●的中は、神からの啓示のたまもの
(中略)
易に何らかの"答え"が現れる理由については、さまざまな解釈がある。それらのなかには、客の顔色を読みながら答えを一定方向に誘導していくものにすぎないといった卑俗な見解もある。易の神秘を味わったことのない哀れな解釈だが、嘉右衛門一代の行跡を読めば、こうした見方がいかに皮相的で浅薄なものであるかが知れるはずだ。それら〃童蒙〃の人士は、よろしく『高島易断』をひもとき、道をたずねるべきだろう。
こうした論外の見解とは別に、易者の無意識の反映という解釈や、巧みな推論を的中の理由に挙げる意見などがあるが、嘉右衛門は生涯、「神なる者、これを視て見えず、これを聴きて聞こえずといえども、人よくト筮をもって事を問えば、一々示し告げざることなし」(『高島易断』)として、的中は神からの啓示のたまものだという立場を信奉しつづけた。
それゆえ嘉若衛門は、卦を立てるにあたっては、「妄念雑慮を絶ち、至誠もってこれを求むる」ことを絶対条件とし、万一、「一毫の妄念をその間にはさむときは、たとい十有八変(筮竹を18固にわたって捌いて卦を得る最も厳密な「本笠(ほんぜい)法」を指す)するも、あに鬼神のこれに感通するの理あらんや」と戒めたものである。
こうした立場を貫いた嘉若衛門が、私心、欲心のまじる売トを嫌ったのは当然だった。単に欲心によって判断を誤るだけではなく、「空中に彷徨して、災いを為し、変を為す」ところの「遊魂(邪霊)」と感応して、大は国家から小は個人の人生までを狂わす可能性が生じてくると考えたからである。
ところが今日、高島易断の名で水子の祟りなどを吹聴し、高額の金品を得ている組織・易者も多数存在する。高島嘉右街門の名誉のためにぜひともいっておかなければならないことだが、それら組織や高島姓は、嘉右衛門とはいかなる関係もない。
それらは、嘉右衛門の名を利用して自身の商売に利用しようとした者たちの勝手な名乗りであり、高島家が嘉右衛門の号である「呑象」の継承を認めた弟子は、15~6歳のころから嘉右衛門の身辺で仕え、親しく教えを受けた児玉呑象氏ただひとりなのだということを、ここでお断りしておく。
明治39年に足腰を悪くして以未、嘉右衛門は9年間、寝たままの生活を続けた。有力者や弟子・門人の訪問はひきもきらなかったが、嘉右衛門は彼らに易を説きつづけて止むことがなかった。
そして大正3年ーーー夏の暑いさかりの一日、嘉右衛門は当時日本一の観相家といわれた桜井大路の訪問を受けた。よもやまの話から、話題は嘉右衛門自身の死期に移った。嘉右街門は桜井に向かい、死期をいかに読むかと問うた。はじめは口を濁した桜井だったが、天下の易聖に「正直におっしゃるよう」と促されると、もはやあいまいな返答はできず、やむなく、「あと3か月の御寿命と鑑定いたします」と返答した 「よきかな一言や」嘉右衛門はほほえみながら桜井をほめ、手文庫から自らの位牌を取りだした。そこには「大正二年十月十七日没享年八十三歳」という文字が、嘉右衛門自身の手で記されていた。
そしてまさしくその年、その日、嘉右衛門は波欄に富んだ数奇な一生を終え、従容として易神のもとへと旅立ったのである。
「完」
●「日本神人伝」不二龍彦著 学研刊 より抜粋掲載
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