WEB PENGUIN CLUB

♪結成39年 無派閥臍曲がり演芸ロックバンド、ペンギンクラブ公式ブログへようこそ!!♪

人に歴史あり その8 『ウクレレブラザースの巻』

2007-09-16 13:30:40 | 人に歴史あり
バンドの隊長・高野は節操なくどんな音楽にも首を突っ込む男だ。
十年余り前から急にネイティブなハワイミュージックにも傾倒するようになった。
そのうちプロのミュージシャン宅に出入りするようになり、遂にはハンドメイドのウクレレを入手するに至った。
手の小さい彼にはギターよりウクレレが向いている。
弾けば弾く程その魅力に引き込まれ、密かにバンド作りを画策し始めた。
そこで白羽の矢を立てたのがボーカル・小野木である。その理由はただひとつ、家が近いことであった。
高野は楽器好きの小野木をそそのかしてカマカのウクレレを買わせた。
更に昔からパーカッショニストに憧れていたベースの深山を連れ込んだ。
中学2年からベースを弾き続け、いささか飽きが来ていた深山は、渡りに舟とやってきたのだった。
こうして色物系ハワイアンバンド、ウクレレ・ブラザースが誕生した。
やるのはオリジナルとカバーの2本立てとした。カバー曲は、彼等の少年時代に聞いた歌謡曲。
それをハワイアン風かつお笑い風にアレンジすることにした。
先ず手掛けた黛ジュン『天使の誘惑』は、途中に3大テノールが参加する。
気を良くした彼等は桜田淳子『幸せのリボン』もレパートリーにする。
オリジナル曲の構想は、高野がバンドを作る前から持っていた。
それは、山手線の各駅を順番に歌っていくというバカバカしいにもほどがある計画だ。
間抜けな企画に燃える彼は、直ちに上野・御徒町の歌「魚肉ソーセージの唄」を作り上げた。
無謀にもこの3曲を持ってウクレレ・ブラザースはライブに突入した。
先ずは木場公園近くの銭湯で催された素人演芸会。主の祈りと賛美歌斉唱の後、この3曲を演奏。
その余りのバカバカしさに大受けを取った。更にペンギン・クラブのライブでも演奏。
圧巻は、ウクレレの神様、ハーブオオタの目の前で「魚肉ソーセージの唄」を歌い、バカ受けを得たのだった。

人に歴史あり その7 『直管ホーン隊の巻』

2007-09-15 12:01:18 | 人に歴史あり
遂にペンギンクラブに、ホーンセクション「直管ホーン隊」が加わった。
これまでこのバンドに最後に加入したのは宮原だったので、恐らく20年振りくらいの大変化である。
しかも女性、しかも若い(といっても、他のメンバーと比べての若さではあるが)。
トロンボーンの須山暁子は、ビーサンと日本手拭いをこよなく愛する。
しかも自らを「す~さん」と、まるで工事現場の出稼ぎオヤジの如く呼ぶ立派な人間である。
一番尊敬するトロンボニストは中島みゆきなどと訳の分からぬことを言いつつ、長い管を前後させている。
一方トランペットの坂本陽子は、おとなしそうな風貌に似合わず独自の時間体系を持っており、一回り以上も違うオリジナルメンバーを尻目に、大胆な重役出勤をしている。
その上実は慌て者で足元が悪く、脚には常に数カ所の青タンを所有している。
しかし報告によると、須山は音羽で生まれて大塚仲町で幼年期を過ごしたという。坂本も巣鴨の卸売り市場の近くで育ったのだ。
つまりふたりとも大塚に深い因縁があり、前世からペンギンクラブに参加することは決まっていたのである。なんという不幸の星の下に生まれたのであろう(涙)。
思えばインストのR&Bバンドを目指して始まったこのバンドは、いつの日か「歌付きのスタッフ」へと目標が変わってきたが、その根底にはクレージーキャッツやブルースブラザースバンド、「カフーツの頃のザ・バンド」という音楽が流れていた。
ホーンセクションが入って当然というような曲も、初期の頃から作り続けてきた。そこにようやくホーン隊がやって来たのだ。
恐ろしいことに彼女達は譜面が読める。メンバーがリクエストするリフを直ちに譜面にし、その場で再現してみせる。しかもビールを飲みながら・・・。
直管ホーン隊は、そのスタイル、酒量ともに、このバンドに相応しい人々なのであった。

人に歴史あり その6 『高野の巻』 (キーボード & ヴォーカル)

2007-09-14 22:22:46 | 人に歴史あり
高野ひろしは集める男である。
今でこそ「ペンギン・コレクター」などといって大きな顔をしているが、一皮剥けばただの収集癖過剰な人間だ。
その姿は一歩間違えれば、外出の度にゴミを拾ってくるボケ老人と同様である。
本人は「価値観の相違」と正当化に努めているけれど、どんなに価値観が相違しても、整理整頓が出来るか出来ないかという点についていえば話は別であろう。
子供というものは、特に男の場合、何かを集めた記憶が少なからずあるものだ。
メンコ・ビー玉に始まり、切手・切符・飲み物の蓋や王冠、アニメのカードやシール等、数を揃える快感に酔う年代を頭ごなしに否定は出来まい。
しかしそれらは年を追う毎に変化し、いつの間にか消えていくのが普通だ。
中にはそのいずれかが特化し、収集し続ける人もいる。
高野の一番いけない性格は、熱しやすく冷めにくい事かも知れない。
好奇心旺盛なのは良いが、興味に世代交代がないのでそれらの殆どが現在進行形となり、関連の資料も物品も等比級数的に増加する。
彼は高校時代から年毎のファイルを作り、その一年間にかき集めたありとあらゆるチラシ、パンフレット、書類、果ては箸袋からキャンディーの包み紙までをスクラップにしている。
旅に出れば「旅の思い出」と称して砂や石、花の種などを拾い、酷い時には建物の壁を削って持ち帰る。
更に問題なのは、それらかき集めた品々を全く整理しないことだ。
お陰でタスマニアの海岸の砂だか、葉山の砂だか、近所の公園の砂だか、本人にも分からないのである。
万事その調子で、床が下がるほどたまったレコード、CD、本、写真等も同様に未整理のまま散らばっているのだ。
以前「避難すべき災害が起きたら、君は何を持って逃げるんだい?」と尋ねたことがある。
彼は真顔で答えた。「僕は収集物に押しつぶされて、きっと逃げられないと思うねぇ・・・」
高野は人生に収拾をつけられないのであった。

人に歴史あり その5 『竹中の巻』 (ギター)

2007-09-14 20:52:38 | 人に歴史あり
竹中徹の髪の毛は硬い。
櫛をもへし折りハサミの刃先をなまくらにする鋼鉄ジーグの如き毛髪は、無口で頑固な彼の性格をシンボライズしているのである。
結成20年を迎えんとするバンドにあって何が変わらないといって、彼の髪型程変わらないものはない。
時代によって多少の長短はあるものの、その全体像に変化は皆無だ。いや彼の髪質上、変えることは不可能なのである。
何しろ手櫛をした自分の指に刺さる程の剛毛だ。そのパワフルな材質に変化を付けるのは至難の業であり、うっかり髪の生え方に逆らったセットをしようものなら、カリスマ美容師といえどもハサミの2~3丁、櫛の5~6本の犠牲は覚悟しなければなるまい。
万が一仕上がったあかつきには、両手が血塗れになること必至であろう。
しかしかつて勇敢にも、あの比類無き恐怖の有機物にチャレンジした、命知らずの若者がいたのである。
彼は昔、城北地区の疑似下町、十条に住んでいた。十条といえば十条銀座に篠原演芸場、帝京大学と笑いの取れるポイントに事欠かない町だ。
彼の家の近くに資生堂の美容専門学校があった。そこには理容科の生徒が実習を兼ね、格安で散髪をしてくれる場所もあったのだ。
彼は大胆にもそこへ何度か通ったのである。ある日バンドの練習に現れた彼の髪型を見た時、メンバーは各自同じことを思った。
「こいつの髪の毛にパーマをかけるなんて、命知らずの野郎がいたもんだ」
竹中を担当した学生は、現在オーストラリアに移住し、5年連続で、全豪羊毛刈りチャンピオンに輝いたそうである。
従って彼の寝癖を直すなどという作業は、殆ど不可能に近い。となると寝癖がつかないように就寝しなければならない。
そこで彼が編み出したシステムは、「髪の毛が乾くまで、絶対寝ない」宣言だ。
洗髪後4時間以上起きていられる自信が無い時には洗髪しないのである。
神のみぞ知る竹中の髪である。

人に歴史あり その4 『宮原の巻』 (ギター)

2007-09-09 18:58:39 | 人に歴史あり
宮原勝一はバイク少年だった。
バンドに加入した頃、未だ10代だった彼は、アマチュアレースにも出場するオフロードレーサーであったのだ。
当然メカにも詳しいので、夜な夜な自宅の庭で改造に勤しんでいた。
鉄パイプを切ってハンドルを作ったかと思うと、ガソリンタンクをオモチャみたいなポリタンクに付け替えたりした。
あるロードレーサーはハンドルを極端に絞り、左右に1センチも動かすとタンクにぶつかる程に改造、タンクも交換し、大胆にも「ノートン」と書いたのだ。
その見るからに怪しいバイクを、バンド練習後、スタジオ前でお巡りさんに見られた時は、メンバー一同あせりまくったという。
誰が見ても大改造バイク、しかもエンジンには「ホンダ」の刻印。しかしお巡りさんは、タンクに書かれた宮原流「ノートン」のロゴを信用し、事なきを得た。
その後も彼のバイク熱は冷めることなく、タンデムしているのに平気でウィリーする、単独でウィリーした途端こけてタクシーの下に潜り込む、自動車に接触されて吹っ飛ぶなど、命知らずな日々を送っていた。
そうこうするうち念願の大型自動二輪免許をあっさり奪取、その直後に750ccで奥多摩有料道路を攻めて転倒、血塗れになって重量100キロを超すバイクを押して麓まで歩いた。
事故後に練習に現れた宮原の腕には、巨大なかさぶたが、まるでわらじかハンバーグの如く貼り付いていた。
「世の中に、こんなに大きなかさぶたが存在するのか!」とメンバーを感動させたことは言うまでもない。
そして彼はハーレーにまでこぎつけた。彼のイメージにはモトクロスバイクが相応しいので、ハーレーに乗る姿には正直釈然としないものがあった。
だがそのバイクのクラッチを握った時、その考えは間違っていることに気が付いた。
両手で必死に握ってやっと切れる程、そのクラッチは重かったのだ。
四六時中握力検査の如きパワーを必要とするバイクに彼の剛腕は唸った。

人に歴史あり その3 『大橋の巻』 (ドラムス)

2007-09-01 10:33:52 | 人に歴史あり
大橋俊彦はラーメンに祟られている。
先祖がよっぽどラーメンに惨い仕打ちをしたに違いない。
そうとしか説明のしようがないラーメン中毒男なのである。
学生時代、彼は端で見ていて可哀想な位痩せていた。
スレンダーな女の子でも穿けないようなジーンズが、彼にはブカブカだった。
ドラマーとして彼がやってきた時、彼の体型を見たメンバーは一様に「こんなか細い男に一番重労働なポジションを任せて、大丈夫なのだろうか?」と首を傾げたものだ。
その身体は、夏の海において更に悲哀度を増した。
イーグルス流れる葉山の砂浜も、海パン一丁の彼を見ていると、コーラン流れるガンジス川の辺で沐浴をするインド人を思いだし、無意識のうちに手を合わせてしまうのだった。
ところが月日は巡り、突如として彼はラーメンに目覚めた。
「突発性小池さん症候群」又は「ブースカ病」ともいわれる悪質な病気だ。
永福町、恵比寿、渋谷、荻窪と、用があろうとなかろうと、仕事中でもプライベートでも、思い立ったらその日がラーメン記念日、ズルズルズルと麺をすすり汁を飲んでいった。
元来彼は「痩せの大食い」を地でいく男であったらしい。
同級生の小野木は「あいつは3時のおやつに、牛丼を食べていた」と証言する。
その彼が、猛然とラーメンに向けた情熱は、常人の理解を超えている。
おそらくスープも残さず飲み、うっかりすると大盛りを注文している可能性さえある。
子供時代から肥っていた人間は、もう肥満体型を形成しているので、体中がまんべんなく太い。
しかし彼は、元々ガリガリのガンジータイプであったため、手足は細く、肥満体型とはならない。
ところが彼の腹だけは、ラーメンの栄養が淀んでいるため、激しい膨張運動を持続している。
その体型は、殆どスイカ泥棒である。
ジーンズのウエストだけが広がって、アンバランスこの上ない。
恐るべし、ラーメンの怨念!

人に歴史あり その2 『深山の巻』 (ベース & ヴォーカル)

2007-08-25 11:08:45 | 人に歴史あり
深山正樹は寝る男である。
彼は寝ている時にこそ、人生最大の幸福を感じているに違いない。
その上、一度寝るとなかなか起きないのである。
学生時代、彼はバンドのメンバー2人と、ミーハー若者憧れのアメリカ西海岸に旅立った。
当時オシャレさん若い衆のバイブルとも言うべき雑誌『ポパイ』『ホットドッグ』が、「やっぱウエストコーストじゃん」と宣言したのを真に受けての所行であろう。
まだ1ドルが250円という無礼な為替レートがまかり通っていた時代だ。
彼は流行に無頓着な振りを装って、実は誰よりも先に飛びつく男なのであった。
滅多に行けないキリシタンバテレンの国ということで、短い滞在期間を有効に使うべく各地を巡ると思いきや、暢気でものぐさな彼等は、約3週間、殆ど加州を離れることはなかった。
その旅に於いて、彼の爆睡王振りが遺憾なく発揮されたのである。
彼がひとたびベッドに倒れ込むと、体内の全てのエネルギーを一瞬にして放出、一切の生物学的行動を遮断する。
その直前に必ず口ずさむのが、「正樹の子守歌」である。それはこんな歌詞であった。
《今日も一日 儀式も終わって 顔が粉を吹きゃ わたしゃ寝るのみ ただ漠然と 雨が降ろうが ヤリが降ろうが わたしゃ寝るよ ゴーゴー・・・》
歌詞の中の「儀式」というのは、彼が日々欠かさなかった行為、即ちニキビに薬を塗布する作業のことだ。彼には運転中ニキビを潰すという癖があった。
ニキビが潰れた瞬間のことを彼は「噴火」と称した。その薬剤塗布が完了すると、その日の彼の意識下の行動は全て終わりなのであった。
以後彼は爆睡王として君臨し、それに勝るものは早朝サッカーと子供の運動会のみなのだ。
そんな彼の寝姿に触発され、高野隊長は『グーグー』という曲を作ったのだった。

人に歴史あり その1 『小野木の巻』 (ヴォーカル & サックス)

2007-08-22 13:23:51 | 人に歴史あり
小野木勉は車好きである。
どの位好きかというと、その昔、家の車を来る日も来る日も磨き上げ、その結果塗装が剥げてしまった位好きなのだった。
家庭用スプレー塗料で、自分の車を塗り替えたこともあった。
彼の車遍歴の中でも白眉なのは、黒塗りセドリックだった。
なんでも福島県知事の公用車だったとかで、座席には白いひらひらカバーが敷かれていて、それを運転する彼は、ペネロープ号を操るパーカーのようであった。
しかし難点はハイオク車だったことだ。あの独特の有鉛・夏腹・ハウンドックな臭いが車内に充満し、雨の日に乗ると、同乗者は非常にしばしば車酔いを起こしたものだ。
家業が運送屋だった彼は、冷蔵庫も洗濯機もひとりで背負うパワーと、トラックで東京~青森間を一日で往復するエネルギーを兼ね備え、「疲れを知らぬ男」と恐れられた。ところがそのパワー全開時代に、彼の身体的異変に気付いてからは、更に周囲の人々から恐れられたのである。彼は長距離運転中に深夜12時を過ぎると、その形相に変化が生じる。
皺は深くなり眉毛は吊り上がり、顔全体が赤味を帯びてくのだ。
その様子はジキルとハイドの如く、シャイニングの如く、赤頭巾ちゃんのお婆さんに化けた狼の如くである。その姿がアメリカの平原を疾走する野牛に似ていることから、「バッファロー小野木」と命名されたのだった。
現在、趣味が高じて自動車ディーラーに勤務する彼の車人生は、止まるところを知らない。
本物だけでは飽き足らない彼は長年、トミカというミニカーの収集を続けている。
休日に各地のフリーマーケットに出掛けては、家族のブースの隅で自分のオモチャを並べて売る子供を目敏く見つけては、ただでさえ安いトミカを更に買いたたくという悪逆非道なことをしている・・・かどうかは定かではないが、着実にその台数を増やしていることだけは確かであるという。