記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

親鸞

2012年05月02日 06時39分32秒 | Weblog
親鸞「ひたすら念仏を唱えれば往生できる。」
男 「まだ往生したくない。」
親鸞「わたしもそうだが。」

誰の作り話だったか。
何で読んだのかも覚えていません。

書店で新書版の本を手にしたら、明治時代に「親鸞不在説」が有ったと述べていました。
大正時代になって恵信尼の書簡が発見されてその説は消失したが、親鸞に自著がなく、親鸞の同時代の文書に親鸞の名が出てこなかったからだとしています。

今 親鸞には広く根強い関心があると思いますが、今日の親鸞のイメージは明治になって再発見された「歎異抄」に依るものであって、多分に虚像だというのが「新書版」の主張のようでした。

一向一揆を経て浄土真宗が飛躍的に巨大化したのは蓮如以来であり、真如は歎異抄を禁書にしており、浄土真宗の形成発展に歎異抄は寄与していない。
江戸時代の門徒は歎異抄を知らず、歎異抄が再発見されて広く読まれるようになったのは明治になってからのことだ、と。
知りませんでした。

「歎異抄」は弟子の唯円が親鸞の言葉を記録したとされるが、唯円は親鸞の没後27年に亡くなり、歎異抄が著されたのは30年後であるから、編纂者はまた別にいるだろう、と。
編纂者は、親鸞の教えと異なるものが説かれていることを嘆き、それを否定しようとしたのであるから、編纂者の立場に合致したものだけを選び出した可能性が有る、とも。

「教行信証」が主著だとされているが、内容のほとんどは経典の抜書きで、親鸞のコメントは僅かでしかない。それを「歎異抄」と照らし合わせようとしても親鸞の思想は見えてこない、とも。

しかし「教行信証」の中に門徒が日々の勤行で読誦する「正信念仏偈」があることについて触れ、それは親鸞の思想のエッセンスを抽出したものだということは認めています。
その上で、その中に「歎異抄」にある悪人正機の考え方はない、というのが「新書版」の著者の考えでした。

歎異抄とは別に覚如による「口伝鈔」があり、そこに歎異抄と同じように「千人を殺害したら往生がかなう」という話がある、と紹介しています。
親鸞は、容易に往生がかなう方法があるとして、千人を殺害するよう弟子たちに命じ、実行を強く迫る。弟子は千人どころか一人も殺すことができないと訴えると、殺生罪を犯さないのは過去に「たね」が無いからであって、往生には善もたすけにならず、悪もさわりとならない、と説く。

ソクラテス風の弁証法だと思います。
これが悪人正機説の原型だったのではないでしょうか。

「新書版」は「千人を殺せば往生できる」という命題を親鸞が真の命題としても説いていたかのように述べています。
面白い本でしたが、敢えて論を歪めているのではないかと思えるところが幾つかあるようでした。
「新書版」の帯に「日本人は親鸞に帰る」、「新しい親鸞像を描き出す渾身の力作!」とありましたが、営業向きなのではないかと云う印象です。

「おわりに」は2つのことが書いてあります。
1つは「浄土真宗という宗派は本来、誕生すべきでなかった」こと。
2つ目は、「親鸞はただ、法然の説く専修念仏の教えに忠実であろうとし・・・最後まで揺れ続けた」こと。

著者は2つを1つのことの表裏として論じていますが、それぞれ異質の問題です。
親鸞が妻帯しなかったら東国にいた弟子たちが廟所と親鸞の血族を支えることもなく、浄土宗の派閥の一つを形成するだけで終わっていたかもしれない、と。
事実に反する推測がどれだけ意味を持つのでしょうか。
「あとがき」で書いているように著者は、親鸞を高く評価する今日の知識人に対して抱いてきた「違和感」を、これを著すことで自ら納得させるものであったようです。

親鸞が揺れ続けたとは、どこまで「ほんとう」だったのでしょうか。
阿弥陀仏の本願にすべてをゆだねることは容易でなく、気がつくと自らで救われようとする自力のこころが立ち現れる、と。
今日、われわれが「ナムアミダブツ」と念じても、それだけで救われるとは信じきれないであろうことは、自分のこととして理解できますが、親鸞とその時代の人々が終生そうだったかどうか。
親鸞が自らは徹しないまま弟子たちに徹するように勧めていたのかどうか。

ネットで著者について検索してみたら、サリン事件後も麻原彰晃を擁護してマスコミに叩かれ、職をも失ったようです。
信じ込み易いところが有ったのでしょう。
反省あるいは釈明のためにカリスマを引きずり降ろさねばならないと考えるようになったのかも知れません。
しかし、麻原を降ろすに急な余り、親鸞をも降ろすのは巻き添えではないかと思えてきました。


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