村上春樹の『村上春樹 雑文集』が文庫で店頭に並んでいたので、手に入れました。
筆頭に出てくるのは、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」という文章。
大庭健さんの『私という迷宮』という本の解説文だそうです。
その解説(のようなもの)のタイトルが上記。
やっぱり牡蠣フライじゃないか、と実に思いました。
村上春樹は牡蠣フライが好き。
きっと、九州福岡の糸島半島に冬になるとたくさん立つ牡蠣小屋なんて、行ってみたら喜ばれることでしょう。
で、今回の牡蠣フライネタは「自分とは何か」について牡蠣フライを使って語るというもの。
サイトの質問で就職試験に原稿用紙4枚で自分について説明せよ」という問題が出た、ということに対し、たとえば「牡蠣フライについて書いてみれば」という回答がなされたのです。
まさに村上春樹の名答(迷答?)ですね。
☆自分自身について書けと言われたら、ためしに牡蠣フライについて書いてみてください。
☆あなたが牡蠣ふらいについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。
それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。
それが僕のいわゆる「牡蠣フライ理論」です。
え~~。でも本文の論旨をたどれば、たしかにそうかなと、納得できるのですが。
というわけで、村上自身が見事な見本原稿を書いています。
その中から抜粋すると…
☆僕の皿の上で、牡蠣フライの衣がまだしゅうしゅうと音を立てている。小さいけれど素敵な音だ。目の前で料理人がそれを今揚げたばかりなのだ。大きな油の鍋から僕の座っているカウンター席に運ばれるまでに、ものの五秒とはかかっていない。ある場合には──たとえば寒い夕暮れにできたての牡蠣フライを食べるような場合には──スピードが大きな意味を持つことになる。
箸でその衣をパリッとふたつに割ると、その中には牡蠣があくまで牡蠣として存在していることがわかる。それは見るからに牡蠣であり、牡蠣以外の何ものでもない。牡蠣の色をし、牡蠣のかたちをしている。彼らはしばらく前まではどこかの海の底にいた。何も言わずにじっと、夜となく昼となく、固い殻の中で牡蠣的なことを(たぶん)考えていた。それが今では僕の皿の上にいる。僕は自分がとりあえず牡蠣ではなくて、小説家であることを喜ぶ。油で揚げられてキャベツの横に寝かされていないことを喜ぶ。自分がとりあえず輪廻転生を信じていないことをも喜ぶ。だって自分がこの次は牡蠣になるかもしれないなんて、考えたくないもの。
僕はそれを静かに口に運ぶ。ころもと牡蠣が僕の口の中に入る。かりっとした衣の歯触りと、やわらかな牡蠣の歯触りが、共存すべきテクスチャーとして同時的に感知される。微妙に入り混じった香りが、僕の口の中に祝福のように広がる。僕は今幸福であると感じる。僕は牡蠣フライを食べることを求め、そしてこうして八個の牡蠣フライを口にすることができたのだから。そしてその合間にビールを飲むことだってできるのだ。…
実に美味しそうです。さすがに小説家の文章はすごいなーと感心するのでした。