エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-V-7

2022-12-30 10:47:17 | 地獄の生活

しかし彼女は言いさし、気がついた。彼女自身千々に心が乱れてはいたが、男爵のただならぬ様子に驚いた。彼はサロンの真ん中で立ち止まったまま、彼女に奇妙な視線をじっと注いでいた。その目には彼の内心の矛盾する感情がぶつかり合う様が見て取れた。怒り、憎悪、同情、許しなどである。マダム・ダルジュレはぞっとした。不幸は限界まで来てはいなかったのだ。まだ新たな不幸が彼女に襲い掛かろうとしている! 男爵は苦痛の軽減ではなく、更にもっと苦痛を与えるために来たのだ!

 「どうしてそんなお顔で私をご覧になるの?」彼女の声は不安のためいつもとは違っていた。「私、何をしたんでしょう?」

 彼は悲しげに頭を振り、優しく答えた。

 「可哀想なリア、貴女は何もしてなどいない」

 「それなら……、ああ神様、一体どうなさったんです。私を怖がらせないで!」

 彼は進み出て彼女の手を取った。こうして生身の彼女に触れることで彼を捕えている強い感情がより鮮明に理解できるのではないかと期待しているかのようだった。

 「どうしたか、ですか?」と彼は言った。「それは今お話しますよ。貴女は知っていますね、私が卑劣にも裏切られ、騙されていたことを。私の人生はある卑劣な男によって踏みにじられました。その男は私が気も狂うほどに愛していた女、私の妻を誘惑したのです。もしもその男を見つけ出したら必ず復讐するという私の誓いを貴女は聞きましたね。その男が誰か、私は知ったのです。この世の幸福を私から奪ったその男とは、ド・シャルース伯爵だったのです。貴女の兄の!」

 マダム・ダルジュレは男爵に握られていた自分の手を乱暴に引き離した。まるで目の前に亡霊が立ち現れたかのように恐れおののき、腕を前に上げながら後ずさりした。壁のところまで来ると彼女は大きな叫び声を上げた。

 「なんということを!」

 男爵の唇に痙攣のような苦い微笑が浮かんだ。

 「何を恐れているのです?」と彼は言った。「貴女の御兄さんはもう亡くなったではありませんか。彼は私から復讐の喜びまでも奪ったのです……」12.30

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2-V-6

2022-12-28 14:54:47 | 地獄の生活

そう思いながらも彼女は待っていた。じっと通りの車の往来に耳を澄まし、邸の前に馬車が停まる音を聞いたように思ったときは飛び上がり、すっかり待ち草臥れてしまった。夜中の二時になっても男爵は現れなかった。

 「仕方ないわ」と彼女は呟いた。「あの方は来ないんだわ!」

 しかしこの時間になると彼女の辛抱も切れて来た。感覚が極度に鈍くなり、虚脱状態に陥って精神力も思考力も麻痺してしまったかのようだった。大変なことが起こるという確信に近いものがあったので、それを防ぐにはどうしたらいいかと考えることも出来なくなった。呆けたような諦めの気持ちでただ待つだけだったので、雷鳴を聞いただけで雷に打たれるに違いないと覚悟して跪いたというスペインの女たちのようなものであった。

 彼女は這うようにして寝室に行き、横になるとすぐに眠りに就いた。大きな危機に見舞われた人々に訪れるあの深い重苦しい眠り、苦痛からの束の間の休息だった……。

 目が覚めて彼女が最初にしたことは、ベルを鳴らして下女を呼び、ジョバンに再び男爵を探すよう命じさせることだった。しかし律義者のジョバンは女主人の意向を予め察知し、既に早い時間に出かけていた。彼が戻ってきたのは正午を過ぎていたが、彼の皺の寄った顔は晴れ晴れと輝いていた。そして勝ち誇った声で告げた。

 「トリゴー男爵をお連れしました!」

 溺れる者は、流され水を飲んで息絶え絶えになると、藁の一本でも救いの筏のように見えてそれにしがみつくものだ。マダム・ダルジュレが男爵を迎えたとき、まるで彼が不可能を可能に為し得るかのごとく、喜びの叫び声を上げた。ついさっきまでは「もうお終いね、きれいさっぱりお終いね」と繰り返していた彼女に希望の灯がともったのだ。

 「まぁ、来て下さったのね」と彼女は叫んだ。「どんなに苦しい思いでお待ちしていましたことか! ああ、貴方は良い方だわ!」

 男爵は答えなかった。彼はその肥満体でいつも威圧的な態度であるにも拘わらず、通常はかなり敏捷なのだが、今日は足取りもぎこちなく、目は充血して、顔には血の気がなく、身体中を震わせていた。今しがた自宅で起きた凄まじい騒動の影響からまだ抜け出していなかったのだ。妻によって惹き起こされた感情の激発、パスカル・フェライユールから打ち明けられた内密の話、そしてド・ヴァロルセイ侯爵に関する新事実などによって動転していることを、それでも顔には出すまいと彼は自分に強く言い聞かせていたに違いない。

 「ああ貴方に分かって頂けたら」とマダム・ダルジュレは尚も言葉を続けていた。「分かってさえ……」12.28

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2-V-5

2022-12-26 07:58:09 | 地獄の生活

彼女は悲嘆の中で、自分の状況をじっくり検討してみようとしたが、なんら解決策は思い浮かばなかった。まるで鉄の足枷で拘束されているかのごとく、もがけばもがくほど身体の自由が奪われていくようだった。周囲はどこを見ても軽蔑、絶望、そして恥辱ばかりであった。

 苦痛と恐怖のあまり彼女は時の経過にも気づかないでいたが、中庭からガラガラと聞こえてくる馬車の音にハッと我に返った。

 「ジョバンだわ……男爵を連れてきたのね……」

 だがそうではなかった! ジョバンは一人だった。

 「おられませんでした!」と彼はがっかりした口調で報告した。

 しかし、この律儀な召使は主人の馬車を無駄に使いはしなかった。男爵が彼が姿を見せたことのある場所、可能性がどんなに低かろうと彼が見つかるかもしれない場所には全部行ってみたのだった。が、どこでも彼の姿はここ数日見ていないという返事であった。

 「それなら」とマダム・ダルジュレは言った。「男爵のお宅まで行ってみればいいわ。ビル・レヴェック通りよ……そこにいらっしゃるかも」

 「男爵様がご自宅に寄り付かないことは奥様もよくご存じではありませんか……実は私も行ってみたのですが……無駄でした」

 実のところ、トリゴー男爵は三日前から、かつて大使を務めたこともある金満家で知られるカミ・ベイとの一騎打ちのゲームに掛かり切りだったのだ。どちらかが五十万フランを失うまでゲームが続けられるという約束になっていて、男爵言うところの『貴重な時間』を無駄にしないため、彼らは一歩も外に出ず、カミ・ベイが滞在しているグランド・ホテルで食事をし、宿泊していた。この札束が舞うゲームのことがマダム・ダルジュレの耳に入っていなかったとは奇跡的なことであった。社交界ではこの話でもちきりになっていたし、フィガロ紙は、このゲームの詳報を載せていた。毎晩、その日の結果が発表された。最新の情報によると男爵が約二十八万フランのリードを奪っているとのことであった。

 「私が戻って参りましたのは、マダム」とジョバンが言った。「ご安心して頂くためでございます。もう一度行って必ず男爵を探し出して参りますので……」

 「そんなことはしなくていいわ」とマダム・ダルジュレは答えた。「男爵はきっと今夜いらっしゃるわ、晩餐の後で。いつものように」

 彼女はこう言いながら、自分でもそう信じようと努めた。が、実際は当てに出来ないと思っていた。男爵に頼ることは出来ないと……。

 「私は今朝、あの方の気持ちを傷つけてしまったから」と彼女は思っていた。「今まで見たことがないほどに怒って帰ってしまわれた。私に腹を立て、恨んでおられるんだわ。今度お会いできるのはいつのことやら!」12.26

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2-V-4

2022-12-24 11:00:26 | 地獄の生活

フォルチュナ氏が姿を見せたとき、マダム・ダルジュレはトリゴー男爵と話をしていたのだった。あの尊敬すべき男爵は、パスカル・フェライユールが犠牲となったあの事件には何らかの奸計が存在しているのではないかと疑っていた。ああ、自分はそれが奸計だとはっきり知っていた! 男爵はド・コラルト子爵の企みを白日の下に曝すため自分と同盟を結ぼうと提案した。それなのに、自分は拒否してしまった! だって私はあの子爵に命運を握られているのだもの! 私は自分の秘密を守らんがために無実の人を見殺しにしてしまった。秘密を暴露されないためには共犯者になるよりなかった。最も卑劣でおぞましい犯罪の共犯者に……。

それどころか、自分は男爵の疑念を空想呼ばわりし、強い口調でコラルト氏を擁護さえしたので、唯一の味方である男爵は気持ちを傷つけられ、憤然として立ち去ったのだった……。

ああ神様、あの人がここに来てどうしたら良いか言ってくれないものかしら……。

 いろんな事が起きたため彼女の頭は混乱し、眩暈に襲われ、もはや明晰な判断が下せなかった。それでも彼女は何らかの決心をし行動を起こさねばならぬことは理解していた。

 マルグリット嬢が彼女の兄の娘であり、法律上はともかく彼女とは血の繋がった姪だということを受け入れられるか? そしてその恋人のパスカル・フェライユールがあの卑劣なド・コラルトの手によって生贄にされ破滅させられたということを? それもド・ヴァロルセイ侯爵の利益のために? マルグリット嬢が自分の意に反し侯爵と結婚させられることを許してよいものか?彼女の兄は彼女に厳しく情け容赦ない態度を取った。それだけに一層、マルグリット嬢を守り、救うことが自分の義務であるように彼女には思われた。捨てられた女の運命がどんなものか、彼女には分かりすぎるほど分かっていた。自分自身も藻掻き苦しんだあの奈落の底に彼女もまた投げ込まれることを許していいものか……。しかし彼女自身運命の軛に喘いでいる身の上であり、パスカルとマルグリットを救おうとすれば彼女にもまた必ず破滅が訪れるであろう……。それでも、万難を排して彼らを救いたいと思った。それが死より苦しいもののように思えても。

彼女がド・コラルト子爵とド・ヴァロルセイ侯爵の犯罪を告発したとすれば人は信じてくれるであろうか? そもそも自分のような女が声を上げたとして、人々は注意を向けてくれるであろうか? もしかしたらド・コラルトならやっつけられるかもしれない。裁判新聞に彼の名前と住所を教えるだけで彼の化けの皮を剥がすことは出来るだろう。だが、ヴァロルセイの方は! 彼の名前、財産、傷一つない経歴は彼女の攻撃の届かないところにあるものではないか? しかし彼こそが最も罪の重い男なのだ。コラルトが実行犯だとすれば、ヴァロルセイが陰謀を企てる黒幕であり、一番倒さねばならない相手なのだ。12.24

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2-V-3

2022-12-22 10:06:03 | 地獄の生活

こう考えると、この哀れな婦人は絶望で両手を揉み始めた。なんということか! 彼女はもう十分過ちの償いをしたのではなかったか。この上まだ息子にまで罰を受けねばならないのか! ここで初めて彼女は鋭い疑念に捕らわれ煉獄の火で焼かれるような苦痛に心を引き裂かれた。彼女が至高の母性愛の為せる業だと思っていたこと、それもまた過ちであったのか、しかも最初のものより更に大きな過ちなのか? 彼女は息子の幸福のため女の貞潔を犠牲にしてきた。彼女にそんな権利があったのか? 息子に惜しみなく与えてきたお金、まさにその金があらゆる悪の芽を育んでいたのではないか。堕落、そして恥辱を……。もしももしも、息子のウィルキーが真実を知ったとしたら、どれほどの苦痛や怒りが彼を襲うことか?

ああ、そうなったら、息子はいかなる言い訳も和解も受けつけないであろう! 峻厳な裁判官のように! 上流階級の最高の地位から最下級の賤しい階層へと転落した母親に対し憎悪と軽蔑以外の何を感じるであろうか……。息子の憤慨した声が聞こえるような気がした。

「僕を飢え死にさせてくれた方がよかったのに。そんなお金で得たパンを食べて生き永らえるくらいなら! あなたの穢れたお金で僕の名誉を汚し烙印を押すどんな権利があなたにあると言うんです? 転落したなら、あなたは労働によって這い上がるべきだった。それが肉体労働でも、どんなに辛い仕事であっても……。僕を労働者に育てるべきだった。こんな自分の食い扶持も稼げない怠け者にするのでなく! 誘惑され、捨てられた哀れな娘の私生児として、その母親と僕の得た賃金を分け合いながら、それでも僕は頭をまっすぐ上げ誇りを持って生きていけたでしょうに……。二十年も経ってから、リア・ダルジュレの息子として、男たちとのゲームで金を得てきたあのリア・ダルジュレの息子として、一体どこに行けばその恥を隠せるというのですか!」

おお、そうに違いない、ウィルキーはこんな風に言うに違いない、もし彼が知ることになったら……。そして彼は知るだろう。彼女にはその確信があった。トリゴー男爵、パターソン氏、ド・コラルト子爵、そしてフォルチュナ氏……この四人が知っているのだ。最初の二人には彼女は信頼を置いていた。子爵はなんとか制御できる。しかしフォルチュナ氏だけは!

時間はどんどん経っていったがジョバンはまだ戻ってこない……。なんでこんなに遅いのだろう? 男爵の居所を突き止められないのだろうか? 友達に出くわして彼らと一緒に酒を飲みに行ってしまったのではないかしら!

確かに不幸が彼女に迫っていた。破局が差し迫っているときにはすべてが不都合に働き、支障が生じ、頓挫し、思い通りにならないものだ。12.22

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