用、終わり)



(👴👨👩👧👶
下川裕治さん、
👑📖『シニアひとり旅
インド、ネパールからシルクロードへ』
旅人を魅了する、
その先のアジアへ

ありがとうございました。
📖📺『深夜特急』が好きだから
下川さんの書籍はほんとうに気になっていました。




四川料理が多い店の入口の脇で
ケバーブを売っているウイグル人のおじさんとご家族の方々へ、
どうかいまもお元気でいらっしゃいますよう、お祈りしています。)





ニュース

【自由 強権】在日女性が中のウイグル弾圧を告発 「国家分裂罪」と家族を脅迫 アジアの女性のために声を

2021/04/03 12:04 👑産経新聞

 中新疆(しんきょう)ウイグル自治区で、中によるウイグル族女性に対する人権弾圧が深刻化している。施設に収容されたウイグル人女性らが性的暴行や虐待、拷問が組織的に行われていたと証言しているが、中はその存在を真っ向から否定する。日本国内でも、遠い故郷で起きている人権弾圧を国際社会の力で阻止しようと、在日ウイグル人たちが抗議の声を上げ続けている。

 「ウイグル人の女性は強制不妊手術で命を落とした人が数多くいる。中によって生まれてこなかった赤ちゃん、生まれても自由に生きる権利を奪われた民族のために黙祷(もくとう)をささげてほしい」

 3月7日、東京・神宮前の国連大学前で、在日ウイグル人女性のグリスタン・エズズさん(36)はこう声を張った。集会には、それぞれの民族衣装を身にまとったウイグル自治区やチベット自治区、内モンゴル自治区、香港の出身者ら約40人が故郷での人権弾圧の即時停止を強く求めた。

 エズズさんは18歳まで暮らしたウイグル自治区で、人工中絶の事例を頻繁に耳にしてきた。ウイグル族の女性は3人目の子供を身ごもれば人工中絶させられ、第1子と第2子の間に十分な期間を空けなかったとして、中絶を強いられた女性もいたという。

 住んでいた村では、妊娠に関する取り締まりは同じウイグル族女性が担っていた。エズズさんは「(その女性は)がんで亡くなったけど、『ウイグルの赤ちゃんの恨みで早死にした』といわれるほど、村中から嫌われていた」と振り返る。

 米国務省は2020年版の国別人権報告書でウイグル自治区で「市民100万人以上が恣意的な収監やその他の手段で身体的な自由が奪われている」と指摘する。

 05年に留学などを目的に来日したエズズさんも自治区に残した家族と連絡が取れない状況が続いている。その発端は17年末だった。

 「弟は勉強に連れていかれた」

 家族からの電話は盗聴の恐れがあったのか遠回しな言い方だったが、弟が収容所に送られたと確信した。

 エズズさんは悩んだ末の18年8月、弟が施設に収容されたことを訴える動画をインターネット上に公開した。家族が弟を探していることを海外で明らかにすれば、中への牽制(けんせい)となり、結果として弟に危害を加えにくくなるだろうと考えたからだ。

 だが、事態はその思惑と逆の方向に動く。

 告発動画の公開直後、姉たちが中に事情聴取され、こう言われたという。「お前の妹は国家分裂罪を犯した。その責任はあなたらが受ける」。19年4月24日を最後に、エズズさんは故郷の家族と連絡が取れなくなった。

 「証言したことで、家族と連絡が途絶えた。他の親戚も収容されたかもしれない。自分のせいだ」

 今もエズズさんは精神的に落ち込み、安全な日本で抗議活動を続ける自分に無力感も感じている。


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 自治区の女性の人権問題は深刻化している。今年2月、複数のウイグル族の女性が、収容所で中の警察官らによる性的暴行が日常化していたと英BBC放送で告発した。中の報道官は「組織的な性的暴行や虐待は全く存在しない」と報道を否定するが、国際社会が求めている調査団の受け入れは拒んでいる。BBCの放送後も、自治区からの亡命者が収容所での性的虐待の実態を告発し続けている。

 エズズさんは「ウイグルの女性は強制手術を受けても、暴行を受けても、役人に文句を言うのは、死を覚悟しなければできない」と話す。それに比べ、日本は「自由」であふれ、人権も尊重される。日本人には「アジア全体を見て、ウイグルやモンゴル、チベット、香港の女性のためにも声を上げてもらいたい」と願う。

 エズズさんは抗議活動のツールでもある自身のツイッターにこう記している。


「ウイグル人の自由と独立を勝ち取る為だけに動く。
🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕
一人一人の意識が世論を変える、
🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕
一人一人の行動が世界を変える」


👑(政治部 奥原慎平)


中よ、あなたが開発だ、進歩だと思っているものは
実は破壊なのだ。

日本はそれを通り越してきたからこそわかる。

けれど日本はジェノサイドなどしなかった。

月から地球を見てご覧なさい。
みんなひとつの国でしょう。
死ぬも生きるもみんないっしょなのです。
だから。

日本には、まだまだ宮崎駿さん、鈴木敏夫さんらが存在するけれども、

あなたの国には大革命から

こんな考えをもつ人々はきっと存在しない
かまたは出ていってしまった!

どうか人間からアイデンティティーを奪う行為はやめてください。

👑宮崎駿 鈴木敏夫との出会いから
スタジオジブリ設立まで(YouTube)
(nomorefry)
公開日:2021/04/04



宮崎駿先生の言葉
「何にこだわりたいかって言ったら
🌕昔、自分たちが受け継いだものっていうか、
子どもの時に観たもので、
その時に自分たちをワクワクさせてくれたもの、
そのなかに込められたものを
やっぱり自分は受け継いでやっていきたいって思ってるんです。

🌕親に庇護されて育っていろんなものを学びながら、
親から離れて独立して、自分の人生を切り拓いていく、
❇️その一点じゃないかって!

🌕いろいろ困難はあるけれども
❇️やっぱり生きるに値するんだって
ことなんじゃないかなって
思うんですよね!


どうだ、聞いたか中さん。
あなたのやりかたでは
これは無理だろう。
人間の重要で大切な人生のアイデンティティーに
無断で土足で入り、勝手にその人の未来を決定し
独断でその人の人生を終わりにするようなことをしてよいわけがないのです!
首相になるっていうことは、国民の味方になるっていうことですよ!
風土とか自然を抜きにして
そこに暮らす人々の人間関係は語れない。成り立たない。
風土とか自然とかそこに暮らす人々はいっしょでなければならないんです。
なぜそれを壊すのですか。
そんなこと、してはならないことは、
この時代に生きてる人の常識なんですよね!

しかし、また新疆ウイグル自治区では
当国の写真家が拘束されました。
そんなこと、してはならないことは、
この国際社会に生きてる人の常識です。
皆さんが1日も早くご家族のところに
生還されることを願ってやみません。

















📖本『シンドラーのリスト SCHIDLER'S LIST』T・キニーリー 生野宏 訳 新潮文庫

2021-04-02 12:53:27 | 日記

本📖『シンドラーのリスト(SCHINDLER’S LIST) 1200人のユダヤ人を救ったドイツ人 』
キ 5 1 新潮文庫 



T・キニーリー(トム・キニーリーまたは
トマス・キニーリー)【著】,
幾野宏【訳】


(引用、始め)


解説 幾野宏

本書は、実在の人物やできごとを題材にした小説、ノンフィクション・ノベルの傑作であり、
この著者の作品中でも、
最高のものとされる。

主な舞台は第二次世界大戦下のポーランド
-といえば、何よりもまず連想されるのは
ナチのユダヤ人迫害であろう。

事実、本書にはその迫害の模様が鬼気迫る
ほどなまなましくリアルに描かれている。

しかし、ユダヤ人迫害それ自体は、
この作品の主題ではない。

これはナチスという強大な組織に、
うわべは従順をよそおいながらも
敢然と挑戦し、個人の力で
1200人を超えるユダヤ人を
死の運命から救った男の物語である。

その男、オスカー・シンドラー自身、
ほかならぬドイツ人であり、それにまた、
実業家としてひと旗あげようと、
ドイツ軍の侵攻の尻馬(しりうま)に乗った
形でポーランドの都市クラクフへやって
きて、ナチスとの軍需契約のおかげで
ぼろ儲(もう)けをしている人間でもあった。

ところが、クラクフに住む大勢のユダヤ人が、やがてゲットーに押し込められ、
親衛隊の残虐(ざんぎゃく)行為がはじまるのを目にしたとき、
同胞のそんな行為が赦(ゆる)せなくなる。

固く決心した彼(オスカー・シンドラー)は、
ナチスが儲けさせてくれた莫大(ばくだい)な金を、
ユダヤ人救助作戦に惜しげもなく注ぎこみはじめる。

しかし、ナチスの方では迫害の度を
ますますエスカレートさせ、

ついにはユダヤ人をゲットーからも
追い出して強制収容所に閉じ込めてしまう。

その収容所であるが、これまでナチスの
ユダヤ人迫害といえば大量虐殺という面に
もっとも強くスポットライトが当てられて
きたせいであろう、

強制収容所とはすなわち囚人を
皆殺しにするところだという風に、
われわれは思いこみがちである。

しかし、強制収容所-ナチス自身の
命名によれば〈集中収容所〉
(👴👨👩👧👶
ウイグル人を収容する場所の命名は
「職業技能教育訓練センター」。)

ナチス自身の命名によれば
〈集中収容所〉(ユダヤ人をそこに
集中させるという意味)-には、

ユダヤ人を絶滅することを
究極の目的とする絶滅収容所と、

彼らの労働力をただで利用しようという
強制労働収容所とがあった(有名な
アウシュヴィッツは、その両方の
機能を兼ね備えた巨大複合収容所)。

















レビュー一覧



①オスカー・シンドラーが正義感に満ちた英雄というだけではなかったことが正直に書かれているからこそ、私たちと変わらない一人の人間がこれだけの命を救った事実がいかにすごいのか ひしひしと感じる。

どうしようもない、けれどもこんな時代があったからこそ今自分たちが生きる時代があるんだと実感する上でも、読む事が出来て良かった。



②長かった…
登場人物がドイツやポーランドといった馴染みの薄い所の名前なので余計に混乱して進まなかった。
シンドラーという人はすごい人だと思っていたけれど、ただ単にすごいというだけでなく人間としての悪意も持った人間だったんだと気づいた。
いずれにしても、ユダヤ人という人種だからと言うだけで虐殺をしたドイツは許されざる事をしたと思う。金輪際その様な迫害や戦争が起こらない事を願うしかできない自分がちょっと情けなくなるけれど、きっと多くのドイツ人もそう思っていたと思う。
もう少し時代背景や当時のドイツの情勢・組織について勉強しておけば良かったと思った(歴史でも特に苦だったので)



③ドイツ・ナチスのユダヤ人虐殺や強制収容所から、1200人のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラー。あの戦争下においても一筋の光があったことが素晴らしい。映画も素晴らしかったです。



④この本はシンドラーの悪いところもすべて正直に描いていて、彼が聖人のような英雄に見えないよう努力してるのがうかがえます。それはもちろん誰でもシンドラーになれるんだってことを言いたいんだと思います。

「言っておきますが、わたしはユダヤ人です」
「そうか、僕はドイツ人だ。これでおあいこだな」

シンドラーは事実が事実でしかないことをちゃんと知ってた。外見や生まれや制度じゃなくて、人の心が差別を生むんだ。

映画も観たけどだいぶ省略されてたりするので、やっぱり本で読んでおいて良かった。でも映画のラストはすごく心に残ってます。



⑤母が大好きだと言ってた映画の、文庫版を見つけたので読んでみました。シンドラーかっこいい。ユダヤ人を救うって聞いてたから、もっと聖人っぽいのかと思ったら全然そんなことはなくて。シンドラーも、周りの人も、そして人間として扱われてなかったユダヤ人たちもとても人間らしくて。シンドラーが金の指輪を贈られるシーンが好きです。




⑥相当分厚い本なので気合いをいれて読まないと途中で挫折しそうになります。
登場人物も相当複雑。でも時間をかけてでも読む価値はあり。
っていうか、すべての人に読んで欲しい。



⑦シンドラーという人間はユダヤ人を救うためだけに生まれてきたような気がする。
実際ユダヤ人の一大危機が去ると同時に、オスカー=シンドラーの能力が生かせなくなっている。

彼はなんでも大規模で大胆。
本来繊細であるものが1942〜47年にかけてずぼらになる。
それゆえ彼の手腕が最大限に生かされた。

彼はユダヤ人に対しての見方を常に正確に持っていた。あの時代に洗脳されず、自分を持ち続けられたのはスゴイ。
そして金持ちスギ!!ど〜してそんなに金持ちなんだ??
でもその財産はとても有効に使われた。まさに彼が持っていなきゃいけない富だったのだろう。

ユダヤ人の偏見は一部だけひどく、他はそうでもないのだろうと思っていたが違った。
とてつもなく徹底され厳行されてた。

それを知ると同時に、そんな中ユダヤ人を助けるということがどんなに大変だったかがよく分かった。
その分、オスカーという人物がさらにヒーローに思えた