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エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

第16章 2

2025-07-02 10:24:45 | 地獄の生活
 「なんてぇご婦人だ!」と彼はマルグリット嬢が出て行った途端に叫んだ。「まるで女王様だ!あの方のためなら身を切り刻まれても惜しくないや! あの人には分かったんだ。もしおいらがあの人の役に立てたら、それはおいらのため、おいらの満足のためにやったんだってことを。心から、名誉のためにやったってことを。ああ、全く、もし彼女が金をやるなどと言い出していたら、俺はどんなにむかっ腹を立てたろう。どんなにかガックリし、打ちのめされたことか」
シュパンは自分の働きに対し金銭的報酬を与えられないことに無上の喜びを感じていたのだ。これは世間の人々とは全く逆なので、フォルチュナ氏は度肝を抜かれ、しばし無言であった。
 「お前、気でも狂ったか、ヴィクトール」と彼はついに言った。
 「気が狂う? 僕が? まさか、そんなことあり得ません。僕はただ……」
 彼は言葉を止めた。「正直な人間なだけですよ」と言おうとしたのだ。首吊りのあった家で綱の話をしてはならないように、特定の人々の前では口にしてはならない言葉というものがある……。シュパンはこのことを知っていたので、すぐに言葉を継いだ。
 「僕がいつか凄い金持ちになったら、ですね、そいで銀行家になって、従業員を大勢雇って、毎日百スー金貨を窓口の後ろで数えさせるようになったらっすね、あんな風な娘っ子がいてくれたらいいな、って思ったんすよ。それじゃ、おいら、もう行きます。じゃ、失礼します……」
 というわけで、かの女中のマダム・レオンが自分の仕える『お嬢様』が、『作業着姿の街のチンピラ』と道で立ち話をしているところを見つけた経緯というのはこういうことであった。
 ヴィクトール・シュパンは、約束しても守らないというような人間では決してなかった。世の苦労を舐めてきた人間は誰しもそうであるように、彼はあまり心を動かされることはなかったが、 持続する感情は空虚な誓いによって消滅することはなかった。心が感激して高揚すれば、それは一日で終わるなどということはなかった。
 パスカル・フェライユールを見つけ出すことは常に彼の頭を去らぬ課題となった。条件を考えればこれは困難な仕事であった。一体何から始めればよいのか? 彼に分かっていることは、パスカル・フェライユールはウルム通りに住んでいたが、突然アメリカに渡航すると宣言して母親とともにそこを引き払った、ということである。ただ、明確なのはそこまでで、後は憶測の域を出ないのだが、マルグリット嬢の確信に基づいて、シュパンもまたパスカルはパリを離れてはおらず、自身の名誉回復とド・コラルト氏及びド・ヴァロルセイ侯爵への復讐を果たす機会を狙っているに違いない、と思っていた。
 手がかりと言えばたったこれだけで、パリのような大都会で一人の男を探し出そうとしている。しかもその男は何としても身を隠そうとしているというのに。これは正気の沙汰とは思えないではないか?
 しかしシュパンはそうは思わなかった。彼が責任を持って探し出します、と言ったからには、彼には考えがあったのだ。7.2

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第16章 1

2025-06-27 21:00:01 | 地獄の生活
 9月まで、こちらにも出しておきます。

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第16章

 マルグリット嬢がイジドール・フォルチュナ氏の事務所を訪れた日、ヴィクトール・シュパンが突然彼女に近づき、話しかけてきたときの彼女の驚きは大きかった。
 「お嬢様、僕の名前にかけて誓います。二週間以内にフェライユールさんを探し出してさしあげます。もしもそれが出来なければ、僕はシュパンという名前を捨てる覚悟です」
 この日、フォルチュナ氏の雇用人であるシュパンは、ぱっと見、相手を信用させるような外見でなかったことは確かである。ド・コラルト氏の見張りをするのに便利なように、彼は古着を着込んでいた。作業着と履き古した靴、防水のハンチングを被り、乱れた髪が額にかかっている様子は、どう見ても街のチンピラといった風情であった……。
 それにも拘わらず、その真心溢れる情熱を前にしてマルグリット嬢はこのフォルチュナ氏の奇妙な部下の言葉を一瞬も疑う気持ちにならなかった。
 敢えて言えば、こういうことになろうか。 フォルチュナ氏が卑屈な態度と蜜のように甘い言葉を駆使してなんとか彼女から得た信頼よりも、シュパンはさらにもっと大きな信頼をかち得たのだ。シュパンのまなざしが正直でまっすぐなものだったことは間違いない……。
 マルグリット嬢は殆ど躊躇することなく答えた。
 「あなたにお任せしますわ」
 この美しい若い令嬢が、水晶のように澄んだよく響く声でこう答えた相手は自分、他ならぬヴィクトール・シュパンなのだ!彼は自分の身の丈が1クデ(昔の長さの単位。ひじから中指の先までの長さ。約50㎝)ほども高くなったような気がした。
 「そうですか! 僕のことを信用なすって間違いはありません」と彼は握り拳で自分の胸を突き破るほどの力で叩きながら答えた。「ここんところでドキドキしている心ってもんが僕にはあります……けど……」
 「けど、何ですか?」
 「僕がこれからお願いするやり方をお嬢様が承知なさるかどうか、と思いまして……すごく便利な方法なんです。けど、それはちょっと出来ないって思われたら、このことはなしってことで……」
 「何をして欲しいと仰るの?」
 「お嬢様と毎日お話するってことです。そうすれば、僕は自分のやったことを報告できるし、お嬢様は僕に必要な情報を与えてくださることが出来る、ってわけで……。僕がフォンデージ邸の呼び鈴を鳴らして、お嬢様にちょっとお話があります、なんていうのは出来ない相談ですよね。けど、他のやり方があるんです。例えば毎日夕方のちょうど五時に僕はピガール通りまで来て、お嬢様に僕が来たという合図のためにこんな口笛を吹きます。よく聞いてください。『ピーウィ!』 そしたらお嬢様は何気ない素振りを装って、なるべく早く外に出て来てください。そしたら僕からお伝えできることを手短かに話します。もちろんお嬢様からの伝言も届けます……」
 マルグリット嬢はしばし考えていたが、やがて頭を下げ、はっきりと答えた。
「あなたのご提案は実行可能なものです。明日から毎日、五時頃になったら私は注意して聞き耳を立てておきます……もし、合図の後三十分経っても私が降りて行かなかったら、何かの事情で引き留められていると考えてください……」
 この答えでシュパンは満足するかと思われたが……実はそうではなかった。まだもう一つ頼みたいことがあったのだ。彼には教育が欠けていたため、これは失礼になるのではないかと気が引けたのは本能的なものであった。彼はなかなか言い出すことが出来ず、あまりのバツの悪さにどうしていいか分からなくなり、彼は被っていたハンチングを猛烈にこねくり回し始めたので、マルグリット嬢は優しく尋ねた。
 「まだ何か仰りたいことがおありですの?」
 彼は躊躇したが、度胸を決めて言った。
 「つまりですね、僕はフェライユールさんという方を知りません……それで、その、お聞きしたいんです。その方は背は高い方ですか、小柄ですか、髪は金髪ですか、褐色ですか、太っていますか、それとも瘦せ型ですか? そういうこと、何も知らないんで……。その人と鼻を突き合わせたとしても「この人だ!」って言えないんすよね。で、もしその人の写真を一枚見せて貰えたら、話は全然違うってことになりま……」
 マルグリット嬢は頬を真っ赤に染めた。が、口調はいともあっさりとこう答えた。
 「明日お渡しします。フェライユールさんの写真を……」
 「そういうことなら!」 とヴィクトール・シュパンは叫んだ。「こっちのもんでさぁ!お嬢様、ご心配は要りませんよ。僕たち二人で悪人どもに一泡吹かせてやりましょう。何かのときには僕がついています。何があったって平チャラですよ……」
 ここまで沈黙を守っていたフォルチュナ氏だったが、今や口を出すべきときだと感じた。自分の部下が突然存在感を示したことを喜んでいたわけではなかったが、ド・ヴァロルセイに復讐を果たせるなら、そんなことはどうでも良かった。
 「ヴィクトールは有能で信頼できる男です、お嬢様」と彼は言明した。「この私が仕込みましたのでね。彼の仕事ぶりにご満足いただけると思いますよ……」
 『黙ってくんねぇかな、この気取り屋オヤジ!』というセリフがシュパンの口まで出かかったが、マルグリット嬢への敬意のために、彼はそれをぐっと圧し止めた。
 「では、そういうことで決まりですわね」とマルグリット嬢が言った。「では明日……」
 彼女は微笑みながら、商談が成立したときのように、シュパンに向かって手を差し出した。もしシュパンが自分の衝動に身を任せていたら、その場に跪いて彼女の手に接吻をしたことだろう。彼が今まで見たこともないほど白くて繊細なその手に。しかし実際は、恐る恐る指先でそっと触れただけであった。それでもその間、顔が赤くなったり蒼ざめたりしていた。6.27

 

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第16章

2025-06-24 13:18:05 | 地獄の生活
ド・ヴァロルセイ侯爵と相棒のド・コラルト氏の悪だくみの場面が終わり、トト・シュパンの登場となります。『巴里の奴隷たち』から何年か経っている筈なのに、ちっとも年を取らない感じのトトの活躍や如何に。

こちらから
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2-XV-9

2025-06-04 12:55:25 | 地獄の生活
「現に事実がここにあるじゃないか! 私だって、今朝はまだ疑いを持っていた。しかし、あの虚栄心の塊のウィルキーという馬鹿のおかげで、確信が持てたよ。いいかい、どう計算しようと、間違いようもなく、我々は成功するよ。これから起こるのはこういうことだ。モーメジャンという弁護士、これは私の知っている中で一番強欲な悪党で、私に忠誠を誓っているのだが、この男が告訴状を作成すれば、明日にでもマルグリット嬢は牢に入れられる。召使たちも証人として召喚されるさ。カジミールの言ったことを聞けば、他の召使たちも皆どんな風に答えるか、分かろうってもんだ……。というわけで、彼女は盗みの罪で有罪になったも同然だ。毒を盛ったことに関してはドクター・ジョドンの言葉を聞いたろう。あの男を信用できるかどうか? その答えはもちろんウィだ。もし私が彼の要求額を値切らずに支払えばね。で、もちろん、私は支払うさ……」
こう聞かされてもド・コラルト氏は納得しない様子であった。
「毒殺の嫌疑は失敗するだろう」と彼は言った。「ド・シャルース伯爵が二匙飲んだという液体の入った小瓶が発見されれば」
「お言葉だがね、その小瓶は見つからんよ」
「何故?」
「何故かって言うとね、君、私はその小瓶がどこにあるか知っているからだよ……。それは伯爵の書き物机の中にあるのさ。明後日になれば、その小瓶は消える」
「誰がそれを持ち出すんだ?」
「マダム・レオンが私に見つけておいてくれた手先の器用な男だよ。ヴァントラッソンという……。あらゆる可能性は考えてある。すべて周到に計画してあるのさ。明日の夜か、遅くとも明後日の夜、マダム・レオンが仲間のその男をシャルース邸に連れて行き、庭の木戸から中に入れる。木戸の鍵を彼女は隠し持っていたのだ。仲間の男はヴァントラッソンで、邸の間取りを知っている。で、彼は伯爵の書き物机を鉤を使って開け、例の小瓶を持ち去る。封印が施してあるだろう、と君は言うだろう。そのとおりなのだが、その男が言うには、封印をそっと剥がして、何の痕跡も残さず元通りにしておくことなど、朝飯前なのだそうだ。錠前については、伯爵の亡くなった日に誰かがこじ開けようとした痕跡が既にあるため、二度目にこじ開けても誰の眼にも止まらないだろう、とのことだ……」
ド・コラルト子爵は皮肉な表情を浮かべながらも同意した。
「なるほどね。だが、検死が行われれば告訴が無駄だったことが明らかになるだろう」
「そりゃそうだね。だが、検死というものは時間が掛かる。それこそ、私には願ったりだ。マルグリット嬢は自分の身が危ういことを知り、もう駄目かもしれないと思うだろう。十日も身柄を拘束され、厳しい尋問に晒され続ければ、彼女の精神力も限界に近づく。そんなとき、一人の男が彼女にこう言ったとしたら、彼女はどう答えると思う? 『私はあなたを愛している者です。貴女のため、私は不可能に挑むつもりです。私が貴女の無実を見事に証明してみせたら、私の妻になると言って頂けますか』」6.4
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2-XV-8

2025-05-30 08:59:39 | 地獄の生活
ド・ヴァロルセイ氏はそのことよく理解したので、元気よく答えた。
「そうですか! 親愛なるドクター、二万フランほどで良ければ、喜んでご用立ていたしますよ」
「本当ですか?」
「名誉にかけて!」
「で、いつ用意して頂けますか?」
「三、四日後には」
取引は成立した。ジョドン医師の方では、ド・シャルース伯爵の掘り起こされた遺体から何らかの毒物が検出されるよう準備をしておくこととなる。彼は侯爵の手を握り締め、こう言った。
「どのような事態になりましょうとも、私にお任せください」
やっとド・コラルト子爵と二人だけになったド・ヴァロルセイ氏は、それまでの遠慮をかなぐり捨て、音を立てて大きく息を吸いながら立ち上がった。
「何と骨の折れる会合だ!」と彼は呻るように言った。
ド・コラルト氏は椅子の上でぐったりとし、一言も発しなかったので、侯爵は彼の方に近づき、肩をポンと叩いた。
「具合でも悪いのかい。そんな風にじっとしてるなんて、まるで一巻の終わりみたいに」
ド・コラルト氏は突然夢から覚めた人間のようにびくっとした。
「どこも悪くなんかないさ」と彼は乱暴な口調で答えた。「ただ考えていただけだ……」
「その顔つきを見れば、あまり嬉しくないことらしいな」
「まぁそのとおりだ……私たちの前に貴方が敷いたレール、それに乗って行けばどういう運命が待っているのかを……」
「ああ、不吉な予言はなしにしてくれ……それにもう、ここで熟考に沈んだり、退却を考えたりするときではない。ルビコン川は渡ってしまったのだ……」
「そうなんだ。私が困っているのはそこなのだ。私の忌まわしい過去、そのおかげで貴方はまるで短刀をかざすが如く私を脅してくるが、それさえなければとうの昔に奈落への道を辿るのは貴方一人にして貰っていたところだ。確かに、貴方はかつて私を助けてくれた……。トリゴー男爵夫人に私を引き合わせてくれたのは貴方だし、私が今のような一見贅沢な暮らしが出来ているのも、貴方という後ろ盾があるおかげだ……。しかし、貴方の危険極まりない策略の手先となるのは、返礼としてあまりに高すぎはしないか! カミ・ベイを騙す手伝いをしたのは誰か? こっそり貴方の持ち馬のドミンゴ以外の馬に賭けたのは誰か? パスカル・フェライユールの手に前もって準備しておいたカードを滑り込ませたのは誰か? いつ発覚するかもしれない危険な行為なのに? コラルトだ……いつもいつもコラルトだ……」
ド・ヴァロルセイ侯爵は一瞬怒りを表す身振りをしたが、すぐにそれを抑え、返答はしなかった。それから部屋の中を大股で五、六歩歩き回った後、平静さを取り戻したと感じたのか、ド・コラルト氏の前に戻って来た。
「正直言って」と彼は話し始めた。「私は君のことが分からなくなった。この期に及んで恐くなってしまったのかい? 君ともあろう者が? いつからそうなった? 成功は目前じゃないか」
「そうだといいのだが……」5.30
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