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3人の証言 真実はどれだ

2021年03月17日 11時33分05秒 | 台北第二
内田信二の証言
以下は中村輝夫が台湾に帰った直後に本人が甥の内田信二(民族名:ハラタ、漢名:陳德祥)に語った話である。
中村は上陸時山中の陣地にいたが、同じ部隊の数人とともに海岸にある米軍の橋頭堡へ偵察に向かった。
しかし偵察中に米兵に発見され、中村は「バカヤロー」と叫び、
米兵に向かって三八式歩兵銃を撃って追手から逃れたが、中村1人を残して偵察隊は全滅した。
そして、米兵の追手から逃げるうちに道に迷って部隊とはぐれてしまい、
ジャングルで潜伏生活を始めたのだと中村は内田に語っている。

湯野正雄の証言
1974年当時、在インドネシア防衛駐在官であった湯野正雄は中村から話を聞いた後、
逃亡兵にはあたらないと厚生省や関係各省庁に報告している。
なお中村は湯野に、最初の数年間は内地人4人、プユマ族4人の戦友とともに潜伏していたと証言している。

岡田耕治の証言
中村と同じ輝第2遊撃隊の伍長で、プユマ族出身の岡田耕治(民族名:ハパクリン・クラサイ、漢名:陳德儀)は、
自著の中で中村は逃亡兵であると証言している。
岡田によると、中村は米軍上陸2日前の9月13日に内地人の兵隊と喧嘩して相手に軽い怪我を負わせた後、
翌9月14日未明に台東出身の小山弘義一等兵とともに逃亡した、となっている。


また、中村の発見をきっかけとして、日本人日本兵と台湾人日本兵との弔慰金の格差が表面化し、
台湾青年社の王育徳らが1975年に「台湾人元日本兵の補償問題を考える会」を結成してデモを行うなど、
差別解消を求める運動が活発化した。

wikipedia より



ゴリラのように
2015年12月01日 19時19分57秒 | 台北第二

グアム島  横井庄一
ルバング島 小野田寛郎
モロタイ島 中村輝夫

台湾先住民スニヨンが中村輝夫として
南方作戦 高砂義勇隊一等兵となって
モロタイ島で戦った昭和19年は25歳だった。

彼は密林に潜んだまま30年が過ぎ、
インドネシアの兵隊に保護された。

日本降伏によって日本人ではなくなった彼は、
李光輝という名を付けられていた。

彼は、
妻の再婚を知り
「軍国の妻」のすることではない、と
ゴリラのように激怒したという。



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