さいきん、
思っていることがひとつ。
日本の小説には大きく分けて純文学と大衆文学がありますが、
とりわけ純文学は視野が狭いという印象。
けれど、
そもそも純文学ってなに?
と解いてみれば、
明確な答えはなくて、
純文学=大衆文学になりえること。
そうして、大衆文学=エンターテインメント小説、
(エンターテインメント=ストーリーを楽しませる)
という図式の方が一般化されているから、
見落としがちだけれど、
小説のエンターテインメントはストーリーだけじゃないよね。
書き手の視覚や聴覚やその他あらゆるものを、
意図的に書き溜めたものも十分エンターテインメントだよね、と。
だから純文学の書き手がストーリーにこだわらないのはおかしいし、
大衆文学の書き手が文章にこだわらないのはおかしい。
こだわらないというのはストーリーがないからこだわっていない、
ということではなくて、
ストーリーをあえて無くすことにこだわること。
あえて入れることにこだわること。
純文学だから、
大衆文学だからといって、
どちらか一方を考えなくていいかといえば、
そうじゃないよね。
小説を100も200も読めば、
(そうじゃなくても文章が一応書ければ)
エンターテインメント小説の文章はこれくらいでいい、
ということではなくて、
そのこだわったストーリーをより面白く読ませるために
考えなくてはならないことが沢山ある、
ということ。
海外には純文学も大衆文学もないんです。
だから純文学の書き手が大衆小説にならないよう
意固地になるのは間違いで、
大衆文学の書き手がストーリーだけに目を配るのも
間違いだと思います。
文字の出力やらなんやらを用いて、
そのいくつもの文の連なりを用いて、
読み手をどこか分からない世界に飛ばす、
途方もない力を得るために、
考えることが沢山あるんだと思います。