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エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

16章 6

2025-07-16 08:23:20 | 地獄の生活
「すばらしい! ……で、その御者にはどこで会えるんです?」
「今この瞬間はどこにいるか分かりませんが、彼はこの本部の所属ですから、待ってたら必ずそのうち戻ってきますよ……」
「待ちます。ただ、私まだ夕食を取ってないんで、ちょっと一口、何か食べてきます……それじゃまた! フォルチュナさんがあなたの借用証書を返してくれることは請け合いますよ……」
実際シュパンは大いに空腹だったので、来がけに目についた小さな店にダッシュで駆け付けた。そこで彼は十八スーでたっぷりの食事を取り、自分へのご褒美としてコーヒー一杯とリキュール一杯を飲んだ。そんなわけで満腹状態で彼は中央事務所に戻った。
2140番の馬車は彼がいない間には戻っていなかったので、彼は門のところで待ち構えることにした。ここで、もし彼が待つという技術を完璧に会得していなかったならば、彼の忍耐力は大いなる試練を与えられることになったであろう。退屈しすぎることなく、人目を引かないようにしながら、じっと待ち続けるというのは、困難な技だったからだ。
待ちに待った馬車が中庭に入ってくるのを見たとき、シュパンの心臓は高鳴った。時刻は十二時を少し過ぎていた。
その御者はゆっくりした動作で御者台から降り、事務所に入るとその日の稼ぎを差し出し、乗客の利用時間や目的地などを記入した報告書を提出し、外に出て来た。彼は確かにあの家政婦が言ったとおり、太った陽気そうな男で、この時間にまだ開いている酒場で何らかの酒を奢られるのを断るそぶりも見せなかった。
シュパンはこの男にあれこれ尋ねるに当たって、何らかの口実を並べたのだが、それを信じたにせよ信じなかったにせよ、彼はスラスラと答えてくれた。ウルム通りで客を『拾った』ことはよく覚えていて、その威厳ある年配の『ブルジョワ女性』の身体的特徴ばかりか、積み込んだ荷物、旅行鞄、帽子用トランクの数、それらの形状まで教えてくれた。
その女性客をセーヌ川右岸の西駅まで乗せて行き、アムステルダム通りの入口で馬車を停めた。鉄道の駅係員が近づき、慣例に従い『荷物はどちらまで?』と尋ねると、老婦人は『ロンドンまで』と答えたという。
シュパンはこれを聞いて、危うく椅子から転がり落ちそうになった。彼の考えでは、フェライユール夫人がル・アーブル駅まで行くように命じたのは、追手をまくため以外にはない、というものだった。車輪が二十回転もしないうちに、彼女が御者に小声で本当の行き先を告げた筈、と確信していた。それなのに、全く違っていた……。
それでは、マルグリット嬢が間違っていたのか? パスカルは本当に、戦いもせず、敵を前に逃亡を図ったのか? あのような男がそんな行動を? あり得ない。7.16
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16章 5

2025-07-12 06:34:21 | 地獄の生活
相手の険しい眉が穏やかになった。
「ということなら、掛けてください。で、どういうことです?」と彼は尋ねた。
「実はですね、十月十六日、夜の九時頃、ウルム通りに住むある御婦人がスフロ通りの辻馬車詰所まで使いを出して、一台の馬車を雇ってこさせたんです。そして荷物を積みこませて出発したんですが、行き先が分からない。この御婦人というのがボスの親戚の方でしてね、出先で落ち合いたいので、その馬車の番号が分かれば通常の料金に百フラン上乗せする、と言ってるんです……。ボスはどうしてもその番号が知りたいと言いますんで、その、もしもなんですが、あなたが調べてくださるのならば……。どうでしょう……。そんなこと、無理ですよね……?」
借金を棒引きにすると言って貰うよりも、シュパンのためらい口調が相手を活気づけた。
「いやなに、これほど簡単なことはないですよ」と彼は断言し、嬉々として貸し馬車業界の巧妙な管理方法について説明し始めた。「……十分ほど待って貰えますか?」
「なんなら十日でも待ちますよ」
「それじゃ、ちょっと待っていてください」
彼は立ち上がり、隣の部屋に入っていったが、すぐに巨大な緑色の書類箱を抱えて戻ってきた。
「毎晩、各詰所から配車票がここに送られてくるんですが、それが全部この箱の中に入っていて……」
そう言うと彼は箱の蓋を開け、中味をすばやく調べていたが、やがて嬉しそうに言った。
「あった!これですよ。十月十六日スフロ通り詰所の監督からの報告書です。ええと、九時十五分前から九時十五分の間ですね……。五台が到着しています……これは関係ないですね。三台が出発しています。番号は1781,3205,そして2140と。このうちの一台があなたのボスの身内の方を乗せたんですね……」
「三人の御者に聞いてみればいい、というわけか……」
相手は肩をすくめた。
「そんなことする必要はありませんよ」と彼は答えた。「ああ、あなたは我々の管理の仕方を知らないから! 御者はこすっからいですが、会社だって馬鹿じゃありません。年間十五万フランかけてわが社の馬車が何をしているか、一時間単位で管理をしてるんです。これら三つの番号をつけた馬車の伝票を探し出してあげますよ。そのうちの一台が確実に、お目当ての馬車だ」
今回はその捜索にかなりの時間が掛かり、シュパンはだんだんじれったくなってきた。やがて相手の男は汚れて皺くちゃになった一枚の紙切れを持ち上げ、勝ち誇って叫んだ。
「ほうら、言ったとおりだ! 馬車2140の伝票です……これです、読んでみてください。『金曜日、夜九時十分、ウルム通りにて客を乗せる……』 どうです?」7.12
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16章 4

2025-07-09 11:21:50 | 地獄の生活
しかし、取るに足りぬ最下級の身分で、後ろだてもなく、誰にも顧みられず、頼るものとしては、物に動じぬ厚かましさ、そして『おいらの街』の路上で培った経験しか持たぬ彼にとって、すべてが障壁となって立ちはだかっていた。
法学校の前の歩道に立ち、彼はハンチングを脱ぎ猛烈な勢いで頭を掻きむしった。そのとき突然彼が大声で叫んだので、通行人の何人かが、このあまり愉快でない言葉を自分に浴びせた人物を振り返って見たほどであった。
「脳みそをどっかに落としちまったんじゃないのか、俺!」
というのは、イジドール・フォルチュナ氏から金を借りている人間の一人を思い出したからである。彼は百スー硬貨何枚かでも取り立てるために、何度も彼を訪れたことがあったのだが、その男はパリ小型貸馬車会社の中央事務所に勤めていた。
「ここは一つ、あの男に頼むしかないな……ただ、まだ事務所にいてくれるといんだけど!……さぁ、ヴィクトール、ひとっ走りするっきゃないぞ!」
生憎なことに、彼の今の身なりのままではあの事務所を訪れるのに適切ではなかった。気が進まなかったが、ここは我慢して一度フォブール・サンドニの自宅に戻り、フォルチュナ氏の代理として借金の取り立てに行くのにふさわしい業務用フロックコートに身を包まねばなるまい……。彼は『自腹を切って』馬車に乗り、出来るかぎり急いだが、道のりは長く、セギュール通りの中央事務所に着いたときには十時の鐘が鳴っていた。
思いがけない幸運が待っていた!お目当ての男はなにやら点検の仕事を任されており、夕食後も職場に戻っていたので、今もそこにいたのである!
この男は千四百フランの年収でありながら二千フランを消費するというツワモノで、押しかける借金取りたちから自分のひ弱な給料を守るためには並々ならぬ知性を発揮する男であった。シュパンが誰か分かると、彼は怒り狂った身振りをし、最初に発した言葉は次のようなものだった。
「金はないぜ!」
シュパンの方は飛びっきりの笑顔を浮かべていた。
「え、何ですって!」 と彼は答えた。「こんな時間に私がお金の取り立てのためにここに来たと思っておられるんですか? 私はそんな人間じゃありませんよ! 実はあなたにお願いがありましてね……」7.9
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16章 3

2025-07-06 17:15:41 | 地獄の生活
彼はフォルチュナ氏の事務所を出るとすぐ、ウルム通りまで一気に駆けて行った。パスカルが以前に住んでいた家の門番の対応は丁寧とは言えないものだった。マルグリット嬢に対し非常につっけんどんな態度を取ったのもこの男だった。しかしシュパンは、どんなに取っつき難い邸宅の管理人をも笑わせるコツを心得ており、望みの情報を引き出すことができた。
シュパンがこの男から得た情報とは次のようなものである。十月十六日夜の九時ごろ、辻馬車に荷物を積み込ませた後、フェライユール夫人は『ル・アーブル広場へ行って頂戴。汽車に乗るから』と御者に命じた後、馬車に乗り込んだ、と。
シュパンはこの辻馬車の番号を知りたいと思った。実際それさえ分かれば良かったのだが、門番は知らないと答えた。が、フェライユール夫人が近所に住む家政婦に頼んで辻馬車を呼んで貰ったのは確かだと請け合った。それはムフタール通りにあるという……。
時を置かず、シュパンはこの家政婦の家のドアを叩きに行った。誠実なこの婦人は雇い主であるフェライユール氏の身に起きたことを激しく嘆き、さきほどの門番の言ったことに間違いはないと断言した。辻馬車の番号は覚えていなかったが、確かに言えることは、スフロ通りの詰所で辻馬車を見つけ、御者は陽気な太った男だった、とのことであった。シュパンはスフロ通りに向かった。
生憎なことに、その詰所の監督は酷く不機嫌だった。彼はまず、何の権利があって自分にそのような質問をするのか、自分のことを密告者だとでも思っているのか、と尋ねた。彼は更に、自分の仕事はこの詰所に所属するすべての辻馬車の発着を監視し、御者のプレートを注視し番号を帳面に記帳することなので、なんらの情報も与えられない、と付け加えた。
このつっけんどんな監督からは何の手がかりも得られないことは間違いなかった……。それでもシュパンは礼儀正しく挨拶をし、監督の小屋を出るとしょんぼりと呟いた。
「しょうがねぇなぁ! 他を当たるしかないか」
やる気をなくしたわけではない。シュパンはそんな男ではなかった。が、戸惑っていたことは確かで、 これからの方針に迷っていた。
もし彼が警察手帳を所持していたら、そうでなくても、もっといかつい風貌をしていたとすれば、途方に暮れることはなかったろうに……。荷物を一杯に積み、パリの街を疾駆していった辻馬車の足跡を辿ることなど、夜ランプを掲げて走る男の跡を追いかけるほどに簡単なことであったろう。7.6
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第16章 2

2025-07-02 10:24:45 | 地獄の生活
 「なんてぇご婦人だ!」と彼はマルグリット嬢が出て行った途端に叫んだ。「まるで女王様だ!あの方のためなら身を切り刻まれても惜しくないや! あの人には分かったんだ。もしおいらがあの人の役に立てたら、それはおいらのため、おいらの満足のためにやったんだってことを。心から、名誉のためにやったってことを。ああ、全く、もし彼女が金をやるなどと言い出していたら、俺はどんなにむかっ腹を立てたろう。どんなにかガックリし、打ちのめされたことか」
シュパンは自分の働きに対し金銭的報酬を与えられないことに無上の喜びを感じていたのだ。これは世間の人々とは全く逆なので、フォルチュナ氏は度肝を抜かれ、しばし無言であった。
 「お前、気でも狂ったか、ヴィクトール」と彼はついに言った。
 「気が狂う? 僕が? まさか、そんなことあり得ません。僕はただ……」
 彼は言葉を止めた。「正直な人間なだけですよ」と言おうとしたのだ。首吊りのあった家で綱の話をしてはならないように、特定の人々の前では口にしてはならない言葉というものがある……。シュパンはこのことを知っていたので、すぐに言葉を継いだ。
 「僕がいつか凄い金持ちになったら、ですね、そいで銀行家になって、従業員を大勢雇って、毎日百スー金貨を窓口の後ろで数えさせるようになったらっすね、あんな風な娘っ子がいてくれたらいいな、って思ったんすよ。それじゃ、おいら、もう行きます。じゃ、失礼します……」
 というわけで、かの女中のマダム・レオンが自分の仕える『お嬢様』が、『作業着姿の街のチンピラ』と道で立ち話をしているところを見つけた経緯というのはこういうことであった。
 ヴィクトール・シュパンは、約束しても守らないというような人間では決してなかった。世の苦労を舐めてきた人間は誰しもそうであるように、彼はあまり心を動かされることはなかったが、 持続する感情は空虚な誓いによって消滅することはなかった。心が感激して高揚すれば、それは一日で終わるなどということはなかった。
 パスカル・フェライユールを見つけ出すことは常に彼の頭を去らぬ課題となった。条件を考えればこれは困難な仕事であった。一体何から始めればよいのか? 彼に分かっていることは、パスカル・フェライユールはウルム通りに住んでいたが、突然アメリカに渡航すると宣言して母親とともにそこを引き払った、ということである。ただ、明確なのはそこまでで、後は憶測の域を出ないのだが、マルグリット嬢の確信に基づいて、シュパンもまたパスカルはパリを離れてはおらず、自身の名誉回復とド・コラルト氏及びド・ヴァロルセイ侯爵への復讐を果たす機会を狙っているに違いない、と思っていた。
 手がかりと言えばたったこれだけで、パリのような大都会で一人の男を探し出そうとしている。しかもその男は何としても身を隠そうとしているというのに。これは正気の沙汰とは思えないではないか?
 しかしシュパンはそうは思わなかった。彼が責任を持って探し出します、と言ったからには、彼には考えがあったのだ。7.2

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