facciamo la musica! & Studium in Deutschland

足繁く通う演奏会の感想等でクラシック音楽を追求/面白すぎる台湾/イタリアやドイツの旅日記/「ドイツ留学相談室」併設

「モーツァルト 生涯とその時代」~ザルツブルクの少年時代 1756-1762(その1)

2008年11月01日 | pocknと音楽を語ろう!

ブリギッテ・ハーマン著
「モーツァルト 生涯とその時代」
(2006)より

ザルツブルクの少年時代 1756-1762(その1)


1756年1月27日、アンナ・マリア・モーツァルト(旧姓ペルトゥル)はザルツブルクで7人目の子を出産した。父はザルツブルク大司教の宮廷ヴァイオリニスト兼作曲家のレオポルド。誕生の翌日、この子はザルツブルク大聖堂で洗礼を受け、ヨハネス・クリュソストムス・ウォルフガングと名づけられた。「クリュソストムス」は1月27日の守護聖人の名に因み、「ウォルフガング」は母親の祖父でウォルフガング湖地方に住んでいたウォルフガング・ペルトゥルの名に因んでいる。更に洗礼での代父の名に因んでテオフィリウス(ドイツ語にすれば「ゴットリープ」、ラテン語では「アマデウス」となる)という名ももらった。呼び名はウォルフガングである。

ウォルフガングは体が弱く、これまでに5人の子を乳児のうちに失っている両親はこの子が生き延びられるかと心配した。この頃母親は過労のせいでお乳が出なかった。モーツァルト家のように乳母を雇えないということは危機的な状況を意味した。牛や山羊の乳では乳児が受けつけず、小さなウォルフガングは3歳になるまで水で薄めた大麦やカラス麦の重湯でしのいでいた。これは危険な栄養摂取で、こうしたことで多くの子供たちが命を落とした。ウォルフガングも成長が遅く3歳でやっと歩けるようになったほどではあったが命はつなぎとめることができた。

ヴァイオリンとピアノの先生として親しまれていた父は、長女のマリア・アンナ(ナンネル)にもレッスンをしていた。ナンネルには音楽の才能がとてもあった。お父さんと4歳年上の姉がピアノをさらっているあいだ、ちっちゃなウォルフガングはピアノの下にもぐりこむのが好きで、そこでレッスンの様子をじっと聞き入っていた。父の友人たちが来たときも同じようにしていた。その友人たちとは、宮廷トランペット奏者のアンドレアス・シャハトナー(訳注1)やその同僚たち、ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン、フルート、チェンバロなどの奏者たちだったが、彼らはゲトライデガッセ9番地のモーツァルトの住居に出入りして、作曲されたばかりのセレナーデや弦楽四重奏曲、教会音楽などをさらっていた。彼らはそんな時にピアノの下にもぐり込んでいるちっちゃなウォルフガングには気づいていなかった。

ザルツブルクの音楽家たちは皆多かれ少なかれ日々の需要に応じて器用に作曲することができた。それは大司教専属の「室内オーケストラ」が教会の祭事や修道院学校のために演奏する音楽だったが、当時はバッハやヘンデルなど往年の大作曲家の作品が演奏されることはあまり行われていなかった。その当時、ザルツブルクで最も名声のある作曲家はレオポルド・モーツァルトであり、馬の鈴や犬のほえ声やムチを打ち鳴らす音などが入った「そり滑りの音楽」や、野暮ったい民衆の踊りの「農民の結婚式」といった楽しい交響曲が有名だった。しかし主要作品はピアノソナタやヴァイオリン協奏曲、受難曲など、大司教の求めに応じた作品であり、またプライベートや音楽仲間のための多くの室内楽作品がある。
♪♪♪



ザルツブルク(1816年に初めてオーストリア領となる)は当時いくつもの小国が集まった領邦国家、神聖ローマ帝国の1つで、大司教シュラッテンバッハ伯が領主であった。ザルツブルクは後進国で、宗教的には厳格であった。モーツァルト誕生の28年前に当時の大司教がザルツブルクから全ての新教徒を追放してしまった。カトリックに改宗しようとしない者は町を追われ、長くてつらい徒歩による行列を強いられた。その数は2万人を越え、冬が始まろうとしているというのに年寄りや病人、子供達も含まれた。こうした冷酷な行いは多くの死者を出し、ヨーロッパで反乱をもたらすことになった。こうして町を追い立てられた者たちは長く苦痛を味わったが、その後プロテスタントの諸国家、なかでもプロイセンに受け入れられ、名誉を回復することとなった。

大司教区の首都、ザルツブルクは過去もそして今日でも美しい町並みで名高い。ザルツァッハ河の両岸に広がった町は山に囲まれ、バロック建築の教会や大司教の居城、市民たちの住居、それに山の上から町を俯瞰する要塞・ホーエンザルツブルク城などを擁していた。

当時の人口は約10万人、鉱石や大理石の採掘、そして何と言っても岩塩採掘や塩の交易のおかげで富を築いていた(訳注2)。大司教に仕える者たちはモーツァルトの父も含め、毎年クリスマスに大司教の製塩所から塩を贈られていた。毎朝毎夕ザルツブルクの要塞からは「ザルツブルクの雄牛」と呼ばれる巨大な自動オルガンの演奏で町に音楽が流れていた。流れる曲は月毎に替わるのだが、そのうちの6曲がレオポルド・モーツァルト作であった。そのうち、5月に演奏される「田園風メヌエット(menuetto pastorale)」と、9月の「狩の歌」の2曲は今もなお使われている。ちっちゃなウォルフガングがお父さんの曲をよく聞けるように、早い時期から山の上のお城まで負ぶわれて行っていた。

大司教シュラッテンバッハ伯はお芝居や音楽の良き理解者だった。毎日夕食の後に音楽会を行なったり、お祭りや礼拝の時に演奏する自分の小さな宮廷楽団が好きだった。

楽団員は13人で、料理を供するコックと同じで、宮廷料理長付きの従僕という扱いだった。宮廷に暮らしきちんとした教育を受けている中で、とりわけ音楽の才能に秀でた15人の子供達が、将来その宮廷楽団を引き継ぐための要員とされていた。ウォルフガングは、父親がその子たちにヴァイオリンやピアノや作曲を教えていたので、彼もその子供達を皆良く知っていた。
♪♪♪

父モーツァルトはちっちゃなウォルフガングの音感がお姉ちゃんと同じように優れているかを見極めようと気を配った。グラスや仕掛け時計の音を聞かせたり、ピアノを鳴らしたり、ヴァイオリンを弾いたりするとこの子は嬉しそうにしたのだ。そのうち姉の歌う童謡に合わせて一緒に歌うようになり、すぐにそれを覚えてしまった。

ウォルフガングの聴覚が良いことは嬉しい驚きでもあった。というのは生まれつき耳の形が歪んでいて耳の穴がちゃんと開いておらず、両親はこれを心配していたのだ。この耳の奇形については後々学者達の間で長く研究対象となっている。これがモーツァルトの飛び抜けて繊細な聴覚と何か関係あるのだろうか。天才の証しだろうか。だがこれらに相関関係は恐らくあるまい。
♪♪♪

3歳を迎えたウォルフガングに、いよいよ母親の膝からピアノへと向かう最初の第一歩を踏み出す日がやってきた。ウォルフガングは他の小さな子供がやるようにピアノをどこ構わず叩くのではなく、夢中で3度の音の並びを探して、「クックー クックー」とカッコウの鳴きまねをしてすっかりご機嫌になっているのだ。両親とナンネルはそれを見てあっけに取られ笑うしかなかった。

この頃からピアノはウォルフガングの一番お気に入りのおもちゃで、「ぼくもひきたい!」とねだった。「パパおねがい、おねえちゃんみたいにぼくにもピアノをおしえてよ!」父がピアノで何かメロディを弾くまでウォルフガングはだだをこねた。ウォルフガングはまだ手が小さくて同時にいくつも音を鳴らせなかったので、お父さんはもう少し指がしっかりするまで待たせようとしたが、ウォルフガングは言うことを聞かなかった。

モーツァルト少年の上達ぶりは目覚ましく、父はそれを誇らし気に手帳に記録した。「このメヌエットをウォルフガングは4歳でさらった。」とか「このオチビはメヌエットを夜の9時半に30分でさらってしまった。」とか。

息抜きなど必要なかった。ウォルフガングは音楽さえやっていればよく、やることなすことが音楽のことでないとダメだった。例えばお父さんの音楽仲間のアンドレアス・シャハトナーとおもちゃを別の部屋へ運んだりするとき、ウォルフガングは自分の足踏みに合わせて歌うようにせがみ、シャハトナーはそれに合わせてヴァイオリンを弾かなければならなかった。

毎晩寝る前にウォルフガング坊やは音楽のお芝居を演じた。お父さんの背丈に並ぶようにソファの上に立ち上がって、ウォルフガングが作った意味不明の歌詞(オラーニャ フィガータ ファ マリーナ ガミーナ ファ)の2声の「おやすみの歌」をこんなメロディーで一緒に歌うのだった:


これを歌い終えるとウォルフガングはお父さんの鼻の頭にキスをして「かみさまのつぎにパパがすきだよ」とか、時には「パパがおじいさんになったら、パパのことハコにいれてどこでもつれていくんだ。」とか言うのだった。箱に入れば年を取ったお父さんは冷たい風に当たらないで済むが、箱はもちろんいつでもお父さんを見れるようにガラスでできてなくちゃあいけないとのこと。モーツァルトは生涯を通して創作好きで、意味のまったくない言葉遊びが大好きだった。

父の友人達は小さな体の弱い男の子が目覚ましく上達していくのを見守っていた。きっといまにこの子は父親のようにザルツブルクで優れた音楽家になるだろうと。
♪♪♪

ある日のこと、バイオリニストのベンツェルが、レオポルド・モーツァルトとアンドレアス・シャハトナーと一緒に出来立ての弦楽三重奏曲を試演するためゲトライデ通りにやってきた。いつものように4歳のウォルフガングはそれに耳をすませていたのだが、「第2ヴァイオリンがひきたい!」と大きな声でしつこくせがんだ。シャハトナーの伝えるところによれば、父は「何をバカな、邪魔しちゃあダメだ」と不機嫌そうに頭を振ったという。すると今度はウォルフガングが不機嫌そうに(丁度反抗期に入っていた)「ひくんだってば!」と言い返す。「おまえはまだヴァイオリンを習ってないじゃないか」と言われれば、
「第2ヴァイオリンなら簡単だよ。習わなくたってできるよ。」と言ってのけた。お父さんは「いいから行ってなさい、ウォルフェル(訳注3)、いい加減お父さん達に落ち着いて弾かせてくれ。」と怒った。友人のウェンツェルはなんて躾のなってない子供かとあきれたが、この子のことが大好きな「シャハトナーおじちゃん」はお父さんに、「レオポルド、やらせてやろうよ。」と頼んだ。早く静かにさせたかったレオポルドは「それじゃあシャハトナーさんと合わせて弾いてみなさい、でも聞こえないくらい小さい音で弾くんだぞ、でなけりゃあ出て行くんだ。」と折れることになった。

小さなこの子は子供用のヴァイオリンを抱えて楽譜をのぞき、そしてまるで… というか本当に初見で第2パートを間違えずに弾いてしまった。

シャハトナーはびっくりして自分のヴァイオリンを置いて聴き入った。これは奇跡だ!ウェンツェルも弾くのを止め、そして父親も止めた。3人とも仰天してこの子を見つめた。するとこの子は機嫌を損ねて「チェッ」とお父さんから禁止されている言葉を囁いて、「ねえ、もっとやろうよ!」と言うのだった。

3人はこの日のために用意してあったそのトリオの演奏を続けた。父レオポルドがヴィオラ、ウェンツェルが第1ヴァイオリン、そして4歳のウォルフガングが第2ヴァイオリン。大人達は、この子がいったいどうやってヴァイオリンを習ったんだろうなんてあれこれ考えてしまい、ほとんど演奏に集中できなかった。そんなバカな… 何か仕掛けがあるんじゃあ… いや、やっぱり奇跡だろう、などと。

演奏し終えるとこのおちびくんは得意気にみんなを見回して、「ねっ、これでぼくがヴァイオリンできるってわかったでしょ!」と言った。それから今度はリード役で一番難しい第1ヴァイオリンのパートをやってみたいと言った。シャハトナーは「私達は面白がってそれでやってみて、笑いころげた。」と述懐した。この子はつっかえたりはせずに弾いたが、間違ったときは不機嫌になった。

4歳の子がちょっと様子を見たり聴いたりして、ちょっとさらっただけでヴァイオリンを弾いてしまうなんて驚くべきことだった。シャハトナーはこの子をじっと観察したが特筆するようなものは見つからない。容姿が優れているわけでも体格が良いというわけでもなく、むしろずっと華奢な体つきで、他の同年代の子供同様に子供っぽくてきかん坊という感じだった。だがこと音楽にかけては奇跡だった。

シャハトナーはレオポルドに大きな声で少々あらたまった調子で言った。「この子は僕らのように音楽家になるってだけじゃあなくて、このザルツブルクの誰よりも優れた特別な存在になるだろう。」と。

父は興奮と感動で涙を流した。それから突然の不安に襲われた。ごくありきたりな境遇の子をどうやって天才児として育てればいいのだろうか?レオポルド・モーツァルトはそんな特別な子供を全てにおいて正しく導くことができるだろうか? 信心深いレオポルドは自分の元でこの奇跡の子を正しく導いて行く力が授かるよう神様に祈った。

ひとつわかっていたこと、それはこの子にヴァイオリンも教えるということだ。8歳のナンネルは小さな弟の陰にどんどん追いやられてしまったが、それで反ってピアノも一生懸命にさらってびっくりするほどに上達した。嫉妬心からだったのだろうか、だがそうした態度は見せなかった。この二人のきょうだいはとにかく仲が良かった。


「ザルツブルクの少年時代 1756-1762」その2へ続く

ブリギッテ・ハーマン/「モーツァルト 生涯とその時代」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ブリギッテ・ハーマン/「モ... | トップ | バルトリ またもやのキャンセル »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

pocknと音楽を語ろう!」カテゴリの最新記事