今からだいぶ前のことだが『日月神示』を読んだことがあった。その中で何故か印象に残った言葉があった。今手元に資料が無いので少々曖昧な記憶であるが。それは確か「英語を話すとイシヤのようになる」という内容であったと思う。イシヤとはフリーメーソン(元は石工)のことである。
その神示の意味するところが良く分からなかったのだが、森眞由美(著)の「足立育朗と語る」を読んでいてピーンとひらめくものがあった。
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『万葉集』には「惟神(かむながら)言挙(ことあ)げせず」と記されている。また同書ではわが国のことを「言霊の幸(さきは)ふ国」とも表現している。「言挙げ」とは、「声に出して言う」とか「理論だてる」という意味である。古代の人々は言葉には霊力が宿ると考えた。それゆえに普段から軽々しく言葉を口にしてはいけないと考えてきたのである。言葉に宿る霊力を言霊(ことだま)という。祝詞とはその言霊の力を最大限に生かし . . . 本文を読む
私の家庭は父が神道、母は仏教の熱心な信者ではあった。幼い頃から当然のように神仏に触れる機会が多い環境に育ったのだが、苦しい時の神仏頼み以外に神社仏閣を訪れることもなかった。神仏に強く惹かれ始めたのは、精神世界やスピリチュアリズムを深く知るようになってからである。
内外のスピリチュアリズム関連の書物を読み漁って、ようやく正しい霊的真実を理解できるようになった時、はじめて神道に関する書物を読んだ。そ . . . 本文を読む
三週間近くブログの更新をさぼってしまった。度々ご訪問いただいている方々にはお詫びを申し上げなければならない。
さて、その間何をしていたかというと、読経三昧ならぬ祝詞三昧の日々を送っていた。神職さんが神前に奏上する、あの祝詞である。わが国の神道は自然崇拝であって、教祖や開祖が存在しないので教義がない。したがって祝詞は仏の教えを説くお経等とは本質的に異なるものである。端的に言えば思いや願い、日々の感 . . . 本文を読む