青い日は晴れ

こら下界。お前はゆうべも職をむなしゆしなかった。
そして疲れが直って、己の足の下で息をしている。

もっと大きな

2009-01-27 17:28:37 | 思想


さいきん、

思っていることがひとつ。

日本の小説には大きく分けて純文学と大衆文学がありますが、

とりわけ純文学は視野が狭いという印象。

けれど、

そもそも純文学ってなに?

と解いてみれば、

明確な答えはなくて、

純文学=大衆文学になりえること。

そうして、大衆文学=エンターテインメント小説、

(エンターテインメント=ストーリーを楽しませる)

という図式の方が一般化されているから、

見落としがちだけれど、

小説のエンターテインメントはストーリーだけじゃないよね。

書き手の視覚や聴覚やその他あらゆるものを、

意図的に書き溜めたものも十分エンターテインメントだよね、と。

だから純文学の書き手がストーリーにこだわらないのはおかしいし、

大衆文学の書き手が文章にこだわらないのはおかしい。

こだわらないというのはストーリーがないからこだわっていない、

ということではなくて、

ストーリーをあえて無くすことにこだわること。

あえて入れることにこだわること。

純文学だから、

大衆文学だからといって、

どちらか一方を考えなくていいかといえば、

そうじゃないよね。

小説を100も200も読めば、

(そうじゃなくても文章が一応書ければ)

エンターテインメント小説の文章はこれくらいでいい、

ということではなくて、

そのこだわったストーリーをより面白く読ませるために

考えなくてはならないことが沢山ある、

ということ。

海外には純文学も大衆文学もないんです。

だから純文学の書き手が大衆小説にならないよう

意固地になるのは間違いで、

大衆文学の書き手がストーリーだけに目を配るのも

間違いだと思います。

文字の出力やらなんやらを用いて、

そのいくつもの文の連なりを用いて、

読み手をどこか分からない世界に飛ばす、

途方もない力を得るために、

考えることが沢山あるんだと思います。


最新の画像もっと見る