今月の歌舞伎座がさっぱりだったことはすでに書いたが、どうもまだ納得がいかない。肝心なナニカをみ逃したのではないか?と思い、その後もあれこれ考えている。私にとっての芝居見物には、このようにいくたびも反芻するお楽しみも含まれる。くどくて申し訳ないけれど、もう一度、思うところをまとめてみたい。
私が感じている、玉三郎と菊五郎(音羽屋)の芸風の違いを、この機会に整理できることを期待しつつ…。
『加賀見山旧錦絵』は、いかにも女性向けの演目で、男性歌舞伎ファンはあまり興味がもてないようだ。
女忠臣蔵と呼ばれるわりには、本家本元『忠臣蔵』のスケール感はないし、『先代萩』の政岡がもつような忠義の激しさもなく、こじんまりとした予定調和な芝居だと私も思う。皮相的といえばその通りだ。
おまけに、この演目には立役がほとんど出てこない。悪の味わいを感じさせてくれる役、剣沢弾正くらいなのだがその描き方は筋を通すための一コマに近く、食い足りないだろう。
少なくとも私が立役なら、同じ弾正なら、絶対に仁木弾正がいい。
だが、女社会独特のいじめやら権力抗争はいつの時代にもあるし、内側から煮詰まって崩れ去る静かなドラマも、忠義の部屋つき女中お初が尾上二世を任じられて、「あらー、よかったよかった」な安易な幕切れも、私は好きである。軽薄さがたまらないのだ。
ところで、この演目。岩藤ばかりに目が行きがちで、尾上は哀れで可哀相な佳人として、とりあえずそこにいればいいといった節がなくもない。加役としての岩藤を、役者がどう面白くやってくれるか?が眼目であり、私自身も長いこと、岩藤キャラクターのファンだった。
が、人形浄瑠璃をみて、見物が心情的にどっぷり共感できる段は、尾上が苦悩し死に至る「長局の段」であることを実感した。ここは大夫の聴かせどころでもある。
お初のかいがいしい奉公に心から感謝しつつも、これまでの奥勤めで、自分が所詮は町人出であることにとことん打ちのめされている尾上がいる。
そんな彼女は、きびきびと先回りし尾上をいたわるお初が、自分とは身分の異なる武家の出であることにどこかで深く傷つき、なおかつ抱いてしまった劣等感に対しても絶望するのである。
どうしようもない疎外感と孤独感を感じた尾上が、一人自室にこもり親にあてて遺書を書く場面は、親にとってのただの娘という、純粋に自由な立場に一刹那立ち帰る時であり、大変感動的だ。
富裕な大店に生まれ育った彼女は、親をひたすら懐しみ、親の愛を思い返す。手塩にかけて育ててくれた親の恩に感謝しつつ、そんな自分を「町人出」だからという理由だけで排除する社会の非情さに憤る。
と、同時に「そうなのだ。私は町人にすぎないのだ。それなのに、なんと高望みしていたのだろう…」とも思う。心は千々に乱れ、半ば狂乱に近い体で嘆く。そしてついに、武家奉公した自身のプライドにかけて殉死することを再認識するのである。これは、相当に皮肉のきいた展開である。
そのように思い極め、文をお初に託してしまうと、尾上はもはや抜け殻となっており、死んでいるに近い。
だから、お初が、烏の夜啼きを聞きつけ凶事を予感し駆け戻ると、尾上は自害し果てた姿となっているのだ。
お初を送りだした時、すでに精神的に死んでいる尾上を、芝居の都合で再度自死させる必要はないからである。
この深みとコクが、歌舞伎で出せるのか?というのが、私の注目点だった。
玉三郎の尾上には、花道の出といい、長局に戻ってからの振るまいといい、宇宙の重力すべてを担ったかのようなどん底の暗さがあり、絶品だった。
根を詰め、息を詰めた、大変に緊張感のある芝居で、文句なく素晴らしいと思った。
立女形玉三郎、ここにあり!といった趣で、見物はただただみいってしまう。
だが、しかし、歌舞伎は義太夫ベースの芝居ではないため、文をしたためる場面の慟哭が真に迫ってこない。
これ以上ないというくらい、ずっしりくら~い尾上がいても、尾上の錯綜した精神状態が伝わらないのだ。
どういう理屈でそうなったのかわからない確固とした殉教者が、ただそこにいるようにみえてしまう。
役者としてはこれ以上ないほど、渾身の芝居をしていることはとてもよくわかるのに、共感しづらいのである。
玉三郎は賢い人だから、尾上の真の絶望は、誰かの共感を前提としていないと考え、あたかも異物の如く、実体として舞台に存在するむき出しの絶望を、演じてみせたのかもしれない。
けれども、このような手法は、歌舞伎という芝居の生理に即していないように私には思える。
これでは、見物がみな、芝居から取り残されてしまう。
尾上がここで、完全に自己完結していることは、文楽をみれば了解可能ではある。
だが、人形という媒介を通して芝居を届ける文楽と、生身の役者が演じてみせる歌舞伎とでは、おのずと方法論が違って当たり前だろう。歌舞伎には、ささやかな媚態とでもいうもの、芝居心をみせつけ、見物がその役者っぷりに心酔できる独特のスキのようなものが必要だ。文楽では義太夫が担っている。大夫の語りで泣けるのだ。
菊五郎と玉三郎の芝居が、噛み合っていないように感じられた理由だが、私は役者生理の違いだと思う。
菊五郎は、岩藤を加役ではなく、あくまでも女方として勤めていた。
たしかに音羽屋は、江戸前のサラサラ、すっきりとした芸風が持ち味であり、コッテリ感やみっちり感のある役はあまり得意ではない。うんと細かくリアルな芝居も好まないところがある。
けれども、音羽屋には、音羽屋独特の写実の味わいがある。
ことにそれがよく顕れるのは、形の美しさによってだ。それも、いちいち決めてみせず、見物に気づかせないことに留意した「流れの中の形」の素晴らしさである。
この、流れの中の形・流れの中の美といったような特色には、口跡のよさ、声のよさもある。
科白を思い入れ重視で語ることはあまりしないが、音階・音程・強弱などがよく練られているといつも感じる。
心理を叙述(激白)する科白というよりも、風情としての科白に力点が置かれており、理屈っぽさを嫌う。
説明ではなく、体の線や目線の運び、顔の角度、何気ない動きと共に、目と耳、トータルで気持ちよくなるような科白まわしなのだ。
視覚でも聴覚でも、過剰さは注意深く遠ざけられる、というのが音羽屋流だろう。
「みて、幸せになる」「みて、納得する」。これができれば、御の字であり、それ以上を求めないのだ。
科白でさえ、耳に心地よく響かせることを主眼にしていて、見物に、気分のいい景色を感じとらせることができたら、それで芝居は十分着地した、と考えているような気がする。
だが、今回の共演では、玉三郎があまりに役に集中しているため、菊五郎独自の流れがとだえてしまうのだ。
つまり、同じ写実であっても、玉三郎の役づくりと菊五郎のそれとは、目標点もプロセスも異なるのだろう。
肚や心理からいわば役になりきり、最終的には舞台表現として純化させようと考える玉三郎と、肚や心理から出発しても役に集中するだけでなく、舞台全体の気配や景色を美しくみせるため、時に役を手放そうとする菊五郎。
緩急自在ではない。どこか、見物に委ねてしまう大ざっぱさが、音羽屋の魅力でもあり、まあ、弱点でもある。
音羽屋が気を抜いている、手を抜いている、適当にやってると、多くの人から指摘されるのは、おそらくここいらに理由がある。汗を流す芝居はしないし、事実、駄目だこりゃとなると、明らかにイナしてしまうからだ。
しかるに、玉三郎は、全身全霊をあげて自身で役をコントロールし尽す。見物のノリとは無関係に、誠実に真摯にとことんやってのけるのだ。
たしかに凄いし、素晴らしい。心底、へーーーっと圧倒されはするけれど、あまりのことに、芝居がこちらにおりてこず、舞台で空転しているように思える時もある。
多分、それぞれ別の役者が相手役を勤めた方が、今回の『加賀見山』の試みはずっと面白かったろう。
ちなみに、菊五郎劇団状態の夜の部『引窓』が、朴訥さや鄙びた風情に欠け、じんわりした義太夫味が薄いのも、あくまでもこっちの勝手な憶測ではあるけれど、『加賀見山』での不協和音のせいであるような気がする。
勝手が違う芝居運びへのとまどいが、馴れ親しんだ劇団メンバーと出会ってホッとし、サラサラ芝居に拍車をかけているように感じてならない。菊五郎はもっと違ったよさをを出せる役者のはずだ。
『日高川』の玉三郎が、菊之助の人形遣いを離れてからの方が、どことなく生き生きとしていたのも……?!
今月は、役者の生理の違いみたいなものを、やけに感じとれた月だった。
おお! それなら十分、みてきた甲斐というものがあったではないか! めでたしめでたし、である(笑)
こちらの記事も是非ご覧ください。『Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*』より
歌舞伎座『芸術祭十月大歌舞伎 昼の部』 3等A席前方花道上
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は こちら>
私が感じている、玉三郎と菊五郎(音羽屋)の芸風の違いを、この機会に整理できることを期待しつつ…。
『加賀見山旧錦絵』は、いかにも女性向けの演目で、男性歌舞伎ファンはあまり興味がもてないようだ。
女忠臣蔵と呼ばれるわりには、本家本元『忠臣蔵』のスケール感はないし、『先代萩』の政岡がもつような忠義の激しさもなく、こじんまりとした予定調和な芝居だと私も思う。皮相的といえばその通りだ。
おまけに、この演目には立役がほとんど出てこない。悪の味わいを感じさせてくれる役、剣沢弾正くらいなのだがその描き方は筋を通すための一コマに近く、食い足りないだろう。
少なくとも私が立役なら、同じ弾正なら、絶対に仁木弾正がいい。
だが、女社会独特のいじめやら権力抗争はいつの時代にもあるし、内側から煮詰まって崩れ去る静かなドラマも、忠義の部屋つき女中お初が尾上二世を任じられて、「あらー、よかったよかった」な安易な幕切れも、私は好きである。軽薄さがたまらないのだ。
ところで、この演目。岩藤ばかりに目が行きがちで、尾上は哀れで可哀相な佳人として、とりあえずそこにいればいいといった節がなくもない。加役としての岩藤を、役者がどう面白くやってくれるか?が眼目であり、私自身も長いこと、岩藤キャラクターのファンだった。
が、人形浄瑠璃をみて、見物が心情的にどっぷり共感できる段は、尾上が苦悩し死に至る「長局の段」であることを実感した。ここは大夫の聴かせどころでもある。
お初のかいがいしい奉公に心から感謝しつつも、これまでの奥勤めで、自分が所詮は町人出であることにとことん打ちのめされている尾上がいる。
そんな彼女は、きびきびと先回りし尾上をいたわるお初が、自分とは身分の異なる武家の出であることにどこかで深く傷つき、なおかつ抱いてしまった劣等感に対しても絶望するのである。
どうしようもない疎外感と孤独感を感じた尾上が、一人自室にこもり親にあてて遺書を書く場面は、親にとってのただの娘という、純粋に自由な立場に一刹那立ち帰る時であり、大変感動的だ。
富裕な大店に生まれ育った彼女は、親をひたすら懐しみ、親の愛を思い返す。手塩にかけて育ててくれた親の恩に感謝しつつ、そんな自分を「町人出」だからという理由だけで排除する社会の非情さに憤る。
と、同時に「そうなのだ。私は町人にすぎないのだ。それなのに、なんと高望みしていたのだろう…」とも思う。心は千々に乱れ、半ば狂乱に近い体で嘆く。そしてついに、武家奉公した自身のプライドにかけて殉死することを再認識するのである。これは、相当に皮肉のきいた展開である。
そのように思い極め、文をお初に託してしまうと、尾上はもはや抜け殻となっており、死んでいるに近い。
だから、お初が、烏の夜啼きを聞きつけ凶事を予感し駆け戻ると、尾上は自害し果てた姿となっているのだ。
お初を送りだした時、すでに精神的に死んでいる尾上を、芝居の都合で再度自死させる必要はないからである。
この深みとコクが、歌舞伎で出せるのか?というのが、私の注目点だった。
玉三郎の尾上には、花道の出といい、長局に戻ってからの振るまいといい、宇宙の重力すべてを担ったかのようなどん底の暗さがあり、絶品だった。
根を詰め、息を詰めた、大変に緊張感のある芝居で、文句なく素晴らしいと思った。
立女形玉三郎、ここにあり!といった趣で、見物はただただみいってしまう。
だが、しかし、歌舞伎は義太夫ベースの芝居ではないため、文をしたためる場面の慟哭が真に迫ってこない。
これ以上ないというくらい、ずっしりくら~い尾上がいても、尾上の錯綜した精神状態が伝わらないのだ。
どういう理屈でそうなったのかわからない確固とした殉教者が、ただそこにいるようにみえてしまう。
役者としてはこれ以上ないほど、渾身の芝居をしていることはとてもよくわかるのに、共感しづらいのである。
玉三郎は賢い人だから、尾上の真の絶望は、誰かの共感を前提としていないと考え、あたかも異物の如く、実体として舞台に存在するむき出しの絶望を、演じてみせたのかもしれない。
けれども、このような手法は、歌舞伎という芝居の生理に即していないように私には思える。
これでは、見物がみな、芝居から取り残されてしまう。
尾上がここで、完全に自己完結していることは、文楽をみれば了解可能ではある。
だが、人形という媒介を通して芝居を届ける文楽と、生身の役者が演じてみせる歌舞伎とでは、おのずと方法論が違って当たり前だろう。歌舞伎には、ささやかな媚態とでもいうもの、芝居心をみせつけ、見物がその役者っぷりに心酔できる独特のスキのようなものが必要だ。文楽では義太夫が担っている。大夫の語りで泣けるのだ。
菊五郎と玉三郎の芝居が、噛み合っていないように感じられた理由だが、私は役者生理の違いだと思う。
菊五郎は、岩藤を加役ではなく、あくまでも女方として勤めていた。
たしかに音羽屋は、江戸前のサラサラ、すっきりとした芸風が持ち味であり、コッテリ感やみっちり感のある役はあまり得意ではない。うんと細かくリアルな芝居も好まないところがある。
けれども、音羽屋には、音羽屋独特の写実の味わいがある。
ことにそれがよく顕れるのは、形の美しさによってだ。それも、いちいち決めてみせず、見物に気づかせないことに留意した「流れの中の形」の素晴らしさである。
この、流れの中の形・流れの中の美といったような特色には、口跡のよさ、声のよさもある。
科白を思い入れ重視で語ることはあまりしないが、音階・音程・強弱などがよく練られているといつも感じる。
心理を叙述(激白)する科白というよりも、風情としての科白に力点が置かれており、理屈っぽさを嫌う。
説明ではなく、体の線や目線の運び、顔の角度、何気ない動きと共に、目と耳、トータルで気持ちよくなるような科白まわしなのだ。
視覚でも聴覚でも、過剰さは注意深く遠ざけられる、というのが音羽屋流だろう。
「みて、幸せになる」「みて、納得する」。これができれば、御の字であり、それ以上を求めないのだ。
科白でさえ、耳に心地よく響かせることを主眼にしていて、見物に、気分のいい景色を感じとらせることができたら、それで芝居は十分着地した、と考えているような気がする。
だが、今回の共演では、玉三郎があまりに役に集中しているため、菊五郎独自の流れがとだえてしまうのだ。
つまり、同じ写実であっても、玉三郎の役づくりと菊五郎のそれとは、目標点もプロセスも異なるのだろう。
肚や心理からいわば役になりきり、最終的には舞台表現として純化させようと考える玉三郎と、肚や心理から出発しても役に集中するだけでなく、舞台全体の気配や景色を美しくみせるため、時に役を手放そうとする菊五郎。
緩急自在ではない。どこか、見物に委ねてしまう大ざっぱさが、音羽屋の魅力でもあり、まあ、弱点でもある。
音羽屋が気を抜いている、手を抜いている、適当にやってると、多くの人から指摘されるのは、おそらくここいらに理由がある。汗を流す芝居はしないし、事実、駄目だこりゃとなると、明らかにイナしてしまうからだ。
しかるに、玉三郎は、全身全霊をあげて自身で役をコントロールし尽す。見物のノリとは無関係に、誠実に真摯にとことんやってのけるのだ。
たしかに凄いし、素晴らしい。心底、へーーーっと圧倒されはするけれど、あまりのことに、芝居がこちらにおりてこず、舞台で空転しているように思える時もある。
多分、それぞれ別の役者が相手役を勤めた方が、今回の『加賀見山』の試みはずっと面白かったろう。
ちなみに、菊五郎劇団状態の夜の部『引窓』が、朴訥さや鄙びた風情に欠け、じんわりした義太夫味が薄いのも、あくまでもこっちの勝手な憶測ではあるけれど、『加賀見山』での不協和音のせいであるような気がする。
勝手が違う芝居運びへのとまどいが、馴れ親しんだ劇団メンバーと出会ってホッとし、サラサラ芝居に拍車をかけているように感じてならない。菊五郎はもっと違ったよさをを出せる役者のはずだ。
『日高川』の玉三郎が、菊之助の人形遣いを離れてからの方が、どことなく生き生きとしていたのも……?!
今月は、役者の生理の違いみたいなものを、やけに感じとれた月だった。
おお! それなら十分、みてきた甲斐というものがあったではないか! めでたしめでたし、である(笑)
こちらの記事も是非ご覧ください。『Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*』より
歌舞伎座『芸術祭十月大歌舞伎 昼の部』 3等A席前方花道上
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は こちら>
そうそう、そう思いますでしょ?まるさんのような「王道」は、あってくれないと絶対困りますよね。「王道」があるから、こっちはひねまがった道に行けるんだしネ!(笑)
まるさんのTBの感想を読ませていただいて、本当に暖かい感想だなあと思いました。ぽん太さんのコメント、まさしくそうだわと同感です。こういう観客としての「王道」を行ける方がうらやましいですし、そのまま行っていただきたいと思います。私も最初の頃はなんでも素直に受け止めてたのになあとちょっと反省。
私の場合、脇道逸れるのが趣味なので、と開き直ってますが、かなりクセがある感想だなあと我ながら思っているので「王道」の方の感想は逸れすぎた迷子の自分を連れ戻してくれたりします。あっ、でも脇道で迷子の仲間も時に見つけるのも楽しいです(笑)
自分なりに理由を考えてみました。
・文章が読みやすく、わかりやすい
・舞台が目の前に蘇る感じがする
・書き落としたけど、実際に舞台をみていた時「あ!」と感じたことが網羅されている
・脇や大部屋関わらず、役者さんへの愛が貫かれている
・脇含め、舞台全体をまんべんなくみていることがわかる
・芝居をみる視点が、いつもとても暖かい
だから、まるさんの舞台評を読むと、必ず発見(同じ舞台をみていれば、再発見かな?)があるし、心が暖かくなる。幸せな気持ちになれるんです。
私の場合、自分の主観であーだこーだと御託を並べる傾向が強いのですが、そういうのが実際の舞台とはかなりズレていってることを、私自身が一番よくわかっているんですよね。
で、まるさんの文章を読むと、「そうそう、そうなんだよね 本当は、私もこう思ったんだけど、素直になりきれなかったかもなぁ」と感じる。
まるさんの芝居愛、わけても役者への愛こそ、日本のお芝居を支えてきた基本の「キ」だと思うし、私にとってまるさんのスタンスは、同じく歌舞伎やお芝居好きな一人として、完全に信頼できるものなんです。
まるさんは「王道」なんですよ。
私は脇道やら回り道やらなんやらですが。
「王道」である分、癖がないように感じられて、個性的じゃないのではないか?と悩まれるのかもしれない。
でも「王道」を行ける人って、実はそんなに多くない。行ける人は、堂々と進んでほしい気がします。
おそらく、書評もそうだろうと思います。(十二月号、まだ読んでないのだけど…今日、買いますからね!>演劇界)
その本から、多くの人が「うん、わかる」「そうだろうな」と感じることをすくいとれていないと、きっと駄目だと思うんですよ。
やっぱり、愛、それも常に暖かく楽しむ、大きな愛がないと…。
私のやり方だと、「私の特殊な見解」に賛成できかねる人は、ケッ!と思うだけでしょう。
まるさんは、絶対にもっと自信を持つべきだと思いますよ。歌舞伎の歴史を体系的に調べ上げたまるさんだからこその、深い役者(幕内)愛は、決して誰にでも備わっているもんじゃないんですから…。
昔話になりますが、社会に出てまもなく、自分の無学さを痛感して通信で大学の勉強を始めたとき、高校までの勉強とはまったく違うことに愕然としました。高校までは何とかなっていたのに、手も足も出なかったんです。それまでは、習ったこと、覚えたこと、直前に詰め込んだことをとりあえずテスト用紙に書き写すことで、ただ切り抜けてきただけのことだったんですね。ところが大学では、インプットしたことを単なる材料として、自分の考えを構築しなければならなかった。そのすべが分からず、途方に暮れてしまったのでした。
最近、当時と同じトンネルに入り込んでる自分を感じています。書評もそう、芝居の感想もそう。いかに自分が表層的な見方しかできていないか。歌舞伎について自分なりに興味をもってあれこれ調べたり勉強したりしてきたはずなのに、いざ歌舞伎について表現しようと思ったときに、それらを総動員して自分なりの表現を構築することができない。というか、自分なりの表現というのがどうあるべきなのか、そもそもそれが分かっていない。悶々としてしまうのです。
はぁぁぁぁぁ~。
不思議なことで、以心伝心というのでしょうか、自分が好きでよく立ち寄っている先からTBいただいたり、コメントいただけることが多いような気がします。
歌舞伎関連の記事を書いていらっしゃる人は相当数に上ると思うのですが、これもご縁なのでしょうか…。
雪樹さんのブログはとても読みごたえがあり、今回の尾上と岩藤の考察も「なるほど~!」が満載でした。
TBは、私もまだうまくやれないことが多いのですけど、gooブログ同士ですし、いずれめでたく送れますことを楽しみにしています。
あっ、さっそくトラックバックしていただいてありがとうございます。私のほうもさっそく、と思ったのですがどうやらうまくトラックバック送信が出来ず…(涙)。またトライしてみますね。