エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XI-3

2024-03-31 14:04:40 | 地獄の生活
パスカルは答えなかった。母の言うことは全く正当だと分かってはいたが、それでも彼女の口からこのような言葉を聞くのは身を切られるように辛かった。何と言っても、男爵夫人はマルグリットの母親なのであるから。
「そういうことなのね」とフェライユール夫人は、徐々に興奮の度を増しながら言葉を継いだ。「そういう女性がいるというのは本当の事なのね。女はこうあるべきというものをこれっぽっちも持たず、動物にもある母性本能すら持たない、という……。私は貞淑な妻だったけれど、だからって自分が立派だと思っているわけではないわ。そんなこと、褒められるようなことじゃない。私の母は聖女のような人だったし、私の夫を私は愛していた……義務と言われることは、私にとっては幸福だった……だから私には言える。私は過ちを許しはしないけれど、理解はできるわ。若くて綺麗で男から言い寄られる女が、パリの真ん中に一人きりになって分別をなくしてしまうということ、そして自分のためにひと財産を手に入れるため外国に渡り多くの危険を冒している誠実な男のことを忘れてしまうってことが起こり得るのは、私にも分からないではない。男の方だって自分の誇りと幸福を、そんな風に危険に曝すのは無分別とも言えるわ。でもその女は心弱く、貞節を守れず、子供を身ごもり、挙句の果てに卑怯にもその子を、まるで犬の子を手放すように見棄てるなんて、それは私の理解を越えることです……いっそ子供殺しの方がまだ分かります……その女には心もなければ情もない、人間らしさが欠如しているのよ。でなければ、この世界のどこかに自分が血と肉を分け与えた子供がいると知りつつ、その子がこの世のどこかで惨めさに怯え、捨てられた悲しみに曝されていることを思えば、どうして眠ったり普通に生活したりできるでしょう……? その女はお金持ちだというではありませんか……宮殿のような家に住んでいるとか……それなのに、自分の装いや楽しみのことしか考えないとは!どうやったら毎日の一秒一秒を自分に問いかけずにいられるのでしょう、『あの子はどこ? いま何をしているの?…… どうやって暮らしているの? 不自由はしていないかしら、服はちゃんと着ているかしら、食べ物は十分にあるかしら? 掃きだめのようなところに転落してはいないかしら? これまでは自分の労働で食べてこれたけれど、今日は仕事がなくなってパンにも困ることになって自暴自棄になっていないかしら!』 と。 ああ神様、その女はどうやって外に出たりできるのでしょう! 飢えのために自堕落な生活に追いやられている可哀そうな女たちが通りすがるのを見るたび、どうして思わずにいられるのでしょう? 『あれは私の娘かもしれない!』 と……」
パスカルは母の感情の爆発に激しく心を揺すぶられ、顔面が蒼白になった。母が次のような言葉を発するのではないかと恐れ、彼の身体は震えた。
「お前、よくお聞きなさい。お前が結婚しようとしているのは、そんな女の娘なのよ!」
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2-XI-2

2024-03-24 10:34:56 | 地獄の生活
仇敵ド・ヴァロルセイの懐に入り込み、否定しようのない証拠を掴むのに役立ってくれると彼が頼みに思っているのが、手の中の十万フランであった。
男爵との会見が上首尾に終わったことを母親に早く伝えたくて、彼は足を急がせた。しかし、自分の究極の目的を果たさんがための様々な過程について思わず考え込んでしまい、ラ・レヴォルト通りにある粗末な住まいに着いたのは五時近くになっていた。そのとき、フェライユール夫人は帰宅したばかりであった。母親が外出することを知らなかったので、彼は少なからず驚いた。彼女が乗って来た馬車はまだ門の前に停まっており、彼女はまだショールも帽子も取っていなかった。
息子の姿を見ると彼女は喜びの声を上げた。息子の顔を見れば、何も言わなくても彼が何を考えているか分かるほどに息子の顔色を読むことに長けていたので、パスカルが口を開く前にこう叫んだ。
「うまく行ったのね!」
「ああ、お母さん、僕の予想を遥かに上回るほどに、ですよ」
「それじゃ、あのお方を見る私の目は間違っていなかったのね。わざわざ前の家まで来て助力を約束してくださったあの方の」
「そうです、まさにその通りですよ! あの方があそこまで高潔で無私無欲な紳士だったなんて、僕には到底想像もつきませんでした。ああお母さん、お母さんがこれを知ったら……」
「何を?」
彼は母親を抱きしめた。これから母親に悲痛な思いをさせるのを、予め詫びようとするかのように。そしてきっぱりと言葉を続けた。
「実は、マルグリットはトリゴー男爵夫人の娘なんです……」
フェライユール夫人は、まるで目の前で蛇が鎌首をもたげたかのように、激しく後ずさりした。
「男爵夫人の娘さん、ですって!」 彼女はもごもごと呟いた。「まぁ何てことを言い出すの! あなた、気でも違ったんじゃないの、パスカル?」
「本当のことなんです。聞いてください、お母さん……」
それから彼は男爵邸で見聞きしたことのすべてを、心痛めた口調で早口に語り始めた。トリゴー夫人のあまりに酷い行動を、真実を曲げない範囲で出来るだけ和らげつつ……。しかしそれは何のとりなしにもならなかった。フェライユール夫人の彼女に対する憤慨と嫌悪感が和らげられることはなかった。
「その女は断じて許すまじき人間です!」 息子が話し終えたとき、彼女は冷たい口調で言い切った。3.24
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2-XI-1

2024-03-17 15:27:23 | 地獄の生活
XI

マルグリット嬢のパスカル・フェライユールの人と為りを見る目は確かであった。
順風満帆のさなかに突然前代未聞のスキャンダルに打ちのめされた彼は、しばし茫然自失でぐったりしていたが、フォルチュナ氏が推測したような臆病な行動に身を委ねることはなかった。彼についてマルグリット嬢が言った言葉は、まさに彼を正しく言い表したものだった。
「もしあの方が耐えて生きることを選ばれたのなら、それはご自分の知力、体力、意志の力のすべてを捧げて、あの憎むべき中傷と戦うためです……」
このとき彼女はパスカル・フェライユールの身に降りかかった厄難の全貌を知ってはいなかった。彼女付きの女中であるマダム・レオンがシャルース邸の庭木戸で彼に手渡した手紙により、パスカルが自分に見捨てられたと思っている可能性があることなど、どうして彼女が知る筈があろうか? またヴァントラッソンのおかみさんによる心ない仄めかしにより、いかなる疑念や猜疑心でパスカルの心が苛まれているかということも、彼女には知る由もなかった。
絶望した人間に執りつく暗い狂気である自殺からパスカルがなんとか逃れることが出来たのはひとえに彼の母親の存在があったからと言えよう。また、彼がある朝トリゴー男爵の家の扉を叩きに行く決心を持てたのも、この比類なき守護神である母親のおかげであった。そこで彼は報われることになった。
ヴィル・レヴェック通りにあるこの瀟洒な邸宅から出てきたときの彼は、もはや苦悩に胸を締め付けられた男ではなかった。ただ、自分が偶然目撃した奇妙な光景から受けた衝撃によりまだ頭がぼうっとしていた。突然明かされた秘密、聞かされた打ち明け話などが、彼の頭の中で渦を巻いていた……しかし希望は見出した。
一条の光が地平線に見えてきたのだ。まだ弱々しく頼りなげではあったが、光であることに間違いはない。彼が陥れられた卑劣で不正な行為の迷路から、彼を導き出してくれる貴重な糸の端を掴んだかもしれなかった……。
それに何より、もう彼ひとりの孤独な闘いではなくなった。豊富な経験を持ち、人生の戦いに慣れ、名声や人脈や財産にも支えられた一人の清廉の士が、彼を助けてくれると心からの約束をしてくれたのである。何年もの年月よりも不幸がこの男を真の友にしてくれたのであるが、その彼のおかげで、自分から名誉と愛する娘を奪おうとした卑怯者に近づく方法が今やパスカルの目の前に開かれたのだ。今や彼はド・ヴァロルセイ侯爵の鎧の合わせ目を知った。どこをどのように突けばいいか、が分かったのである。
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2-X-20

2024-03-10 13:27:16 | 地獄の生活
ただ、行動を開始する前に、フェライユールさんのお考えを聞くことがどうしても必要です……」
「それはどうも出来ない相談のようです」
「何故ですの?」
「フェライユール氏がどうなったのか、分からないからですよ。私だってですよ、復讐をすると誓ったとき、最初に考えたのは他でもないフェライユール氏でした。私は彼の居所を突き止め、ウルム街に走りました。ところがそこはもぬけの殻。あの不幸が見舞った翌日にはもう、彼は家財道具を売り払って、母親とともに出て行ったのです」
「それは存じておりますわ……。私がここに参りましたのは、あなた様に彼を探し出してくださるよう依頼をするためでした……。彼がどこに身を隠しているか、それを探し出すのなんて貴方様にとっては子供の遊びのようなものでしょう」
「まさか、お嬢様は私が探そうとしなかったとお考えなのではないでしょうね! 昨日一日中、私は捜索に奔走しておりました。近隣の住人に聞き込みをした結果、マダム・フェライユールを乗せた辻馬車は5,709の番号を付けていたことが分かりました。私は車庫に行きましてその御者の帰りを待ちました。彼が戻ってきたのは夜中の一時でございました……。この御者はマダム・フェライユールのことをよく覚えておりました。大量の荷物をお持ちだったからです。で、どこまで行ったと思われますか? ル・アーブル駅です。駅の係り員にそのたくさんの荷物をどこまで運んでくれと依頼なさったと思われます? ロンドンまで、です。今頃はもうフェライユール氏はアメリカに向かっていて、我々は彼の消息を聞くことはもう出来ないでしょう……」
マルグリット嬢は首を振った。
「それは間違いですわ」と彼女は言った。
「私は調べて得た事実をお伝えしているのですよ」
「そのことは否定しません……でもそれは見せかけだけです……私は見せかけ以上のことを知っています。フェライユールさんがどういう方なのか、あの方の性格を私はよく知っていますから。不名誉な中傷を受けたからといって、そんなものに圧し潰されるような人ではありません。表向きには姿を隠し、逃亡し、しばらくの間身を潜めているように見えますが、それは報復を確実なものにするためです。そうですとも、エネルギーの塊のような、強固な意志が人の姿をしているようなあのパスカルが、自分の名誉、愛する女、そして自らの未来を捨て去るような卑怯な真似をするものですか! 彼について恐れるものはただ一つ、ピストルの弾丸です……もし彼が自殺をしていないとすれば、まだ希望を持っている筈です。彼はパリから去ってはいません。私には分かります。確信があります……」
彼女の言葉はすべてフォルチュナ氏に対しては説得力を持たなかった。彼に言わせれば『センチメンタル』に過ぎなかった。
しかし、ここにはもう一人、若者がおり、この美しい娘のひたむきな思いに彼の心が呼び覚まされていた。今まで会った中で最も美しいこの娘の一途な献身と精神力の強さに、彼は心打たれ感嘆していた。彼は前に進み出、熱意に目を輝かせ、感動した声で言った。
「お嬢様のお気持ちはよく分かります。フェライユールさんはきっとパリにおられると思います。僕の名に掛けて、シュパンというのが僕の名前ですが、二週間以内にその方を探し出して御覧に入れます!」3.10


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2-X-19

2024-03-05 10:10:33 | 地獄の生活
彼が金持ちの女性と結婚し、将来の妻の父親をうまく丸め込んで、自分の財政状態を立て直したいという希望を彼から聞いた限りでは、正直、それがさほど悪いことだとは私には思えませんでした。確かに褒められた所業ではございません。が、今日そのようなことは日常茶飯事として行われていることでございます。それでは今日、結婚とは何ぞや? それは取引です。互いが相手を騙すことで自らを益しようとする行為、そうでなければ取引などとは呼ばれません。騙されるのは花嫁の父かもしれませんし、婿の方かも、花嫁かも、あるいは三者全員がそうかもしれませんが、それはさほど目くじらを立てるようなこととは私には思えません……。ですが、フェライユール氏を陥れる計画が持ち上がったときには、ちょっと待った、それはならぬ、と。私の良心が許さなかったのです。無実の人間に罪を着せるなどとは!それは卑劣な行為、卑しく、汚い所業ではありませんか! しかしその犯罪を止めることの出来なかった私は、それならば仇を討つのに力を貸そうと誓ったのです……」
マルグリット嬢はこの釈明を受け入れるだろうか? シュパンは心配になった。それで彼は急いで雇い主であるフォルチュナ氏に近づき、遮って言った。
「それだけじゃないですよね、ボス。あのご立派な侯爵は見事にボスも騙しましたよね。こんな切れ者のボスを!侯爵にボスは四万フランを貸しましたよね。その金が八万フランになると言って、よくもまぁボスを騙して、そんだけ巻き上げたもんです!」
フォルチュナ氏は恐ろしい形相でシュパンを睨みつけた。しかし手遅れだった。暴露されてしまったものは、もはや取り返しがつかない……。この件はどうも上手く行かないように出来ているようだった。ヘマに次ぐヘマ。出だしで躓くと最後までうまく行かないものだ。
 「そ、そうなのだが……」やがて彼はきっぱりと断言した。「そのとおりです!ヴァロルセイは卑劣なやり方で私から金を奪いました。そして私はその報復をすると誓いました。そうして見せます。あの男の名誉が地に落ちるのを見るまでは私の心の休まるときはないでしょう」
本当のところ、シュパンのスッパ抜きはマルグリット嬢の心に好印象をもたらしたのだが、フォルチュナ氏はそのことに気づいていなかった。彼女はフォルチュナ氏が何故自分に協力的なのか、その理由が解明されて、ややほっとしたのである。そのためにこの男に対する軽蔑がすっかり消えたわけではなかったが、彼がほぼ誠実に自分のために尽力してくれるであろうことは確信した。
「その方がよろしゅうございますわ」と彼女は言った。「これで少なくとも、私たちお互いの手の内を明かせますものね……。あなた様のお望みはド・ヴァロルセイ侯爵の敗北ですわね。私のはフェライユールさんの名誉回復です。ということは、私たちの目的は共通点を持っていることになります。3.5
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