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易聖 「高島嘉右衛門」物語 ⑧

伊藤の承諾を得た嘉右衛門は、ト(ぼく)して「山水蒙(さんすいもう」の4爻を得た。嘉右衛門の言葉を今や遅しと待ち構えている伊藤ら政府首脳を前に、嘉右衡門はゆっくりと語りはじめた。「はるか向こうに山があって、山の手前に霞があり、朦朧(もうろう)として見分けがつかない状態それが『山水蒙』の象というものです。この卦を得るときには、いかに才知が鋭敏な人でも事を読み違えたり、方針に迷うことが多いが、卦名の"蒙"は無知暗愚をいうのではなく、幼児のようにまだ十分知恵が開発されていない状態、『童蒙』を指します」 

嘉右衛門がわざわざ基本中の基本を説明するまでもなく、伊藤ら当時の知識人にとって『易経』は通常の教養に属している。「山水蒙」の意味が何で、4爻が『易経』中にどう説明されているかぐらいは教えられないでもわかっていたが、自分たちと嘉右衛門では、その解釈において、凡と聖、地と天の隔たりがあることを知っているから、みな黙って嘉右衛門の言葉に聞き入った。

「"童蒙"なれば、よろしく"教師"について知識を啓(ひら)くべきで、教師のほうから教えてくれるのを待っていても道は開けない。『易経』に『我より童蒙に求めるにあらず、童蒙より我に求む』というのは、このことを指しています。そこで、いくら待っていても米国から賠償金返還の話はでてこないが、日本から求めれば、『志が応ずる』のです」 ここで嘉右衛門は、「山水蒙」の卦のなかにアメリカと日本の2国を見立てて話をしているのである。

すなわち、日本とアメリカ、いずれが教師でいずれが童蒙かといえば、文明国アメリカが教師で日本が童蒙になる。教師は「我より童蒙に求めるにあらず」というのだから、アメリカから賠償金返還の話はでてこない。けれども、童蒙たる日本が率直におのれの童蒙たるゆえんをアメリカに説明し、教えを請えば、「志が応ずるというのも、教師であるアメリカは、「童蒙より我に求む」るのを待っているからだと、嘉右衛門は断言したのである。

「ただし……」といって嘉右衛門は言葉をついだ「童蒙は今、4爻の時にいる。4爻の爻辞は『蒙に困(くる)しむ、吝(りん)《よくないの意》』だから、教師は応えてくれない。動いても賠償金は戻らない。しかし、明年になれば童蒙は5爻に動く。5爻はすなわち『童蒙、吉」。5爻の童蒙が2爻の教師と応じ合う。来年、米国に使者を送り、私のいうように説得しなさい。そうすれば金は必ず戻ります」 そういって嘉右街門は、いかにアメリカを説得すればよいか、その言辞まで指示をだした。それに従って、明治政府は翌年、アメリカに井上馨外務卿派遣。嘉右衛門が事前に示したとおりの道筋で賠償金の還付を成功させた。

そこで政府は嘉右衛門との約束を果たし、第2次埋め立てを行って横浜港を竣成したのである。読者は、いかに明治政界に影響力があったといっても、まさか一介の易者の言葉に従ってそんな大事を決定し、実行に移すはずなどないだろうと考えられるかもしれない。しかし、実際、こうしたことはいくらでもあったのであり、絶対的な信頼と敬意を払わざるを得ないほど、嘉者衛門の占筮は的中しつづけたのである。

今日、横浜港に「高島埠頭」と名づけられた埠頭がある。この埠頭は、この第2次埋め立て後に作られた。なぜ高島埠頭というのか、その説明は、もはや不要だろう。横浜の町を国際都市にふさわしい体裁に整え上げた最大の功労者は、高島嘉右衛門といってまちがいない。が、いかに才能があったとはいっても、江戸所払いの前科者であり、何の資金ももたなかった嘉右衛門が、わずか十数年で巨万の富と名誉・名声、さらには求めても得られそうもないほどの輝かしい人脈をもち得たことは驚異というほかない。民間人で最初に明治天皇に拝謁の栄を賜ったのも、実にこの高島嘉右衛門なのである。

なぜ、嘉右衛門はかくも異常な成功を成し遂げることができたのか。秘密は易にあった。彼は事業にせよ、ほかのことにせよ、事を起こす前には必ず易にたずねた。買うのか売るのか、進むか退くか、だれと手をつなぎ、だれを遠ざけるのか嘉右衛門は誠心誠意の祈りをこめて易にたずね、易神は嘉右衛門に応えつづけたのである。それゆえ嘉有衛門は、もうこれで実業の仕事は十分と見切った明治9年、45歳の若さで突如として実業界からの引退を声明し、残りの人生を易に捧げる決心をした。

嘉右衛門がそのまま実業界に残ったなら、三井、三菱といった大財閥と遜色のない高島財閥を築き上げただろうという点で、衆目の意見は一致していたが、嘉右衛門にその意欲はなかった。後進に事業を託すと、彼は高島台の広大な邸宅内に作った「神易堂」に籠り、悠々白適の易三味の日々に入ったのである。これは誇張でも何でもない。日本は嘉右衛門のいったとおりに発展したし、日本の命運を左右した清・日露の戦争や、その他の国際問題の帰趨も、嘉右衛門の易断から外れることはなかった。(後略)

最終回へ続く

●「日本神人伝」不二龍彦著 学研刊 より抜粋掲載

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