WEB PENGUIN CLUB

♪結成39年 無派閥臍曲がり演芸ロックバンド、ペンギンクラブ公式ブログへようこそ!!♪

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その8 『ドクター・ジョンと私』

2007-09-01 11:20:29 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
『ガンボ』は私の音盤人生でも、最大のエポックメイキングな一枚でありましょう。
ロックでもR&Bでもなく、泥臭くも洗練されてもいない。
愉快なリズムを叩き出すドラムに、耳新しいホーンアレンジ。
コロコロと心地よく転がるピアノをバックに、酒灼けしたような濁声が絡みつくんですよね。
野暮と粋を行ったり来たりしながら、マック・レベナックことドクター・ジョンは、私の音楽世界を駆逐していったのであります。
2枚組かと見まごうばかりの豪華なジャケットと彼自身による素敵な解説。
この非の打ち所のないレコードを皮切りに、私は彼を追いかけ始めたんです。
昔は輸入レコード屋のカットアウト盤コーナーの王者でしたねぇ。
ジャケットの隅が切られたり、酷い物では中心近くに穴が明けられたレコード、よくみかけました。
こうして私は、彼によってニューオリンズ音楽の存在を知ってしまったのです。
セカンドラインの格好良さ。プロフェッサー・ロングヘアーのジャンピングピアノ。ジェームズ・ブッカーの鬼気迫るキーボードワーク。
幾多のブラスバンド達は、ドクター・ジョンを引っ張り上げたら一緒にずるずると繋がって現れたのでした。
今は亡き渋谷のライブハウス・ライブインが、彼の生音に接した最初です。
ユーモラスで悠長なイメージのある歌声に比べて、彼のピアノテクニックは、レコードで聞く以上のインパクトがありました。
どうしたら、あんな風に弾けるのだろう? どうしたら、あんなメロディーラインが出てくるのだろう? どうしたら、あんな生きた音が出せるの
だろう?
そのうち彼の音楽への憧れは、彼自身への憧れに変化していきました。
来日を重ねアルバムを重ねる毎に、私はその音や風貌から彼自身の人生を感じ取ろうとし始めました。
もうスマップやモーニング娘等のアイドルを血眼で追い掛ける子達を笑いません。
私のドクター・ジョンへの感情は、殆ど追っかけと変わりませんから。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その7 『ラストワルツと私』

2007-09-01 11:14:12 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
近頃池袋西武百貨店のBGMで、『ラストワルツ』が良くかかるんです。
映画を見た時は大した曲ではないと思っていましたが、こうして聞いていると、映画の一部始終が走馬燈の如く甦り、ひとりトイレで涙するのでした。
あの映画によって、私は、それまで音と写真でしか知らなかった人々が動き歌う姿を確認出来ました。
動くヴァン・モリソン、動くロニー・ホーキンス、動くジョニ・ミッチェル、動くマディー・ウォータース・・・そして動くドクター・ジョンによって、私のピアノ人生も変わっていったのです。
しかし一番ショックを受けたのは、綺羅星の如く登場するスターの十八番を次々と演奏するザ・バンドの、底知れぬ音楽性に対してでありました。
カントリー、ブルース、R&B、ジャズ・・・それらが渾然一体となって現れる音楽、それがロックというものなのかも知れません。
気障なロビー・ロバートソンはいただけませんが、メンバー各自のバックボーンをもそこはかのなく教えてくれた、それがこの映画でした。
そして、思えば『ラスト・ワルツ』は、私が初めて初日徹夜で並んだ映画でありました。
先着50人にロビーのサイン入りポートレートが貰えるという特典に目が眩んだのも否めない事実ですが、リアルタイムでつきあえる最初の音楽ドキュメンタリーへの過剰な期待が、そうさせたとも言えましょう。
当然のように一番乗りをした私達は、暫くしてやってきた男に留守を頼み、夜食を食べに深夜の町を歩きました。
帝国ホテルの真ん前の映画館から最短距離の店、今の場外車券場にあった吉野家新橋店に向かったのです。
時はあたかも1978年、その日を境に私は今もって吉野家の牛丼を食べていません。
そしてその2年後、私はLAのライブハウスで、リック・ダンコとリチャード・マニュエルのライブを見たのであります。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その6 『デビッド・リンドレーと私』

2007-09-01 11:09:20 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
私が有楽町よみうりホールでデビッド・リンドレーを初めて見た時の笑劇・・・いや衝撃は、忘れることが出来ません。
確かに彼のアルバムは、レゲエのリズムが積極的に取り入れられ、明るく楽しいものばかりです。
あらゆる弦楽器を操り民族音楽にも精通している点で、確かにライ・クーダーと相通ずるものもありますが、リンドレーの突き抜けた明るさは、聞く者をにこやかにします。
しかしステージに現れた彼は、私の既成観念を見事にうち砕いたのです。
先ずあのどうしようもなく派手な衣装。
あの時は確か原色のジーンズに理解不能な柄のシャツ、それもテロテロのシャツだったと記憶しています。
更に恐ろしいことに、ステージの中央には、堂々とフェンダーのスチールギターが鎮座ましましていたのです。
彼はそのスチールを、まるでハードロックギタリストの如く弾きまくり、その結果私の頭の中に「スチールギター凶暴説」がしっかり植え付けられたのでした。
その後彼は、ある時はライと共に、またある時は娘も連れて、更にまたある時はパーカッショニストと私の前に現れましたが、あのよみうりホールでの、スチールギターを自在に操るキング・オブ・ポリエステルの姿が、同行したイアン・マクラガンの格好良い中年不良振りと共に、脳裏を離れません。
そして昨年、彼は再び手練れのパーカッショニストと来日しました。
白髪の増えたもみあげに年月を感じましたが、後頭部から発するが如き親不孝の声と確かなテクがユーモアのオブラートに包まれ、それは幸せなひとときを味わいました。
そしてライブ終了後、いきなり彼自身の発案でサイン会が行われました。
僕はサインを貰いながら「あなたの音楽も大好きだけど、あなたのファッションも好きなんです」と言いました。
デビッド・リンドレーは、ペンを置くとニヤリと笑って、私の右手をぎゅっと握ってくれたのでした。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その5 『モンキーズと私』

2007-09-01 11:04:02 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
私のいたいけなる子供時代、モンキーズとは単にテレビドラマの名前だと理解していました。
登場するのは、モンキーズの役をやっている役者だと思ったんです。
あの頃はアメリカのコメディードラマが沢山あり、みんな私のお気に入りでした。
魅惑的なデイビー・ジョーンズが歌うテーマに乗って、お間抜け4人組がルーティーン・ギャグを繰り広げる姿を、私は欠かさず見ていたものでした。
劇中で流れる彼等の曲は、輝くアメリカって感じでした。
ロックもポップスも分からない日本人の子供でも口ずさめる滑らかなメロディーライン。
英語の歌詞は、聞こえた通りに出鱈目で歌ったもんです。
デイドリーム・ビリーバーのイントロなどは、一回聞いただけですぐピアノで真似しました。
恐ろしいことに、それは今でも弾けますが・・・。
モンキーズが光っていた日々は短く、あっという間に私の中から離れていってしまいました。
でも一番好きだったマイクことマイケル・ネスミスだけは、何となく心に残っていました。
リッスン・トゥー・ザ・バンドのマイク、長沢純が吹き替えをしていたマイクです。
カントリー・ロックの先駆けとも言えるファースト・ナショナル・バンドのレコードはCD化されたんでしょうか? 
映像作家となってからの作品を見ると、モンキーズ時代からどこかクールでシニカルな役どころだったのは、きっと「地」だったんだろうなと再確認出来ます。
改めてモンキーズを聞くと、あんな短期間に良い曲が目白押しだったのに驚きます。
アメリカン・ポップスの伝統を受け継ぎ、なおかつチョビットですがロックに目覚めた彼等の主張も点在してます。
ライノから出ているモンキーズのベストは、その素晴らしい解説も相まって、彼等が再評価に値するアーチストであることを私に教えてくれました。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その4 『植木先生と私』

2007-09-01 10:54:25 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
私のバンド生活に決定的な影響を与えたバンド、つまりスタッフ、ザ・バンド、ブルース・ブラザースに勝るとも劣らない、いや別格として燦然と輝くのが、ハナ肇とクレージーキャッツであります。
彼等は私を、いともたやすく音楽を使って笑わせ、一方で音で笑わせる楽しさと難しさを、私に提示したのです。
音楽として一流でなくては、それを笑いに転化することは出来ないんですね。
そして笑いはリズムであることも、私は教わりました。
中でも植木等のパワーとテクニックには、脱帽というより瞠目せざるを得ません。
プロの歌手は、日常会話の声とは違う「歌う声」を持っています。
逆に地の喋り声のまま歌うのは素人と、私は考えます。
彼の声はとても美しいクルーナー系で、その上歌いながら声を爆発することが出来る凄い歌手なのです。
喜怒哀楽を完璧に声に反映させられる、特に笑いながら歌うその声は感動に値しま
す。
『これが男の生きる道』などは、まさにキング・オブ・ボイスの教科書と言って過言ではありません。
通は谷啓に走ると申しますが、私はもうあの声から離れられませんでした。
歌うという根元的な目的は「神を呼び、神に祈る」寿ぎのパフォーマンスでしょう。
とすれば、彼のはまさに寿ぎの声の持ち主に違いありません。
数年前、突如彼が大ブレイクしたことがありました。
私はミーハーな親衛隊の如く、彼を追いかけました。
彼があるコンサートでフルアコ・ギターを弾き始めた時、私は目頭が熱くなりました。
普段でも姿勢が良い植木が、ギターを抱えた途端、背筋が更にピーンと伸びたのです。
そして正当派ジャズギタリストのスナップで弦を押さえ、弦を弾きました。
そこには笑いの王者でも歌手でもなく、ミュージシャン植木等がいたのでした。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その3 『ライ・クーダーと私』

2007-09-01 10:43:26 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
その昔、『今夜は最高』という音楽バラエティー番組が、土曜日の夜にありました。
そのスポンサーであるパイオニアのカーステレオのCMに、スライドギターに絡みつく何とも物憂げな声が印象的なBGMが流れていました。
その曲が場末のニューヨーク的な映像に、ぴったりフィットしていたんです。
私はすぐその曲が収められているレコード『スライド・エリア』を買いました。
これがライ・クーダーとの出会いです。
彼が取り上げる楽曲は古い。
それをある時はロック、ある時はフォーク、時にはソウルフルな味付けをして、私に聞かせてくれましたね。
以来、彼は私のルーツ音楽探検の先生になっていきました。
暗くスローテンポな曲よりも、明るくリズミカルな曲に使うスライドギターが、とっても新鮮でした。
彼を聞けば音楽の旅が出来ることを発見した私は、クレジットに彼の名があるレコードを、片っ端から探しまくりました。
結果、私の音楽指向は、蜘蛛の子を散らす如く無秩序に拡大し、芋蔓式にいくらでも出現する楽しい音に、次第に財政的恐怖を感じました。
テックス・メックス、ケイジャン、ハワイアン、ラグタイム、ジャイブ…。
ああ、どうしてくれよう。いくらお金があっても足りないではありませんか!
更にまずいことに、彼は私にとんでもない人を教えてしまいました。
奇才にしてキング・オブ・ポリエステル、デビッド・化け物・リンドレーその人であります。
常に真面目で学究的なレイに対し、「これ、良いじゃん」というリンドレーの音楽に対するアプローチが、その風貌と共に私を虜にしていきました。
その顛末については、『リンドレーと私』に続くでありましょう。
いつになるかはわからないけど・・・

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その2 『オスカー・ピーターソンと私』

2007-08-26 13:50:11 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
男女共学に嫌気が差した私が、校舎全体が更衣室臭い男子校の高校に入った時、音楽人生最大の事件が勃発しました。
私以上にピアノのセンスか無い妹が購入したポピュラーピアノの教則テープを何気なく聞いていた私は、遂にブルーノートという音階に遭遇したのです。
普通の完全音階がまるで魔法の如く、大人の哀愁が漂うジャージーでブルージーな音に変身するのです。
多感な年頃の私は恥も外聞もなく、「世の中はブルーノートだ」とさけびました。
それまでポロポロ弾いていたフレーズは、この日を境に一気に変わっていったのでした。
その時目の前に現れたのが、オスカー・ピーターソンその人でした。
その豪快にしてスィングするピアノ、何より凄まじいスピードに、私は惚れました。
ブルーノートを知ったばかりの私にも、彼のメロディーはズンズン侵入してきたのです。
何が凄かったって、両手でユニゾンしながら、恐ろしいスピードでアドリブを取るところでしたね。
そこでいきなりモンクに走らなかった素直な心を褒めてほしいですよ、まったく。
慌てて『ミーツ・オールド・フレンズ』みたいなレコードを買って、一杯の共演者を取っ替え引っ替えつつバリバリ弾きまくるピーターソンに、私は憧れを抱きました。
彼が所属していたヴァーヴというレーベルを、絶対的な信頼を持って攻めました。
カウント・ベイシーやエラ・フィッツジェラルド、ジョー・パス達の心地よいリズムとメロディーに、高校生の私はメロメロでありました。
油井正一やイソノカツオじゃなかったイソノテルオ、青木誠のFMを聞き、「ジャズ以外の音楽はハナクソだ」と宣言してしまいました。
ブルーノートの発見は、新たな音楽を私に与え、と同時に私の周りにバリアを張ってしまったのでありました。

隊長のエンヤコラム 音楽家と私 その1 『ビートルズと私』

2007-08-25 13:02:53 | 隊長のエンヤコラム 音楽家と私
私は中学生の時、ビートルズと出会いました。
当時の私は、幼稚園に行く前から習っていたピアノと小学3、4年の頃にやっとのことで別れ、5線譜もト音記号もバイエルもツェルニーも、ピアノに係わる全てをまるで宿便を洗い流すかの如く捨て、平和な音楽生活に浸っている真っ最中でありました。
その静かな日々をビートルズはレット・イット・ビーという卑劣な飛び道具を携えて、私の心に入り込んできたのです。
バカ盛りの中学生の耳に、あの印象的なピアノの前奏が響きわたったのでございます。
「ポールは偉い!」迂闊にも私は思ってしまいました(名誉のために申し上げておきますが、今はジョージが好きです)。
その日から私は、ビートルズなしでは生きていけない体になってしまいました。
レディー・マドンナはどうやって弾くのだろう? ハロー・グッドバイにピアノが入ったら変だろうか?
数年間開くことのなかった我が家のピアノの蓋が、ビートルズによって開いてしまったのです。
私は直ちに科学合奏隊・ヌルの一員となり、放課後の音楽室を占拠する輩となりました。
音楽室では飽きたらず、我が家の狭いピアノ部屋を練習場にいたしました。
そして、ビートルズをやってやってやりまくり、遂には彼らに捧げる歌まで作ってしまいました。
今思えば微笑ましいというよりは、空恐ろしい日々でありました。
世間には沢山の音楽があるということが分かったのは、私が高校生になってからです。
それによってようやくビートルズは、まるで憑き物が落ちたように、私から離
れていきました。
いや、そうではありません。ビートルズがonly oneではなく、one of themだと
見れるようになったのです。
ビートルズはまるで麻疹か水疱瘡のように私を手玉に取り、駆け抜けていきました。
しかし単なる通過儀礼として、跡形もなく消え去ったのではありません。
一生消えない水疱瘡の痕として、私の中に残り続けていくのであります。