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邪悪

2017-05-20 22:24:20 | 日記
私も案外、早く死ねるかも知れない。病状の進行に怪しい気配を感じる。だがそんなに長く生きていたいとは微塵も思わない。それが私に残された救いなのかも知れない。

両親、とりわけ父親を文字通り、死の間際まで苦しめた弟夫婦の存在だが、もう離婚したとの事だった。仲良くやっているなどと語っていたほんの一か月後の事だ。詳細は知らないし、何も知る気はない。

弟はとうとう私の想像の何も越える事はなく、想定した通り、赤子が物心つく前に離婚した。だから、恐らく今後も想定から外れる事はないだろう。実家に帰るまで想定通りに行動した。

弟は欲望のままに未成年を抱き、その人生を狂わせた手助けをした。確かに自分の人生を破滅に向かわせたのは、彼女自身の選択だが、弟はそれを諭せる年齢であったに関わらず、その破滅を助けた。それは許されまい。

離婚した彼女はまだ未成年のはず。赤子を抱えて、長く意地を張り通せることもできまい。中卒扱いだし、免許も何もないのだ。

それを弟は放り出した。理由はあろう。そうするに足る理由があるから実行に移したのだから。

だが彼女を高校中退させたのも。妊娠と出産させたのも。満足のいく家庭を作れなかったのも。全てそこに弟の決断もまたあったのだ。本当の意味で彼女を愛していれば、この結末を回避するシナリオは、どこでも選択できたのだ。

しかし、母親はそんな弟を責めるなと言う。

だから私も言うつもりだ。話題に出さねば責めはしない、と。必ず母親は、弟をなじる事を止める事はできまい。今までもそうだったのだ。どんなに慈母を気取っても、心根は醜悪そのものだから容赦なく罵倒する事を止められはしない。

だが罵倒し続ければ、キレやすく我慢のきかない子に育てた弟の事だ。また後先考えずに何事かするだろう。だが母親は罵倒する事も止められない。それは我慢できた試しがない。顔を見れば毎日罵倒するだろう。だから母親は罵倒し倒した後に、何とも甘いフォローの言葉を必ずかける。

優しい、いい子だとか。家族思いの責任感の強い子だとか。

結局は己の利益のためだ。そこに何の真心も存在しない。

そして弟はそれが欺瞞と分かっていても、それにすがりつく事を止める事ができまい。今までもそうだったのだ。人はそれが嘘だと分かっていても、弱り切ればそれに寄りすがる。

だからふたりの間で今回の離婚は、正当な行為だったと結論が導かれるのはそう遠い先の話ではない。だが、それを私は支援するつもりはないし、同意をするつもりもない。私は己を悪と定義した。私は、私の実家を愛さない。だから話題にされれば容赦なく、徹底的にこれを叩く。

それが嫌ならば、話題に出すな、と。この家の語る愛情の全てが、この末路を導きだした。だから私はこの家にとって悪で居たい。

この家の語る愛情の末路が、間違いなくひとりの少女の人生を大きく狂わせ、その子供の人生も危うくしているのだ。何もできないが、せめて認めるわけにはいかない。

弟がせめて、間違いから学ぶ気質であったならと思うが、それを期待するのは無理だという事も、この46年で思い知った。そう弟を育てたのは、間違いなく私の実家だ。紛れもなく、邪悪だ。愛情の名をかたり、欲望のままに振る舞い、弱肉強食の名のもとに獣の理屈で全ての暴力と差別を容認し続けた。それが楽な支配だったからだ。

そしてそんな邪悪を招いた、弟の彼女もまた、そうなのだ。問題だらけだった。とてもフォローできない程、欠点の多い性分をしていた。お互いが、お互いを招いたのだろう。呼び合ったのだ。

だから私もきっと。18年であの家から逃げおおせたとは言え、その毒は必ず身の内にある。

だから早い病死は、救いでもある。あと8年。8年で息子は成人する。せめてそこまで持てばいい。また、保険も多めにかけてある。

私は、私の代で、私の家を終わらせる。

あともう少しで、実家にまつわる悪夢が消える。ただ呪わしいのは、何故、私は中学の時に3度の自殺未遂をはたらきながら、生きる選択をしてしまったかと思う。それが間違いだった。

せめて私があの時に死んでいれば。少しは両親も己の半生に疑問を抱いたのではないだろうか。

もう少しだけ、弟もまともになったかも知れないと思う。姉は変わるまい。元より何の関心もなかったのだし、父の寵愛は揺るがなかっただろうから。

私の子供にも、嫁さんにも。ここに来て申し訳ないという気持ちがある。面と向かって言えはすまいが。気付くのが遅すぎた。

結婚して、親になって、ようやく我が親の間違いに気付いたのだから。

だけど、病状が私の想定通り、悪化しているのなら。これはせめて神仏の慈悲と思うべきだろう。

これは家族の前でとても言えない言葉だ。

こんな事を書き連ねても、何の意味もない。誰も幸せになどしない。邪悪は今も必ず、どこかで発生し続け、その毒は間違いなく伝染してゆく。私ひとりが死んだところで、息子の身の内に流れる私の血が、邪悪を呼ばないとは限らない。

それを悲観などしてはいけないのだろう。ただの現実でしかない。

ただ私は、真の邪悪こそ、邪悪と定義し辛い形態で人や社会に潜伏し続ける事を指摘したいのだ。

真の邪悪こそ、邪悪とは言い辛い形に溶け込む事が可能だという事は、邪悪と定義する場所を幾らほじっても本当の答えや解法はそこに存在しないという事だ。

むしろ、清く、正しく、美しくそして気高い理想の峰にこそ、邪悪を解く鍵はある。そこに邪悪の巣はあるのだ。

社会が真の悪にたどり着けないのは、探している場所が間違っているからにほかならない。

そしてまずい事に、その悪こそが社会において有益な存在足り得るからこそ、問題の暗黒面を色濃くしてしまう。悪は社会にとって有益であり、有能であるからこそ、排斥など不可能に近い。

だから、悪を知り、悪とどう上手く付き合うかなのだ。毒も上手く使えば薬となる。

だから、悪の中からしか、本当の善は生まれないのかも知れない。

社会にとって悪は必要だが、悪だけでは社会も殺されてしまう。有益、有能な人材だけが、社会を破滅に常に導こうとする。その社会が倒れるまで、間違いなくその者はその社会にとって無視できない存在足り得たからこそ、その破滅はあるのだ。破滅した後に、征服者が愚鈍な邪悪と指摘するだけの事であり、破滅するまではその者は有益足り得るのである。

その時に、子供が無益無能の善人で居てくれればと願う。そこは清濁合わさった荒野で生き辛いだろうが、最初から清濁あると知れば、また邪悪にも染まりにくい。

己から醜悪を排斥する者が、どうして悪に染まる自分に気付けようか。己は苦行の末に悪を吐き出し続けたのに、邪悪とは何事かと吠えるに違いないだろう。

己の悪を知り、それを恐れる者こそが悪に染まらず居続ける事が可能なのだ。

無益無能でいい。ただ、邪悪より遠くあれと願う。

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