やぎのブログ(日記編)

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大地震から1年~3月11日の記録前篇

2012-03-11 23:21:00 | 日記
2011年3月11日14時46分…私はこの場所で大きな地震に襲われました。これはGoogleのストリートビューの画像です。間もなく大津波に襲われる宮城県気仙沼市に入るところでした。

今回は一年前の3月11日のことを書いてみます。

その日は午前中は仙台市内でいつものように仕事をしていました。夕方から気仙沼で泊まりの仕事があったので、昼に一度荷物を取りに自宅に寄りました。自宅にいた妻と2人の子供と昼食をとりました。2日前の3月9日に三陸沖でマグニチュード7.3の地震が起きたばかりだったので、宮城県沖地震が来るかもしれない、そのときは近くの指定避難所に避難をして、状況が安定するまでは自宅には戻らないように、そう言い残して自宅を出ました。13時頃のことです。

気仙沼に出張の日はいつも、新幹線で一ノ関駅まで向かい、そこから気仙沼まで車に乗せてもらっていました。そして帰りはJR気仙沼線でゆったりと仙台に帰っていたものです。帰りの気仙沼線は車窓が美しくいつも楽しみで、三陸南部のリアス式海岸を走り、山の中のトンネルを通ってかと思えば大海原が広がり、次々と変化する景色を見ながら進みます。仙台までは2時間半程かかりました。気仙沼駅でお菓子と飲み物を買って、海岸を走る前半はお菓子をつまみながら車窓を楽しみ、内陸に入ってから後半はぐっすりと眠る、というのがいつものパターンでした。次の日は晴れそうだったので、きっと綺麗な海が見えるはずと期待していました。震災が起こり、その期待は裏切られることになり、あの後現在までのところ南三陸町には足を運ぶ機会がありませんでした。気仙沼市の大谷海岸駅や南三陸町の歌津駅等、あの美しい風景が失われてしまったことが残念でなりません。

気仙沼へ行くのはかなり久しぶりでした。実は気仙沼への出張の予定は自分で決めたものでした。誰がどの日にどこに出張するか、みんなの予定を決めるのが私の役割でした。今考えてみれば、その日の気仙沼への出張を他の人にお願いしていなくてよかったなと思います。もし他の人を行かせていたら、その人にもしものことがあったらと、責任を感じていたはずですし。

そんなわけで、13時59分、私は仙台駅からやまびこ59号盛岡行きに乗り込みました。いつもと変わらない新幹線。14時13分、途中の一ノ関駅で降りました。運命のあの瞬間の30分前のことです。その後、乗っていたやまびこ59号は各駅へ停車しながら終点の盛岡駅を目指していましたが、14時41分に終点一つ手前の新花巻駅を出た後、東北地方太平洋沖地震により緊急停車することになります。東北新幹線の仙台駅~一ノ関駅間は地震による損傷が特に激しく、4月29日の運転再開まで1か月半を要し、その間東北地方をつなぐ大動脈が失われることになりました。また、私が乗ったやまびこ59号よりも後の下り新幹線は、何れも一ノ関駅にたどり着くことなく、地震に遭遇しました。やまびこ59号は震災前に一ノ関駅に予定通り到着した最後の新幹線でした。

平日の昼過ぎですから、一ノ関駅で降りる乗客はそれ程多くはありませんでした。一関市からは車に乗せてもらって気仙沼街道を通り、気仙沼市へと向かいました。なぜ同じ宮城県の気仙沼に行くのに、一度岩手県の一関市まで行くのかと不思議に思われるかもしれませんが、地図を見て頂くと気が付くと思います。気仙沼市は宮城県から北へ飛び出した場所にあり、まっすぐ内陸へ向かうと岩手県一関市なのです。

車の中では、ラジオをつけながら、一緒に乗って運転していた方と話しながら気仙沼へと向かっていました。気仙沼までは1時間弱かかります。話題は2日前の地震についてのことになりました。3月9日に三陸沖で起きた地震でも、東北地方の太平洋沿岸には津波注意報が出されました。気仙沼にも実際に数十cmの津波が来たそうです。数十cmというと、そんなのほとんど気が付かないくらいのレベルじゃないか、と思ってしまいます。しかし、高さは低くても波の押し寄せるエネルギーは結構強いらしく、沖で営まれている養殖漁業等は影響を受けるのだというのです。なるほどそういうものかと聞いていました。三陸沿岸は、1年前の2010年2月28日にも、遠く南米チリで起こったマグニチュード8.8の地震で発生した津波に襲われ(気仙沼では1.8m)、漁業は深刻な被害を受けていました。今年もまた悪い影響が出るのではないかと、漁師の方々が心配していると聞きました。

実はこの1年前のチリ地震津波の際、気象庁は青森・岩手・宮城3県の太平洋沿岸に大津波警報を発令していましたが、実際に到達した津波は予想より小規模で、気象庁が謝罪するという出来事がありました。もしかしたら、大津波警報が出されても実際にはそんなに大きな津波は来ないとか、気象庁はかなり大袈裟な数字をいつも発表するから慌てなくてもいいだとか、そういった意識があの日沿岸部の人々の心の奥底にはたらいたのではないか…後になって考えればそんな風に思ってしまいます。2011年3月11日の大地震の後、当初は宮城県沿岸が6m、岩手・福島県沿岸が3mの予想が発表されましたが、実際には最大40mという巨大津波が襲ってきました。

そして…

一関市中心部から気仙沼市中心部までのおよそ半分くらいまで来たところで、その時を迎えました。14時46分です。

車に揺られながらでしたから、最初は気づきませんでした。
恐らく運転していた方が、実際運転している感覚と振動との「ズレ」を感じたかもしれません。
運転していた方が「ん?」という表情をした時、私も異変に気づきました。
突然ラジオから緊急地震速報が聞こえてきて、携帯電話も緊急地震速報を受信しました。
しかしその時には既に、車が上下に弾むような小刻みな縦揺れをはっきりと感じていました。
この時にちょうど走っていた場所が、上のストリートビューの画像の地点です。
画面の左端を見ると、小さな橋の上にいるのが分かるかと思います。
橋が落ちるかもしれないという不安もあり、とりあえず10m程先の橋を渡り切ったところで、車を左に寄せて止めました。
車が止まるよりも前に、巨大な横揺れが始まりました。
ここまで実際には数秒しかなかったと思いますが、一瞬の出来事を鮮明に記憶しています。

本震の揺れは、これまで経験したことのない、そして想像したこともない程の強い揺れでした。
そして、ゴォーという不気味な低い音が続いていました。
私は後部座席から、助手席のシートにしがみ付くようにして外の様子を伺っていました。
道路の左側にトヨタカローラの店舗があります。
そちらの方からミシミシ音がするので目をやると、外に展示されている車がアスファルトの上をわずかながら動いていて、お互いにぶつかるんじゃないかという感じでした。
そして上方に目を転じると、信号機がしなりながら右へ左へと揺れているではありませんか。
そこへ、驚くことに右側の道路から猛スピードで乗用車が交差点に進入し、右折して向こうの方へと走り去っていきました。
気が動転していたのか、何なのかさっぱり分かりませんが、発狂したドライバーが追突してくるんじゃないかと、後ろの方も気になりだしました。
「この揺れの大きさは…。」
徐々に収まるかと思った頃、再びさらに強い揺れがやってきました。
電柱が揺れる度に、電柱と電柱との間の電線はピンと張ったりたわんだりを繰り返していました。
「長いな」ともう一人の方が言いました。


私が地震に襲われた場所は、震度6弱程度だったようです。関東地方でも場所によって6弱でしたから、同じくらいの揺れだったかもしれませんが、震源が間近だったため、最初の縦揺れ、そして緊急地震速報からは、本震までほとんど時間がありませんでした。あれがマグニチュード9.0の地震だったんですね。

ようやく揺れが落ち着き、車を動かし始めました。すぐに千厩地区の中心部を通りましたが、見える範囲では大きく崩れた建物は見当たりませんでした。ガラスが散乱し、塀が崩れ、瓦屋根が落ちる等の光景、水道管が破裂したのか、道端で水が溢れ出す様子が見えました。

車はさらに気仙沼へと走っていきました。つづく…

大地震から1年~3月10日の記録

2012-03-10 23:28:55 | 日記
この写真は東北地方太平洋沖地震から9ヶ月後に撮影したJR仙石線の野蒜駅ー陸前小野駅間にある、鳴瀬川にかかる鉄橋です。あの日から電車が通ることはありません。いつも電車に乗ってあそこの上を何気なく通っていたんだなと思うと、不思議な感じがします。

前回に引き続き、自分の身の回りの震災の記録です。

2011年3月10日、その日は仕事のため宮城県石巻市へ出張でした。震災が起こる前までは毎週のように通っていて、いつもJR仙石線を利用していました。その日は寒い朝でしたが、割と天気はよかったと思います。

私はいつも始発駅のあおば通駅から乗車していました。だいたいいつも3両目に乗っていたのですが、同じ時間の同じ車両に乗っているとお馴染みの顔も多いものです。今になって、「あのおばちゃんは今頃どうしているのか」「あの学生はどうやって毎日通学しているのか」と思うことがあります。

朝の仙石線は通勤・通学の乗客で溢れます。仙台へ向かう上り列車程ではありませんが、下り列車にも沢山の乗客が乗っていました。仙石線の駅は仙台市内だけでも10駅あり、仙台市中心部と郊外の地域を結ぶ役割もあります。仙台市の地下鉄は現在南北線しかないので、西の仙山線と東の仙石線は毎朝混みあいます。仙台市を出ると、日本三景の一つである松島湾が見えてきます。そこからは海のすぐ近くを走っていきます。特に陸前大塚駅の辺りは線路のすぐわきが太平洋で、その日も穏やかな海原を眺めながら通り過ぎたことを覚えています。今や、その辺りは不通区間となり、陸前大塚駅の先は大幅なルート変更が決まっています。あの線路を通るのも、その日が最後になるとは思ってもいませんでしたから、ウトウト居眠りをしながら乗っていました。松島湾を望む陸前大塚駅を過ぎると、東名、野蒜と列車は走っていきます…翌3月11日に野蒜~東名間で緊急停止した車内から近くの野蒜小学校へ避難した乗客のうち数名が、小学校で津波に巻き込まれて亡くなりました。あのような恐ろしい出来事の後では、前日の穏やかな電車の中でのことなど遠い夢の中のようにさえ思えてきます。

東松島市の辺りでは通学の学生が多く乗り込み、車内が賑やかになります。鹿妻駅の辺りでは近くに航空自衛隊の松島基地があり、いつも戦闘機が近くを飛んでいました。飛行機の音を聞くと「もうそろそろ石巻だな」と目を覚ましていたものです。

石巻で夕方まで仕事をしていましたが、その間何度も体に感じる余震がありました。職場の方に聞くと、やはり前日の3月9日の地震では、石巻のかなり大きく揺れたそうです。

再び仙石線の駅に着いた時、既に辺りは暗くなっていました。職場から、学校から帰宅する人達を乗せた列車が、いつものように走っていました。

現在仙石線は、あおば通~高城町間と、矢本~石巻間の運行が既に再開され、今月17日には陸前小野~矢本間が1年振りに運転を再開します。しかし、陸前大塚~陸前小野間はルート変更の方針となり、その間にあった東名駅と野蒜駅は駅の移転を余儀なくされますが、具体的な移設先は未定で、仙石線の運転再開までには数年を要するでしょう。現在、松島海岸~矢本間は、もともとの仙石線の停車駅のすぐ近くを通る代行バスによる運行が行われています。しかし、列車に乗って途中バスに乗り換えて、さらに列車に乗り換えるため、仙台と石巻の間は1時間50分程かかるようになってしまいました。震災前は1時間強でした。JRは仙石線の代わりに石巻線と東北本線を小牛田駅経由で直通運転する列車を用意しており、仙台と石巻を1時間強で行き来できるようになりましたが、1日わずか1往復しかありません。高速バスも1時間半程で仙台と石巻をつないでいますが、片側1車線の三陸自動車道の混雑が激しく、時間帯によっては2時間半程かかります。下の写真は昨年12月に撮影した東名駅です。津波の後、瓦礫で覆われ、線路もひっくり返っていましたが、既に片づけられ、線路も何もなく、ホームだけが虚しく残されています。周囲に辛うじて残っている家々も、壁に空いた穴を通して向こう側の景色を見通せるような状態です。しかし、このような中でも、代行バスに乗っていると、学校に通う生徒達がここで乗り降りしています。一日も早い仙石線の復旧を願います。


大地震から1年~3月9日の記録

2012-03-06 19:45:29 | 日記
東北地方太平洋沖地震からもうすぐ1年になろうとしています。
ご無沙汰しています。管理人のやぎです。
「震災から1年」という表現を使わないのは、未だに原発事故が収束せず、放射線の風評被害がさらに被災者を追い詰めている現状では、震災は現在進行中だと思うからです。

幸いなことに、私は震災の前と変わらない生活を送ることができています。
そんな中、自分の中であの時の記憶を風化させないために、見たこと、体験したことを少しばかり記してみようかと思います。
今日から少しずつ思い出しながら取り留めもなく書いてみます。



今回は、話を3月9日から始めたいと思います。

2011年3月9日、私は仙台で仕事をしていたときでしたが、足元から地響きのような振動を感じました。
「地震?」と思い、隣にいた上司と何となく目が合った時、やや強い横揺れが起こりました。

その頃妻は、息子とまだ生まれたばかりの娘を連れて自宅まで歩いて帰る途中だったようですが、気づかなかったということです。
マンションに着いて、「結構大きな揺れでしたね」と管理人さんに話しかけられるまで知らなかったそうです。

私は仙台に約10年住んでいます。
「宮城県沖地震」…約30年周期で起こる大地震がいつ来てもおかしくないという意識はありました。
宮城県でなくとも、日本に住んでいればいつどこで大きな地震に襲われてもおかしくないのですが、殊の外宮城県は地震に対する意識は高かったと思います。
震災前も、宮城県の夕方のニュースでは、毎日24時間以内に起きた地震の震源の立体分布図が紹介されていました。
また、宮城県北部地震や岩手宮城内陸地震等、近年大きな地震を度々経験していました。
我が家でも、災害時の「避難持ち出し袋」やその他の防災用品を準備していました。
実際に避難の際、そしてその後の生活の中で非常に役に立ったし、逆にこういう準備もすべきだったという反省もありましたが、それについては後程…。

実はこの少し前、自宅マンションの同じ階で火災が発生したと警報が鳴ったことがありました。
結果的に誤報だったのですが、とてもよいシミュレーションになりました。
当時は高層階に住んでいたので、子供2人を連れて階段で降りたのですが、こうした状態で運び出せる荷物の量には限界がありました。
そして、子供とともに、自宅前の駐車場の車の中にとりあえず避難したのですが、東北の冬は寒い!!!
避難袋の中身をもう一度見直し、車の中にも防寒具や食料等を置いておくことにしました。

3月9日の地震の後、何度か弱い余震を感じました。
「宮城県沖地震が来るかもしれない」
大きな地震が来たら、ガス漏れや漏電等でマンション火災が起こる可能性もあります。
火災報知器誤作動の際の体験で、子供を連れて部屋を往復するのは困難だと痛感したので、もしも大きな地震が来たら避難所で様子を見ようと妻と話し合いました。
3月9日の地震は、来たる11日の大地震に備えるよい機会となりました。
まさか巨大地震の前震だったとは思いもよりませんでしたけど。