記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

「失われた九州王朝」つづき

2011年01月19日 10時42分42秒 | Weblog
ミネルヴァ書房から2010年に復刊された古田武彦の他の2冊:
  「邪馬台国」はなかった:解読された倭人伝の謎 
  盗まれた神話:記・紀の秘密 
も借りてきました。

「親鸞」を「親巒」と書いたものがあることは知っていましたが、変わった書き方があるものだとしか思いませんでした。古田武彦はそれがどの写本にどれだけ用いられているか、分布がどのように変化したかを丹念に調べることで「歎異抄」が書かれた隠された動機を明かそうとし、最も誤字・誤写が多いとされた蓮如本こそ鎌倉時代の原本に最も忠実であることを発見した、と。

彼は邪馬台国についても同じようにして「壹」と「臺」の使い方・分布の変化を調べ、「壹」が正しく、「臺」は誤りだったとしています。多くの歴史家は魏志倭人伝の部分しか見ていないが、三国志全体の写本や同時代の金石文についても広く丹念に調べ統計をとっている、ということのようです。
「壹」は「イ」と読み、卑弥呼らが朝貢して中国の天子に忠節を誓う国の王であることを認められたということであって、「臺」という朝廷が存在する高台を意味する貴字は当時の国名に用いられない、と。

三国志を著した陳寿は晋の人、後漢書の記述は更に降って南宋の時代に范曄が陳寿の文を下敷きにして著したもので正確でない。

なお、倭を「ワ」と読むのは唐代から。漢代は委と書き「イ」と読んだ。
金印贋作説があるが、贋作なら「委」でなく「倭」となっていただろう、と。

倭人伝にある倭国の地理について、方位や里数が間違っているとして、後世の史家がそれぞれの意図で書き換えているが、古谷武彦は三国志の記述を検討し、当時の百里は 7.5~9km だと計算し、記述はむしろ正確だった、としている。

敗戦後に皇国史観が影を潜め、歴史家は「記・紀」に代って中国の史書を専ら資料とするのが一般的となったが、古田武彦はシュリーマンに倣って「記・紀」の考証を行い、神話が中に何を隠しているのか、特に「神々はどこから来て、どこを通ってどこまで行ったのか」を明かそう、と。

われわれも高校の社会科の時間にハインリッヒ・シュリーマンがホメロスの叙事詩によってトロイの遺跡を見つけたという話を教わったことを想い出します。
遺跡は7層だったかになっていて、彼が最初に発見したと思ったのは下から何番目の層だった、とか云う話が当時のリーダーズ・ダイジェストに有ったりしました。

以下はそうだったのかと興味を引いた幾つかの推論の抜書きです。

景行天皇の九州遠征説話:
1 この方が神武東征説話より先にあった。
2 遠征軍の本国は大和ではなく、筑紫。
3 筑紫を出発して、関門海峡を抑え、九州東岸、南岸を討伐。
4 最後に既に安定している西部を巡って帰京。
5 熊襲は九州北部にいたが、追われて南部へ行った。

クマソタケル説話:
1 クマソタケルがヤマトタケルに名を下賜した。
2 ヤマトには正規軍でクマソを撃つ力がまだ無かった。

仲哀・神功筑後平定説話:
1 仲哀は九州南部まで行っていない。
2 クマソと交戦すること無く死んだ。
3 神功に対してクマソは戦わずに服従したという筑後平定説話は偽作。
4 神功は朝鮮でも戦っていない。

国号「日本」の起源
1 百済記などに「日本」の記述がある。(中国の史料では日本は倭国の近くの小国で、やがて倭国に併合された、とも。)
2 百済本記では、531年に敗死した磐井を「日本の天皇」と呼んでいた。
3 「日本書紀」が参照している「日本旧記」は530年頃に書かれた九州王朝の国内史書。

三種の神器
1 「鏡、剣、玉」がセットになって、九州北岸の遺跡からしばしば出土する。
2 三種の神器による共同祭祀圏が九州北岸に成立していた。

大八州
1 シマはクニであって、島とは限らない。
2 国生みの八つの国とその順番は書物によって異なる。
3 筑紫中心の大八州説話(日本旧記)から
4 大和中心の説話(古事記、帝王本紀)へ。
5 豊秋津は豊国安岐の津(別府湾)であって、本州ではない。

天孫降臨の地
1 筑紫の日向の高千穂のクシフルの峰
2 筑紫は大筑紫(九州)ではない。
3 日向は筑前の日向(ヒナタと読む)。
4 筑紫←千串:稲穂のように沢山の岬がある。cf. 穂高。
5 クヌギ村のクシフル山。フルは村落の意。

天照生誕の地:日向の橘の小戸のアワギ原
1 橘=太刀鼻。岬状の地。
2 博多湾西部の能古島(残島)の小戸。姪の浜。

ニニギノ命の降臨
1 糸島郡。
2 北に韓国。
3 南に笠沙(御笠川)。
4 三雲遺跡(伊都国の遺跡)の辺り。

神武の家族
1 神武の父(ウガヤフキアエズ)は母の妹(タマヨリヒメ)を妻とした。
2 神武は日向でアヒラヒメを妻とし、タギシミミを生んだ。
3 神武は大和でイスケヨリヒメを妻とし、カムヌナカワミミを生んだ。
4 タギシミミはイスケヨリヒメを妻とし、マツリゴトを行った。
5 カムヌナカワミミはタギシミミを暗殺して、統治の座(綏靖)に就いた。

神武紀の時代はギリシャ神話の時代に似ている。
日本書紀に書かれた時代の倫理と、それを編集した時代の倫理とは異なり、そのために伝承を歴史化する際に改編が行われた、というのが古田武彦の解釈。
しかし、天皇家の家族関係についての考え方は乙巳の変や壬申の乱の時代と本質的に変わっていないように思われる。

九州と大和の王権が多くの説話を共有していたりするのは、出自が同じだからということらしい。
その意味では後者が前者の神話を「盗んだ」と言うのは必ずしも適切でない。
筑紫にあった傍流が東征し、大和で王権を得て本流となった、と解される。
先行する文献が内外に多数あり、日本書紀は文献名を明らかにしないまま、独自の改編を行っており、それを今日の著作権という倫理からすれば盗作になるということであろうか。



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