WEB PENGUIN CLUB

♪結成39年 無派閥臍曲がり演芸ロックバンド、ペンギンクラブ公式ブログへようこそ!!♪

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その18 『ザ・バンドと私』

2007-09-01 12:13:47 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
ザ・バンドという一見ふざけた、よく考えると不遜なほど大胆極まりない名前のバンドの音を初めて聞いたのは、一体いつのことだったのか、今となっては定かではありません。
ただそれまでに聞いていたロックとは明らかに違う、だけどロックには違いないという不思議な感情を抱いたことだけは憶えています。
それは私が彼等を聞き始めた当時、カントリーやフォークに関心がなかったからかも知れません。
しかし高校時代のジャズの呪縛からは辛うじて逃れ、ブルースの扉に恐る恐る手を伸ばし始めてはいました。
ですから余計に「ジャンル分けが出来ない」感覚というものを味わっていたのでありましょう。
私が彼等に惹かれた一番の理由は、「ぶれ」の心地よさでした。
歯切れ良く正確なカッティングやリズム、完璧なハーモニーやテクニックがもたらす感動とは対極にある音楽。
うねるリズムに絡みつくボーカルとギター、およそロックには縁遠い寂しく不安定なハーモニー、そして遠くの方で全体を包み込むような怪しいキーボード。
楽譜では表しきれないんじゃないかとおぼしき音楽の「ぶれ」に、私は激しい興味を抱きました。
そのうち彼等の繰り出す音の中には、ありとあらゆるジャンルの音楽がしっかり入り込んでいることに気が付きました。
そしてそれぞれのジャンルへの私の関心が深くなるにつれ、彼等の音楽の凄さがひしひしと迫ってきました。
ある時、アメリカのルーツミュージックを知り尽くした楽曲を紡ぎ出した彼等の中に、アメリカ人はたった一人しかいないことを知りました。
ザ・バンドへの興味は、その曲だけではなく、メンバー個々へも拡大していったのです。
皮肉なことに、全メンバーが揃ってステージを踏む姿を初めて見たのは、『ラスト・ワルツ』という解散コンサートのドキュメンタリー映画でした。
しかし、様々なジャンルのゲストのバックを平然と勤める彼等に、底知れぬ力を感じたのも事実です。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その17 『サム・ブッシュと私』

2007-09-01 12:09:19 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
あれがいつ頃の話だったのか思い出せないのですが、ジャズが気になりだした頃なので、多分高校生のあたりだったんでしょう。
そう、FM放送をテープに録るエアチェックなんてことがポピュラーだった時代です。
NHKーFMの番組はDJが少なくて、レコード片面そっくりオンエアーをよくやっていたので、エアチェック好きには欠かせないものでした。
お目当ての番組が始まる少し前から用意して聞いていると、不思議な音が流れてきました。
先ずカントリーだなとは思いましたが、聞き覚えのある曲です。そうだ、『A列車で行こう』じゃないか。
ジャズのスタンダードが、何だかユーモラスで明るくて、とっても楽しそうに聞こえました。
ジェスロ・バーンズというマンドリン奏者のレコードと知って、私は慌ててレコード屋さんに問い合わせました。
そのレコードによって、私は初めてブルーグラスという音楽を知りました。
そして「マンドリンの天才少年」という魅惑の紹介をされていた、サム・ブッシュを知ったんです。
「天才少年」という響きが良いじゃありませんか?
私は先ず彼の肩書きに惚れました。そのままブルーグラス熱は本格化しませんでした。
しかしさらに数年の紆余曲折を経てカントリーを聞き始めた頃、あの名前が甦ってきたんです。
彼は格好いいミュージシャンになっていました。フィドルも弾けば歌声も渋い。
しかも自分のアルバムだと選曲のセンスが良いんです。
ブルーグラスというよりカントリーアレンジのリトル・フィートやボブ・マーリーを聞くと、原曲にはない新たな感動があります。
ジャンルにこだわるというのは、意味がない。そんなものに束縛されない。
好きなものは好きだと、サム・ブッシュは軽やかに教えてくれたのです。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その16 『NRBQと私』

2007-09-01 12:05:07 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
醜悪なラブホテルが林立する渋谷円山町に佇むオンエアー・ウエストに入ると、やけに高いステージの中央で、ホーナー社製のクラビネットがスポットライトを浴びていました。
この楽器がこんな上等な扱いを受けることはありません。
この感動的なセッティングこそがバンドのイメージとポリシーを余すことなく象徴し、彼等を知る者は頬が弛み、胸が高鳴るんです。
NRBQ、ニュー・リズム&ブルース・カルテットの初来日ステージは、こうしてスタートしたのでした。
NRBQの曲はどれも短く、2分半ほどで殆どの作品が完結します。
私が初めて意識して聞いた『ミー・アンド・マイ・ボーイ』もその例外ではなく、その上ポップでキャッチーで明るく、耳馴染みも最高でした。
しかしレコードを聴くうちに「こりゃ、違う」と思いました。耳障りが良いのは最初だけ、良く聞くとエキセントリックでパワフルなロックバンドであることが分かりました。
ユーモアに包んだ反骨精神、野暮と粋をすれすれで綱渡りするセンス。
とりわけリーダーでキーボード弾き・テリー・アダムスのトリッキーな音作りが、私の音楽魂を揺らしたんです。
彼がかき回すと、バンドは一気にアクセルを踏み込みます。
その緩急強弱の妙、醸し出す雰囲気が、ただのロックバンドとは全然違っていました。
オーソドックスな曲はどれ一つとしてなく、時にはアバンギャルドともいえそうな実験まで、平気でやってしまいます。
そして、その主役ともいえそうなのが、クラビネットだったのです。
彼等のライブは聞きしにまさるものでした。
短い曲を何十曲も立て続けに演奏し、レパートリー300曲以上という全米有数のライブバンドの底力を見せつけました。
会場で耳にした「奴等はわざと売れないことをしている」という噂に、男気のようなものを感じて、私は呆然と円山町を後にしました。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その15 『ニック・ロウと私』

2007-09-01 12:00:05 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
私がパブロックという言葉を知ったのは、いつの頃でしょうか。
突如エルヴィス・コステロが黒縁眼鏡で登場した時かも知れないし、怒りに震えたグラハム・パーカーを聞いた時かも知れません。
でもパブロックという言葉をその響きから勝手に妄想した時、銀髪をなびかせたニック・ロウおじさんこそが相応しいと、その頃もそして今も思っています。
こてこてと脂ぎったところがなく、手短で軽く、あっさりさっぱり2分半みたいな感じ。
ポップなんだけど100%ポップではないし、かといって英国名物どんよりロックな風もない。
どこか粋な、斜に構えた、「別に大ヒットしなくてもさ・・・」的な奥床しさ。
分厚く埋め尽くさない、すかすかした音作りも、お茶漬けの味って趣ですよね。
分厚い音楽に慣れちゃうと、ちょっとした隙間がとっても恐くなります。
とにかく埋めたい。音をちりばめたい。音自体もアタッチメントを目一杯かけて太くしたい。
それがダメなら、せめて大音響で誤魔化して・・・そう、音を一杯使って誤魔化そうとしていたんです、たぶん。
ところがニック・ロウは小編成で、しかもオルガンなんかペラペラサウンド。それがくどい音に逃げていた私を直撃したんです。
メロディーラインも美しくて、ローズ・オブ・イングランドとか、あのコパトーンのCMに使われた曲とか、思わず口ずさみたくなる歌ですよ。
あれは渋谷公会堂だったでしょうか? ギターとドラムのみを連れてのライブ。
ベースを弾きながら歌うニック・ロウの格好いいことといったら! 
途中、生ギター一本で歌ったりもしたんですが、ロックなんですよ、これが。
ギター一本で、シャウトすることもなく、それでいてロック。
パブロックの神髄を見たような気がしました。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その14 『ジョン・デンバーと私』

2007-09-01 11:55:36 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
今でこそ「音楽狂」と胸を張って宣言出来ますし、かつてのような頑なな特定ジャンル崇拝もないので、何でも「好きなものは、好き!」と言えますが、若い頃はそう素直になれません。
自分の音楽性を正当化し、音楽歴を美化することに躍起になっていた、お恥ずかしい時代もありました。
例えば「初めて買ったレコード」「初めてファンになったアーチスト」「初めてコピーした曲」「初めて行ったコンサート」・・・。
もう旧石器時代のことなので、記憶が薄らいでいるのも事実ですが、懸命に消去しようとしていた若気の至りが、マジで功を奏してしまった可能性もあるんですね。
因みに記憶にある限りの初体験は、レコード=タイガース、ファン=麻丘めぐみ、コピー=チューリップというラインナップが、走馬燈のように頭を過ぎります。
そして初めて見た外タレコンサートが、ジョン・デンバー武道館ライブでありました。
外タレもなにも、多分初めて行ったコンサートであったと思います。
あれは確か高校2年の頃、誰かが行けなくなって、チケットを買ったのだと思いますよ。
実は当時、ジャズというものに惹かれ始めており、「ブルーノートという音階がある」ことを知って驚愕していた最中でもありました。
ですから本来ならカントリー系の音楽に耳を傾けるなどということは、あってはならないはずなんですね。
しかしながら、折しもジョン・デンバー全盛期、入ったことのなかった武道館、初コンサート・・・それらの要素が私の心をぎゅっと掴んだのでした。
あぁ、今思い出しました。確か映画『トミー』を見たのも、高校時代ですよ。
世界一喧しいロックと透き通る声のフォークと粋なジャズのメロディーが、私の頭の中でどのように鳴り響いていたのか、そして、「ジャズファン」という建前をどう取り繕っていたのか・・・
ジュラ紀のいたいけな音楽体験であります。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その13 『ブルース・ブラザースと私』

2007-09-01 11:49:49 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
元来ブラスロックに興味はなかったんです。
ジャズのビッグバンドは大好きだけど、それ以外のジャンルでホーンセクションが入る音楽に、特別の思い入れはありませんでした。
しかし1980年、私の概念を根本から覆す事件が、スクリーンを通してやって来ました。
映画『ブルースブラザース』の登場です。
格好悪い白人コンビが時代錯誤の衣装を身にまとい、大真面目でR&Bに命を賭ける。
これ以上野暮な設定はありませんよ。
しかし伝統あるコメディーの壺を的確におさえ、本格派のカーチェイスを惜しげもなく盛り込み、適材適所の豪華なキャスティングで武装した鉄壁の構え。
そこに散りばめられた名曲の数々は、映像と共に私の全身に染み渡っていったのです。
ロードショウ公開以来、一体何度映画館に足を運んだことでしょう。
都内でかかっている小屋があれば、少々の遠出は何のその。
あのシーン、あの人々、あの音楽が聞きたくて、私は出掛けて行きました。
ブルースブラザースバンドの面々は名うての強者ですから、悪かろうはずがありません。
彼等の演奏を繰り返し聞くことで、映画同様、「ツボを外さない」アレンジの気持ちよさを実感したんですね。
やろうと思えばもっと凄いことも出来るけど、それを敢えてやらない。それがかえって実力の証にもなる。
当時の音楽界にあっては野暮かも知れないアナクロかも知れない。でもここまで徹底されたらグーの音も出ませんよ。
ただ単にレコードだけが発売になったら、ここまでの人気もなかったろうし、私の熱中度もヒートアップしなかったでしょうね。
しかし完成度の高いステキな映像と共に現れたことが、私の気持ちを一気につかみましたね。
MG'sを激しく聞き直し、キング・カーチスのレコードを漁り、「あんなバンドになりたい」と羨望の眼差しを送り続けたのでした。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その12 『ジョージ・ハリスンと私』

2007-09-01 11:44:48 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
結局何故私はあの4人の中で、ジョージが一番好きになったのでしょう? 
映画『ハード・デイズ・ナイト』の中でファンの大群に追いかけられ、すっ転んだからか、『ヘルプ』の中で一番素敵な部屋に住んでいたからか・・・
確かなことは、彼が作る音楽に惹かれただけではないということであります。
J&Pの如く抜群の才能とカリスマ性と歌唱力を持つわけでもなく、みんなに愛される通人タイプのRでもありません。
才人と大人にはさまれた青年、それが私の感じるビートルズのジョージでございました。
姑息な位に売れ線のメロディーラインを自由自在に操る技も、自らの存在そのものを表現手段にしようとも思わない、ベラベラ喋るよりは黙ってる人、それがジョージでありました。
でもそのうち、この人ほど色んな意味で野心とか欲とかに無関心な人はいないんじゃないかと思い始めました。
彼のギターは弾きまくりというよりはリフの延長、ボーカルさえも全面に出し過ぎません。
何かを突出させることなく、トータルサウンドを常に考えているんです。
音楽以外のガーデニングやカーレース、映画製作においても、自分を決して表面に出さない。
主夫宣言もしなければ学校の先生もしない。それでいてラトルズに顔を出したかと思うと、ウィルバリー兄弟などと名乗ったりするんです。
きっとジョージこそがあの4人の中で一番頑固で自分に厳しく、私達一般ピープルから一番かけ離れた存在だったんですね。
で、多分ジョージはいつも祈っていたんです。インドの神様か音楽の神様か自然の神様か分かりませんが、祈っていたと思います。
繰り返しの多いメロディーラインも、独特のスライドギターも、その一環だと思うんです。
91年の来日公演で見た彼の姿は、ミュージシャンなどというジャンルを超えた気配をたたえておりました。(合掌)

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その11 『アルバート・コリンズと私』

2007-09-01 11:39:10 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
私がアメリカから通販でレコードを買うきっかけになったのは、アリゲーターのLPに入っていた一枚のハガキでした。
冗談半分でカタログ請求をしたら、マジで送られてきたのです。
レコードよりノベルティーが気になった私は、Tシャツやブロマイド、スタジャンやステッカー等を注文しまくりました。
注文品もさることながら、そのレコードが割れないよう、パッキン代わりに詰められた地元の新聞やチラシを眺めるのも楽しみのひとつなんですよ。
何度かそんな買い物を繰り返したある日、例によってアリゲーターから小包が届いたので、勇んで開けると数枚のレコードとパッキンがドッサリ出てきました。
そのパッキンがどうも何かのポスターなんです。
破けないようにそーっと開いてみたら、ギターを持った三人の黒人ミュージシャンがでっかく写っていたんです。
その三人こそ、デビューしたてのロバート・クレイと、渋々ジョニー・コープランド、そしてアルバート・コリンズその人でした。
その写真一発で、私はアルバート・コリンズの虜になってしまったんです。
あのぶっとい音と、それに負けないぶっとい声。特にややアップテンポなブルースナンバーのエネルギ?全開プレイは、痛快そのものでしたよ。
そして数年後、彼は遂に我が日本国にやって来ました。そう、彼のステージも渋谷ライブイン。
PAの調子は悪く、前座風に弾いた女性ブルースギタリストも最悪。
困ったなぁと思っているところに、あのジャケットと同じ白いギターを抱え、御大が登場しました。
そして挨拶代わりにチョーキング一発!いきなり弦を切りました。
嬉しかったです。レコードから感じたエネルギーは本物でした。
PAの具合なんか屁でもなく、張り替えられたギターを親の仇とばかりひっかくアルバート・コリンズは、その音と声で私を縛り上げたのでありました。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その10 『スタッフと私』

2007-09-01 11:33:21 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
そもそも何故バンドをやる時、ギターを2人にし、インストの曲ばかり作ったのか? それはひとえにスタッフを真似たかったからなんですね。
ああいう音楽がやりたい、ああいうグルーブ感が味わいたい、それだけを思ってペンギングラブは始まったのでした。
そう、グルーブ感。うねって弾んで一丸となる瞬間の楽しさを、私はスタッフから学んだといって過言ではありません。
特にかのリチャード・ティーの紡ぎ出す音に、どんどんかぶれてしまいました。
クロスオーバーとかフュージョンとかいう音楽が全盛だった時代、メリハリのあるリズムに格好良いメロディーライン、バカテクな楽器演奏が、我が国を席巻していました。
楽器屋みたいにシンセを並べたキーボード、アタッチメントで足の踏み場もないギター、何かといえばチョッパーするベース、シンコペーションだらけのドラム、気障なホーン。
しかしそれらはジャズばかり聞いていた人、ロック一辺倒だった人も惹き付けました。
その中でもスタッフの音は独特でしたね。ジャズやロックの香りよりも、R&Bの雰囲気を色濃く漂わせていたのです。
テクニックを全面に押し出さないで、バンドトータルのうねりを醸し出すセンスが、他のバンドとは一線を画していました。
メンバーはいずれも手練れの百戦錬磨。やろうと思えば何でも出来そう。でもそれをしない。
当時の他のバンドが血気盛んな若者なら、スタッフは酸いも甘いも知っている大人に感じました。
今となっては恥ずかしい程真似をした当時の私にとって、彼等の3枚のレコードは、音楽の道標であったのかも知れません。
でも今スタッフを聞いて痛切に思うのは、ゴードン・エドワーズのもこもこベースの威力です。
一見一番テクがなさそうな彼こそが、強者達をR&Bコーティングしていた気がしてならないのです。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その9 『ギャビー・パヒヌイと私』

2007-09-01 11:26:45 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
私はくじ運がありません。というよりギャンブルの才能が無いと言った方が正しいでしょう。
しかしたった一回だけ、人様に自慢出来る賞品をゲットしたことがあるんです。
それが何とハワイ旅行、忘れもしません池袋サンシャインビル内のショッピングセンター・アルパのナンバーくじでありました。
恐らくこれで私の一生分のくじ運を使い果たしたのだと思います。
とにかく私は、今は無きパンナム太平洋便に乗り、正月明けのふぬけたワイキキの町に立ったのでありました。
このくじを引き当てたことで運を使い果たした私らしく連日雨が降り、滞在中は一度も海に入ることなく、町を歩き買い物をし、ぼんやりバスに乗る日々でありました。
当時はまだ日本上陸していなかったタワーレコードに行き、レコードを漁ってはほくそ笑んでる毎日でした。
そして帰国前日、帰りの飛行機で聞くためのカセットを物色していたんです。
カットアウトコーナーでべらぼうに安いロックの名盤をかき集めた後、思い立ってハワイの音楽テープを買おうと思いました。
タワーにはジャンル別のベスト10アルバムコーナーがあって、ちゃんとハワイの棚もあったんです。
そこから数本を選び、ふと脇を見ると、ハワイアンのカットアウトコーナーに、ライ・クーダーの文字を見つけました。
この人はハワイアンにも手を出すのかとそのカセット、ギャビーバンドもついでに買ったんです。
こうして私はギャビーと出会いました。モダンなリズムとコード展開、甘い歌声、初めて聞くスラッキーギターとスチールギターの素敵な音色。
ギャビーはそれまでのハワイアンに対する私の偏見を一気に吹き飛ばしました。
そこからピーター・ムーンを知り、%4のハワイ音楽遍歴が始まりました。
そしてその翌年、ギャビーのレコードを探すため、私は再びハワイに降り立ったのでした。