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モツレクを歌う ~Musikfreunde "燦" 第2回演奏会~

2019年01月20日 | pocknのコンサート感想録2019
Musikfreunde "燦"の第2回公演は「モツレク」
川合良一先生を生涯の師と仰ぐメンバーが一堂に会して、大規模なオケ付き声楽曲を演奏することを目的に結成された「Musikfreunde 燦」の第2回演奏会が、ミューザ川崎シンフォニーホールで行われた。曲はモーツァルトの不朽の名作レクイエム。沢山いる好きな作曲家のなかでも最も敬愛するのがモーツァルト。そのレクイエムを「燦」で演奏できるということで、第1回の第九に続いて夫婦で参加した。合唱の練習はほぼ1年前から開始。譜読み中心の練習も含め、本番までに18回の練習を重ねて来た。

「レクイエム」って何だろう?
僕はモツレクを歌うのは初めてだし、そもそもレクイエムを歌うことが初めて。聴くのは、モツレクをはじめ多くの作曲家のレクイエムに親しんで来たが、歌ってお客さんに聴かせるとなれば、譜面に記されたことを正確に歌うことは当たり前として、それまであまり意識していなかったラテン語の歌詞をきちんと理解して、共感してお客さんに届けたい。けれど、「怒りの日」「不思議なラッパ」「御稜威の王」「呪われた者」等々、歌詞に出てくる恐ろしい言葉の数々が何を表しているのかわからない。まずはレクイエムに関する本や解説文をいろいろ読んで情報収集をした。

レクイエムとは、「死者のためのミサ曲」とか「鎮魂曲」と訳されるが、簡単に説明すればこうだ。聖書によれば、死者は世界最後の日にラッパの音を合図に復活する。しかし、この後に「最後の審判」という厳しく恐ろしい裁きが待っていて、これで選ばれた者だけが永遠の命を得ることができ、選ばれなければ地獄行き。レクイエムは、死者が「最後の審判」で救済され、永遠の安息(ラテン語で「レクイエム」という)を得られるよう、ひたすら懇願し、祈る音楽なのだ。

歌詞に出て来る怖い言葉は、どれも「最後の審判」の厳しさ、恐ろしさを表したもの。なので、レクイエム=死者のためのミサ曲=鎮魂曲からイメージする、死者の魂を鎮めるとか、亡き人を偲んで涙するという意味合いは存在しない。

「涙の日」へのイメージが変わった
このことを知るまでは、モツレクの「涙の日」という楽曲では、死者を思ってさめざめと涙する情景を思い浮かべていた。モーツァルトがこの曲の8小節目まで書いてこと切れたというエピソードや、死の床で、見守る人たちと涙を流しながら共に歌ったというエピソードは、しめやかな弔いのイメージにぴったりだ。

ところが「涙の日」とは、せっかく復活した死者を「最後の審判」が待ち受けるという過酷な運命に同情して涙する日だと知って、この曲へのイメージが大きく変わった。その上、「涙の日」はモーツァルトが死の床で書いた最後の楽曲ではないこと、その死の床でこれを歌ったというエピソードも作り話である可能性が高いことを知り、この曲へのセンチメンタルなイメージは払しょくされてしまった。僕たちが今回選んだレヴィン版では、「涙の日」に続いて大規模な「アーメンフーガ」が展開する。これは、しめやかなイメージとは相容れない。「涙の日」で歌われる、死者の救済への強い願いが、「アーメン(然り)」という言葉に凝縮され、力強く歌い上げるためのフーガだ。

モーツァルトが「レクイエム」に込めた思いとは?
モーツァルトは、フリーメーソンに入りながらもカトリック信者だったし、「黒いマントの謎の男」からのレクイエムの作曲依頼を引き受けたのは、報酬を得るためだけでなく、そのころシュテファン大聖堂の副楽長の地位にあったものの、これは無給の名誉職で、楽長の地位に就くためにアピールできる曲を作曲する意図があったと云う。そうであれば、教会が求める典礼に相応しい音楽を書くために最大限のエネルギーを注いだはずだ。つまり、モーツァルトはレクイエムを、個人的な死者追悼の思いからではなく、カトリック信者、とりわけ自分を楽長に引き上げてくれる力のある聖職者に評価される曲に仕上げようとしたはずで、それだけに、典礼文の歌詞と音楽は密接に関わっていることになる。

だから、モーツァルトがこの曲に込めた思いや意図をきちんと演奏するには、歌詞の意味をしっかり踏まえ、それを感じて演奏すべきだという思いが益々強まった。自分も含めて大部分がクリスチャンではない僕たちは、本物の信仰に根差した感情を理解することは難しいが、本来の意味を読み替えて、例えば閻魔大王の恐ろしい裁きから逃れて極楽浄土を祈ってもいいだろうし、単に死者の冥福を願うのでもいい。ただ、どんなイメージを抱くにしても、それは本来の意味を知ったうえで行うべきだと、僕は思う。これを知らずに、単に鎮魂曲としてのイメージを膨らませることはしたくなかった。この思いは、演奏するメンバーみんなで共有したいと思ったし、聴衆にも伝えたいと思った。

このため僕が担当したプログラム掲載用の曲目解説では、レクイエムとは何か、レクイエムを構成する各楽曲にはどのような意味があるか、モーツァルトはそれを音楽でいかに表現しようとしたかを、できるだけわかりやすく書くように努めた。そして、「燦」のメンバーには早めにこれを読んでもらうことにした。

決意表明
曲目解説を書き、歌詞を丁寧に読むことで、レクイエムのイメージは徐々にはっきりして来たが、何度歌っても意味を覚えられない言葉があったり、心からの共感にまで至れないところがあったりして、典礼文を自分の言葉で歌うことの難しさを克服できないまま年を越してしまった。「まあこのぐらいやればいいか…」と思っていたところに、メーリングリストで川合先生からのメッセージが送られてきた。そこには、「アマチュアだからと、甘ったれて妥協してしまうことは断固許さない」という、厳しい言葉が綴られていた。

これを読んで、できることはまだまだある、と思い直し、10日後の演奏会本番まで、言葉を自分のものにすべく全力を尽くす決意を新たにした。さらに、一緒に音楽を作り上げて行く仲間にもこのことを伝えたくて、メーリングリストに自分の決意表明を出した。本番前のゲネプロと、当日のステリハを残すだけのときだったが、何人ものメンバーから、「読みましたよ」とか、「触発されました」と云ったメッセージをもらえて、メンバーと繋がったという実感を持つことができた。

開演!
本番当日。午前中のステリハも終わり開演を迎えた。最初の曲目はモーツァルトのハフナーシンフォニーだが、合唱団は別室で発声練習。ハフナーが終わり、休憩中にステージ袖へ移動。後半開始のベルとアナウンス。いよいよ出番だ。


ステリハでソリストが合唱団のすぐ前に立つことになった。よく聴こえる!

僕は並びの位置から、合唱団で一番にステージに出ることになった。先頭でいざ出陣!1階から3階ぐらいまでほぼ満席。5階席にもかなりお客さんが入っている。オーケストラのチューニングが済み、指揮者とソリストの登場を待つ間の静寂は緊張の一瞬。川合先生がソリストと共にステージに現れ、会場は拍手に包まれる。川合先生の腕が下ろされ、モツレクが始まった。これまで練習を重ねて来た成果を全て出せるよう、そして、常に歌詞を意識して、それが自分の思いと共に客席に届くように声を上げた。オケも合唱もよく鳴り響いている。自分の声もしっかり聞こえる。演奏していることをリアルに実感。ミューザは良いホールだな~、と思う。

2階席ぐらいまでお客さんの顔が良く見える。知った顔も何人か。後ろの方は客席が暗い。客席側の照明は完全に落ちているではないか!これではせっかくの解説も、わざわざ挟み込んだ歌詞対訳も読めないではないか… 前の方では上を向いて口を開け、気持ちよさそうに寝ている人が目に入った。お客さんはどんな思いで聴いているんだろうか…等々、色々な「邪念」が交じってしまう。演奏に集中しなければ!

川合先生の指揮からは、ここでどんな音が欲しいか、言葉をどう発音すべきかなどが的確に伝わってくる。先生の視線が、何か強い力で僕たちを導いてくれる。これまでの練習を思い出すうえに、新しい波や風を送ってくれて、それが演奏に更なる生気を与えているように感じる。指揮者の存在が演奏に命を吹き込むことを実感する瞬間を何度も感じつつ曲は進む。

オーケストラも立派だ。金管とティンパニの厚みとパワーに心がビンビンと揺さぶられ、木管の歌にうっとり。とりわけ素晴らしいと感じたのは、弦の美しい音色と表情。コンマスの佐久間さんは、練習のときも実にいい顔と身振りでオケを先導していたが、そんな姿にぴったりの演奏が生き生きと聴こえてきた。ほぼ1年前から練習を重ねて来た合唱に対し、オケの方は10月から練習開始とかなり遅めだった。しかも12月になっても練習に顔を出せないメンバーもいると知ったときはビックリした。それでここまでの演奏が出来るのなら、まだまだ可能性を秘めているのに、と思う。

ソロによる四重唱もステキだ。ソリストの先生方のなかには、最初の合わせからホレボレする歌を聴かせてくれる方もいる一方で、ゲネプロでも「大丈夫?」と心配だった方もいたが、ステリハではキチンと仕上げてくれていた。本当はゲネプロでもしっかり歌って頂きたかったが…

終盤に差しかかる「サンクトゥス」で、お隣から派手なフライングが飛び出した。僕も練習でフーガの入りを間違えたことがある。自分もやっちまわないように気を付けねば!と、譜面を持つ指で拍子を数えてしまった。最後のフーガに入った。この堂々とした佇まいは何ともかっこいい。長い時間をかけてここまでたどり着いたという感慨も合わさり、歌っていてグッときた。”quia pius es”(あなたは情け深くあられるゆえ)と、最後の言葉を噛みしめて客席に届けた。終演。

「ブラボー」の一声に続き、大きな拍手。カーテンコールを繰り返すなか、川合先生が合唱団を立たせると、拍手は一段と大きくなった。うまくいったかな… とにかく成し遂げたという気持ち。熱心に拍手している人もいれば、そうでもない人も… 客席に僕たちの演奏はどんな風に聴こえていたのだろうか。

演奏会を終えて
こうして1年間に渡って積み上げて来たモツレクは終わった。「歌詞を自分の言葉で伝える」という目標は、努力したけれど「自信満々」と云えるまでには至らなかったというのが正直なところ。本来はカトリック教徒の言葉をいかに自分の思いに読み替えるか、これは簡単ではない。それと、「燦」としての意識の共有についても、まだまだやれることがあったのでは、という思いも残る。けれど、僕が最も敬愛する作曲家モーツァルトの作品でありながら、これまで自分にとって身近な存在とは云えなかったレクイエムに近づき、一生懸命取り組み、その真髄の一端に触れ、仲間との思いを少なからず共有できた意義は大きい。次の演奏会では、更なる大きな山とも云えるブラームスのドイツレクイエムをやろうという話が出ている。今回の感動と反省を踏まえ、大作に挑みたい。

[曲目解説]モーツァルト:レクイエム(プログラムより転載)

第九を歌う ~Musikfreunde "燦" 旗揚げ公演~

Musikfreunde “燦” オフィシャルブログ
♪ブログ管理人の作曲♪
合唱曲「野ばら」(YouTube)
中村雅夫指揮 ベーレンコール
金子みすゞ作詞「さびしいとき」(YouTube)
金子みすゞ作詞「鯨法会」(YouTube)
以上2曲 MS:小泉詠子/Pf:田中梢
「森の詩」~ヴォカリーズ、チェロ、ピアノのためのトリオ~(YouTube)
MS:小泉詠子/Vc:山口徳花/Pf:奥村志緒美

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