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易聖 「高島嘉右衛門」物語 ⑥

●実業家としての活躍

放免といっても、嘉右衛門には「江戸所払い」という付帯条件がついており、江戸で再起をはかることはできない。佃島をでた嘉右衛門は次なる活動の拠点として、牢獄に入る以前に「肥前屋」の屋号で商売を行っていたことのある横浜を選んだ。完全なゼロからの再出発ではあったが、もともと大きな信用を築き上げていたことに加え、その人徳と類い希な知略がものをいって、嘉右衛門はたちまち横浜で頭角を現しはじめた。

高島屋材木店を興した嘉右衛門が最初に得た大仕事は、攘夷を唱える幕末の志士によって焼き打ちされたイギリス公使館建設の仕事であった。これを首尾よくやり遂げた嘉右衛門は、英公使パークスから「日本一の大工」の折り紙を得る。これ建築を独占した。ふたたび猛然と仕事に没頭する日々が始まった。佃島をでてから4年の歳月がたちまち流れた。慶応4年(1868)、江戸は東京と改められ、明治の幕が開いた。

ここから先の「事業家」としての嘉右衛門の活躍は、まさに驚異というしかない。
明治9年以前、つまり実業から退く前に嘉右衛門が成し遂げた仕事をこく簡単に列挙しよう。「異人館」の建築はすでに挙げた。次に嘉右衛門は全国の「灯台建築」の元請けになった。さらに、横浜最大の旅館「高島屋」を建てその経営にあたり、この仕事を通じて明治政界の大物と次々に昵懇になった。嘉右衛門と親しく交わり、占筮を求めた者に、三条実美、木戸孝允、大久保利通、副島種臣、大隈重信、井上肇、伊藤博文らがおり、なかでも明治の元勲として最も大きな仕事を果たした伊藤博文との親交は終生続いた。伊藤の長男・博邦の妻は嘉右衛門の長女たま子である。

さらに嘉右衛門は、「横浜港の埋め立て」というとんでもない大事業を実現した。当時、埋め立てによってできた広大な町は"高島町。および"嘉右衛門町。と呼ばれたが、それはこの事業が、まさに嘉右衛門という一個人の業績だったことを示している。この2つの町名のうち、嘉右衛門町は残っていないが、高島町のほうは、東横線に今もその名をとどめている。桜木町駅の隣の高島町駅は、高島嘉右衛門の高島なのである。

また、これより先、日本初の「鉄道敷設の願書」をだし、政府に決意させたのも嘉右衛門なら(横浜港埋め立て地がその敷地になった)、日本初の「ガス会社」を興し、横浜にガス灯を作ったのも嘉右衛門の業績であった。文明開化の象徴たるガス灯の灯は、嘉若衛門によって点じられたのである。ほかにも嘉右衛門は、人民教育のたまの「高島学校」を私費を投じて創設し(この学校は3年後に無償で横浜に寄付)日本船による「定期航路」(東京・函館間)を開き、「北海道開拓」に乗り出すなど鬼神も逃げ出す勢いで次々と時代の最先端を行く開化事業を展開していったのである。

こうした経歴を読むと、この人物が、通常世間で侮蔑的意味合いをこめていわれる「当たるも八卦当たらのも八卦の"易者"の親玉だったとは信じられないに違いない。東京と並ぶ日本屈指の大都会に発展した横浜だが、その横浜市にしてからが、嘉右衛門の業績と易者という後年の生き方にある種のギャップを感じているらしいことは、嘉右衛門に関する資料を調べるために横浜の関連施設を訪れた際、如実に感じられた。大事業家としての高島嘉右衛門については顕彰するが、易に関しては、いわば嘉右衛門の"余技"として、あまりかかわらずにおこうといった姿勢が見て取れたからである。

しかし、これら実業家としての八面六腎の活躍も、嘉右衡門がその折々に啓示を受けつづけてきた易占抜きには、まったく考えられない。そのことは、当の嘉右衛門自身が何度も語っている。そうした例は枚挙にいとまがないが、ここでは横浜港の第2次埋め立てに、易がどのように重大な役割を果たしたかを紹介しておこう。以下のエピソードは、通常の歴史菩では絶対に書かれることがなく、また、学校で教えられることもない歴史秘話中の秘話である。


次回へ続く


●「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」 より抜粋

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