北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の建国から現在に至るまで、日本の政治における対北朝鮮外交のあり方を規定して来たのは、タイトルに記した3つの問題~帰国事業、日本人妻の里帰り問題、拉致問題~であると言っても過言ではあるまい。
それほどに、この3つの問題は、時を変えて常に日朝間の懸案であった。そして、この問題に関わってきた人達には、あるつながりがあるように感じられるのである。
(1)北朝鮮帰国事業を推進した井上益太郎氏と萩原遼氏
敗戦後、日本に残された在日韓国人・朝鮮人の処遇は大きな問題となった。韓国は同じ資本主義国同士であるのでまだ良いが、北朝鮮とは平和条約も結ばれていない。そのような状況で、帰国希望者への「人道的配慮」で始められたのが、「帰国事業」である。
1959年に開始されて以降、1984年まで続き、帰国者の総数は99,339人に達したとされている。
当時、日本政府が自由に北朝鮮と交流できない状況で、帰国事業の実施に中心的な役割を果たしたのは赤十字社であった。
毎日新聞の「国際赤十字が乗り出す/近く代表が現地を見る/在日朝鮮人の帰国問題」と題する記事(1956.2.16)から引用する。
「日赤では今まで赤十字の立場から在日朝鮮人帰国に努力すべきであるという基本線に立って研究していたが、複雑な国際情勢下では具体的な方法が見いだせなかった...このため日赤としてはこの実情を赤十字国際委員会に訴え同委員会の出馬を要請して日、韓、北鮮三赤十字の会談によって在日朝鮮人をそれぞれの希望する国に帰す以外には方法はないと考え、昨年暮以来国際委にそのあっせん方を依頼していた」(原文ママ)
そして国際赤十字のあっせんも功を奏して、3年後の帰国実現に繋がるのである。
赤十字における、帰国事業の直接の担当者は、外事部長の井上益太郎氏であった。井上氏は、国際赤十字や北朝鮮赤十字との交渉などに精力的に当たって、帰国事業の実現に取り組んでいたようである。
井上氏が外事部長に就任したのは、55年のことである。戦前は外交官として各国に駐在し、戦後は極東国際裁判の弁護人も勤めている。外事部長に就任する直前には、外務省アジア二課で、「中共及び共産党特殊事務統括」の肩書きの嘱託職員として中国共産党研究に当たっていたという。
当時は日本で共産主義が猛威をふるっていた時期である。52年には「血のメーデー」事件が起きている。肩書きから推測するに、井上氏は、共産主義勢力への対抗のための外交政策研究を行っていたのではないだろうか。そして、その具現化したものが、北朝鮮への帰国事業なのではないだろうか。
韓国への帰国を選ばずに、北朝鮮への帰国事業に応じたのは、共産主義にシンパシーを持った人達が多かったはずだ。従って、そのような人達を北朝鮮に「帰す」ことは、当時伸張著しい共産主義勢力の力を削ぐために必要な政策であったと考えられるのである。
なお、もちろん、帰国事業対象者は何も共産主義者に限らず、出身地が北朝鮮である事から北朝鮮を選んだ人も少なくないだろうが、出身地を優先して政治体制の異なる国を選ぶ人が多いとは言えないと思う。
1962年に公開され、大ヒットした映画 「キューポラのある街」 amazonで、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国が好意的に描いているなど、当時は北朝鮮の共産主義社会を地上の楽園と捉えるメディアも多かったので、これらのメディアに触発された左翼指向の人が、帰国事業に応じるケースが多かったのではないかと推測する。
・・・・
そして、このようなメディアにおける「地上の楽園」の宣伝に一役かったのが、1972年から赤旗の北朝鮮への特派員を勤めた萩原遼氏である。
72年9月4日から連載された「平壌このごろ」という連載記事に掲載された記事を引用する。
〈男女平等の時代 完備された保育所〉
「朝鮮ではこどもは生後まもなくから託児所、4歳からの幼稚園、そして十年の義務教育から高校、大学からみんなただだ。奨学金や衣服まで国から支給されます。こども一人の保育料が、私立なら月1万5千円という日本の生活からみたら夢のよう」
このような宣伝に乗せられて、多くの人達が帰国事業に応じる事となったのであろう。なお、萩原氏が在日の人に実際に帰国を勧めたことが、別の記事で紹介されている。
(なお、本項は、張明秀氏「謀略・日本赤十字 北朝鮮『帰国事業』の深層」を元に記述している。ただし、同書の論旨とは異なる。)
(2)日本人妻の里帰り運動
北朝鮮は「地上の楽園」ではないことは、帰国者からの手紙などですぐに在日社会に広まり、帰国事業への応募者は急減し、84年には終了することとなる。
それと同時にクローズアップされてきたのが、日本人妻の里帰り問題である。日本人妻については説明の必要はないだろうが、在日朝鮮人と結婚し、一緒に「帰国」した日本人の妻が、親兄弟と会えなくなってしまったことから、日本に一時帰国させよう、という運動である。
この運動に中心的役割を果たしたのは、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会(守る会)」と、「日本人妻自由往来実現運動本部」である。
「守る会」の主要メンバーは、以下の通りである(抜粋)。
・代表 山田文明 大阪経済大学助教授
・名誉代表 小川晴久 東京大学名誉教授
〃 金民柱
〃 萩原遼 ジャーナリスト。
・事務局長 三浦小太郎
http://homepage1.nifty.com/northkorea/
萩原遼氏はこの時点では帰国事業に批判的な立場に転じ、日本人妻の里帰り運動を主導するようになったのである。
もう一つの団体、「日本人妻自由往来実現運動本部」の会長は、江利川安栄氏である。別名を池田文子と言い、統一協会の副会長を務めた人物である。統一協会の関連団体である、世界女性平和連合の会長も務めている。
この団体は、日本人妻に関する映画、『鳥よ翼をかして』(1985年)を製作するなど、この問題に深く関わっている。
なお、統一協会が反共をスローガンとして活動していることは、よく知られているとおりである。
(3)拉致問題と「守る会」
小泉首相の訪朝以降、日本人の拉致問題がクローズアップされることとなり、日朝間で大変な政治問題になったのは周知の通りである。拉致の被害に遭われた方々には、本当にお気の毒としか言いようがない。家族を突然奪われた気持ちは、想像するに余りあるものがある。
そして、その拉致問題に熱心に取り組んでいるのは「救う会」である。「救う会」についても、説明の必要はないであろう。
さて、その「救う会」であるが、会の活動に「守る会」の関係者が「協力」しているのである。「救う会」の「全国協議会ニュース(2002.5.10)」によると、当時、問題となっていた瀋陽日本領事館事件に関連して、「守る会」の三浦事務局長のことが以下のように紹介されている。
「救う会の活動に献身的に協力して下さっているRENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)役員の三浦小太郎さんからのメールを御参考まで転送します。(以下略)」
三浦小太郎氏は、守る会の事務局長であり、RENKの役員を務めつつ、「救う会」の活動にも「献身的に協力」しているのである。
なお、RENKという団体については、同ニュースで引用されている三浦氏のメールで、次のように説明している。
「(RENKは)日本の地において、北朝鮮民衆に人権の光をもたらすべく、北朝鮮の民主化支援を行なっている市民団体です。貴国(中国)領内に越境する北朝鮮難民の問題には、重大な関心を持っております。」
さらに余談であるが、三浦氏は、「現代コリア」編集部にも所属しているようである。
http://www.eshirase.net/tibet.htm
-----
以上が、北朝鮮帰国事業、日本人妻里帰り、そして拉致問題を主導する人たちの、あるつながりである。そして、これらの、一見バラバラな活動を一つに繋げるキーワードは、「反共」なのである。
それにしても、帰国事業は、多くの人達を大変な目に遭わせる結果に終わったと言えるだろう。赤十字や外務省は、真に人道的立場に立つならば、その政策決定の過程についても調査し、なぜそのような政策をとったのかについても明らかにすることが必要だと思う。
それほどに、この3つの問題は、時を変えて常に日朝間の懸案であった。そして、この問題に関わってきた人達には、あるつながりがあるように感じられるのである。
(1)北朝鮮帰国事業を推進した井上益太郎氏と萩原遼氏
敗戦後、日本に残された在日韓国人・朝鮮人の処遇は大きな問題となった。韓国は同じ資本主義国同士であるのでまだ良いが、北朝鮮とは平和条約も結ばれていない。そのような状況で、帰国希望者への「人道的配慮」で始められたのが、「帰国事業」である。
1959年に開始されて以降、1984年まで続き、帰国者の総数は99,339人に達したとされている。
当時、日本政府が自由に北朝鮮と交流できない状況で、帰国事業の実施に中心的な役割を果たしたのは赤十字社であった。
毎日新聞の「国際赤十字が乗り出す/近く代表が現地を見る/在日朝鮮人の帰国問題」と題する記事(1956.2.16)から引用する。
「日赤では今まで赤十字の立場から在日朝鮮人帰国に努力すべきであるという基本線に立って研究していたが、複雑な国際情勢下では具体的な方法が見いだせなかった...このため日赤としてはこの実情を赤十字国際委員会に訴え同委員会の出馬を要請して日、韓、北鮮三赤十字の会談によって在日朝鮮人をそれぞれの希望する国に帰す以外には方法はないと考え、昨年暮以来国際委にそのあっせん方を依頼していた」(原文ママ)
そして国際赤十字のあっせんも功を奏して、3年後の帰国実現に繋がるのである。
赤十字における、帰国事業の直接の担当者は、外事部長の井上益太郎氏であった。井上氏は、国際赤十字や北朝鮮赤十字との交渉などに精力的に当たって、帰国事業の実現に取り組んでいたようである。
井上氏が外事部長に就任したのは、55年のことである。戦前は外交官として各国に駐在し、戦後は極東国際裁判の弁護人も勤めている。外事部長に就任する直前には、外務省アジア二課で、「中共及び共産党特殊事務統括」の肩書きの嘱託職員として中国共産党研究に当たっていたという。
当時は日本で共産主義が猛威をふるっていた時期である。52年には「血のメーデー」事件が起きている。肩書きから推測するに、井上氏は、共産主義勢力への対抗のための外交政策研究を行っていたのではないだろうか。そして、その具現化したものが、北朝鮮への帰国事業なのではないだろうか。
韓国への帰国を選ばずに、北朝鮮への帰国事業に応じたのは、共産主義にシンパシーを持った人達が多かったはずだ。従って、そのような人達を北朝鮮に「帰す」ことは、当時伸張著しい共産主義勢力の力を削ぐために必要な政策であったと考えられるのである。
なお、もちろん、帰国事業対象者は何も共産主義者に限らず、出身地が北朝鮮である事から北朝鮮を選んだ人も少なくないだろうが、出身地を優先して政治体制の異なる国を選ぶ人が多いとは言えないと思う。
1962年に公開され、大ヒットした映画 「キューポラのある街」 amazonで、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国が好意的に描いているなど、当時は北朝鮮の共産主義社会を地上の楽園と捉えるメディアも多かったので、これらのメディアに触発された左翼指向の人が、帰国事業に応じるケースが多かったのではないかと推測する。
・・・・
そして、このようなメディアにおける「地上の楽園」の宣伝に一役かったのが、1972年から赤旗の北朝鮮への特派員を勤めた萩原遼氏である。
72年9月4日から連載された「平壌このごろ」という連載記事に掲載された記事を引用する。
〈男女平等の時代 完備された保育所〉
「朝鮮ではこどもは生後まもなくから託児所、4歳からの幼稚園、そして十年の義務教育から高校、大学からみんなただだ。奨学金や衣服まで国から支給されます。こども一人の保育料が、私立なら月1万5千円という日本の生活からみたら夢のよう」
このような宣伝に乗せられて、多くの人達が帰国事業に応じる事となったのであろう。なお、萩原氏が在日の人に実際に帰国を勧めたことが、別の記事で紹介されている。
(なお、本項は、張明秀氏「謀略・日本赤十字 北朝鮮『帰国事業』の深層」を元に記述している。ただし、同書の論旨とは異なる。)
(2)日本人妻の里帰り運動
北朝鮮は「地上の楽園」ではないことは、帰国者からの手紙などですぐに在日社会に広まり、帰国事業への応募者は急減し、84年には終了することとなる。
それと同時にクローズアップされてきたのが、日本人妻の里帰り問題である。日本人妻については説明の必要はないだろうが、在日朝鮮人と結婚し、一緒に「帰国」した日本人の妻が、親兄弟と会えなくなってしまったことから、日本に一時帰国させよう、という運動である。
この運動に中心的役割を果たしたのは、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会(守る会)」と、「日本人妻自由往来実現運動本部」である。
「守る会」の主要メンバーは、以下の通りである(抜粋)。
・代表 山田文明 大阪経済大学助教授
・名誉代表 小川晴久 東京大学名誉教授
〃 金民柱
〃 萩原遼 ジャーナリスト。
・事務局長 三浦小太郎
http://homepage1.nifty.com/northkorea/
萩原遼氏はこの時点では帰国事業に批判的な立場に転じ、日本人妻の里帰り運動を主導するようになったのである。
もう一つの団体、「日本人妻自由往来実現運動本部」の会長は、江利川安栄氏である。別名を池田文子と言い、統一協会の副会長を務めた人物である。統一協会の関連団体である、世界女性平和連合の会長も務めている。
この団体は、日本人妻に関する映画、『鳥よ翼をかして』(1985年)を製作するなど、この問題に深く関わっている。
なお、統一協会が反共をスローガンとして活動していることは、よく知られているとおりである。
(3)拉致問題と「守る会」
小泉首相の訪朝以降、日本人の拉致問題がクローズアップされることとなり、日朝間で大変な政治問題になったのは周知の通りである。拉致の被害に遭われた方々には、本当にお気の毒としか言いようがない。家族を突然奪われた気持ちは、想像するに余りあるものがある。
そして、その拉致問題に熱心に取り組んでいるのは「救う会」である。「救う会」についても、説明の必要はないであろう。
さて、その「救う会」であるが、会の活動に「守る会」の関係者が「協力」しているのである。「救う会」の「全国協議会ニュース(2002.5.10)」によると、当時、問題となっていた瀋陽日本領事館事件に関連して、「守る会」の三浦事務局長のことが以下のように紹介されている。
「救う会の活動に献身的に協力して下さっているRENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)役員の三浦小太郎さんからのメールを御参考まで転送します。(以下略)」
三浦小太郎氏は、守る会の事務局長であり、RENKの役員を務めつつ、「救う会」の活動にも「献身的に協力」しているのである。
なお、RENKという団体については、同ニュースで引用されている三浦氏のメールで、次のように説明している。
「(RENKは)日本の地において、北朝鮮民衆に人権の光をもたらすべく、北朝鮮の民主化支援を行なっている市民団体です。貴国(中国)領内に越境する北朝鮮難民の問題には、重大な関心を持っております。」
さらに余談であるが、三浦氏は、「現代コリア」編集部にも所属しているようである。
http://www.eshirase.net/tibet.htm
-----
以上が、北朝鮮帰国事業、日本人妻里帰り、そして拉致問題を主導する人たちの、あるつながりである。そして、これらの、一見バラバラな活動を一つに繋げるキーワードは、「反共」なのである。
それにしても、帰国事業は、多くの人達を大変な目に遭わせる結果に終わったと言えるだろう。赤十字や外務省は、真に人道的立場に立つならば、その政策決定の過程についても調査し、なぜそのような政策をとったのかについても明らかにすることが必要だと思う。