この写真は東北地方太平洋沖地震から9ヶ月後に撮影したJR仙石線の野蒜駅ー陸前小野駅間にある、鳴瀬川にかかる鉄橋です。あの日から電車が通ることはありません。いつも電車に乗ってあそこの上を何気なく通っていたんだなと思うと、不思議な感じがします。
前回に引き続き、自分の身の回りの震災の記録です。
2011年3月10日、その日は仕事のため宮城県石巻市へ出張でした。震災が起こる前までは毎週のように通っていて、いつもJR仙石線を利用していました。その日は寒い朝でしたが、割と天気はよかったと思います。
私はいつも始発駅のあおば通駅から乗車していました。だいたいいつも3両目に乗っていたのですが、同じ時間の同じ車両に乗っているとお馴染みの顔も多いものです。今になって、「あのおばちゃんは今頃どうしているのか」「あの学生はどうやって毎日通学しているのか」と思うことがあります。
朝の仙石線は通勤・通学の乗客で溢れます。仙台へ向かう上り列車程ではありませんが、下り列車にも沢山の乗客が乗っていました。仙石線の駅は仙台市内だけでも10駅あり、仙台市中心部と郊外の地域を結ぶ役割もあります。仙台市の地下鉄は現在南北線しかないので、西の仙山線と東の仙石線は毎朝混みあいます。仙台市を出ると、日本三景の一つである松島湾が見えてきます。そこからは海のすぐ近くを走っていきます。特に陸前大塚駅の辺りは線路のすぐわきが太平洋で、その日も穏やかな海原を眺めながら通り過ぎたことを覚えています。今や、その辺りは不通区間となり、陸前大塚駅の先は大幅なルート変更が決まっています。あの線路を通るのも、その日が最後になるとは思ってもいませんでしたから、ウトウト居眠りをしながら乗っていました。松島湾を望む陸前大塚駅を過ぎると、東名、野蒜と列車は走っていきます…翌3月11日に野蒜~東名間で緊急停止した車内から近くの野蒜小学校へ避難した乗客のうち数名が、小学校で津波に巻き込まれて亡くなりました。あのような恐ろしい出来事の後では、前日の穏やかな電車の中でのことなど遠い夢の中のようにさえ思えてきます。
東松島市の辺りでは通学の学生が多く乗り込み、車内が賑やかになります。鹿妻駅の辺りでは近くに航空自衛隊の松島基地があり、いつも戦闘機が近くを飛んでいました。飛行機の音を聞くと「もうそろそろ石巻だな」と目を覚ましていたものです。
石巻で夕方まで仕事をしていましたが、その間何度も体に感じる余震がありました。職場の方に聞くと、やはり前日の3月9日の地震では、石巻のかなり大きく揺れたそうです。
再び仙石線の駅に着いた時、既に辺りは暗くなっていました。職場から、学校から帰宅する人達を乗せた列車が、いつものように走っていました。
現在仙石線は、あおば通~高城町間と、矢本~石巻間の運行が既に再開され、今月17日には陸前小野~矢本間が1年振りに運転を再開します。しかし、陸前大塚~陸前小野間はルート変更の方針となり、その間にあった東名駅と野蒜駅は駅の移転を余儀なくされますが、具体的な移設先は未定で、仙石線の運転再開までには数年を要するでしょう。現在、松島海岸~矢本間は、もともとの仙石線の停車駅のすぐ近くを通る代行バスによる運行が行われています。しかし、列車に乗って途中バスに乗り換えて、さらに列車に乗り換えるため、仙台と石巻の間は1時間50分程かかるようになってしまいました。震災前は1時間強でした。JRは仙石線の代わりに石巻線と東北本線を小牛田駅経由で直通運転する列車を用意しており、仙台と石巻を1時間強で行き来できるようになりましたが、1日わずか1往復しかありません。高速バスも1時間半程で仙台と石巻をつないでいますが、片側1車線の三陸自動車道の混雑が激しく、時間帯によっては2時間半程かかります。下の写真は昨年12月に撮影した東名駅です。津波の後、瓦礫で覆われ、線路もひっくり返っていましたが、既に片づけられ、線路も何もなく、ホームだけが虚しく残されています。周囲に辛うじて残っている家々も、壁に空いた穴を通して向こう側の景色を見通せるような状態です。しかし、このような中でも、代行バスに乗っていると、学校に通う生徒達がここで乗り降りしています。一日も早い仙石線の復旧を願います。