五里霧中

政治家や文化人など世の中のバカ退治! もいいけどその他のネタも・・・

Stay hungry Stay foolish

2009-09-13 22:27:56 | 文化人

Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address

 

 コピぺ元はこちら

以下は2005年6月12日の卒業式で、アップルコンピューターとピクサーアニメーションスタジオのCEO、スティーブ・ジョブズが行なったスピーチの原稿である。

今日、皆が世界最高の大学の1つを卒業する場に同席できて光栄に思う。私は大学を卒業したことがない。本当のところ、これは私にとって最も大学卒業に近い体験だ。 今日は皆に私の人生から3つの話をしたい。それだけだ。大したことじゃない。3つだけだ。

最初の話は点をつなぐことについて。

私はリード大学を6ヶ月で中退したが、更に1年半ほど後に完全に辞めるまで、もぐりの学生として大学に顔を出していた。ではなぜ中退したのか。

話は私が生まれる前に遡る。私の産みの母は若い未婚の大学院生で私を養子に出すと決めていた。生みの母は養父母は大学卒でなければととても強く思っていたので、私は生まれると同時に弁護士夫妻の養子になるよう万事整っていた。ところが、私が生まれるとその夫妻は女の子が欲しかったと言い出した。そこで待機者リストに載っていた私の両親は夜中に電話を受け、「望んでいなかった男の子が生まれました。この子を養子に欲しいですか?」と聞かれた。両親は「もちろんです」と答えた。産みの母はその後、私の母は大学を卒業していないし、私の父は高校を卒業していないことを知り、最終的な養子縁組の書類に署名することを拒んだ。何ヶ月かして私の両親が私を大学にやると約束した時点で産みの母はやっと態度を緩めた。

そして17年後私は実際に大学に通った。しかし、私は無邪気にもスタンフォードとほとんど同じくらいお金のかかる大学を選び、労働者階級の両親の蓄えはすべて大学の授業料に使われていた。6ヵ月後私はそれに価値が見出せなかった。私は人生で何をしたいか見当も付かなかったし、大学がそれを見つけるのにどう役に立つかも分からなかった。そして、その時点で私は両親がそれまでに貯めたすべてのお金を食いつくしつつあった。そこで中退を決意し、万事問題ないと信じることにした。その時はとても不安だったが、振り返って見ればそれはこれまでにした最良の決断の1つだった。中退した瞬間から興味を持てない必須科目の授業に出るのを止め、面白そうなものに出席し始めることができた。

夢のようなことばかりではなかった。寮に自分の部屋はないので友達の部屋の床で寝て、コークの瓶を何本も店に返して1本当たり5セントを受け取って食べ物を買い、クリシュナ 教の寺院で1週間に1回のまともな食事をとるために毎週日曜日の夜、街を横断して7マイル歩くことも厭わなかった。そんな日々がたまらなく好きだった。そして、自分の興味と直感に従った結果出くわしたものの多くは、その後、お金に換えがたいものとなった。たとえばこうだ。

当時のリード大学はたぶん、この国で最高の文字芸術(calligraphy)の授業を行っていた。キャンパス中のすべてのポスター、すべての引き出しのラベルが美しく手書きされていた。私は中退していて普通の授業を受ける必要はなかったので、文字芸術の授業を取ってその手法を学んだ。セリフとサンセリフの書体について、文字の組み合わせによって文字間のスペースを変えることについて、素晴らしい印刷物は何が素晴らしいのか、を学んだ。それは美しく、歴史的で、科学では捉えられない芸術的繊細さで、私には魅力的だった。

これらのどれも私の人生で実際に活用する見込みはなかった。しかし10年後最初のマッキントッシュを設計しているときにそれが私に蘇ってきた。そしてそれをすべてマッキントッシュの設計に取り入れた。マッキントッシュは美しい印刷技術を組み込んだ最初のコンピューターとなった。私が大学を中退してその授業を受けていなければ、マックが複数の書体やプロポーショナルフォントを持つことはなかっただろう。そしてウィンドウズはマックをコピーしただけなので、どのパソコンも持たなかっただろう。私が大学を中退しなかったら、その文字芸術の授業を受けなかっただろうし、パソコンは現在のように素晴らしい印刷技術を備えることはなかったかも知れない。もちろん私が大学に居たときに先を見越して点をつなぐことは不可能だった。しかし10年後に振り返ると、とてもとても明白だった。

繰り返す。先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じなければならない。何かを信じなければならない。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、私の人生に大きな違いをもたらした。

2番目の話は大切なものとそれを失うことについて。

私は幸運だった。人生の早い時点でたまらなく好きなことを見つけた。20歳のとき私は実家の車庫でウォズといっしょにアップルを始めた。私たちは懸命に働いて、10年でアップルは車庫のたった2人から4000人以上が働く20億ドル企業になった。1年前に私たちの最高の創造物であるマッキントッシュを出したばかりで、私は30歳になったばかりだった。そして私は首になった。どうしたら自分が作った会社を首になれるかって?そう、会社が成長する過程で一緒に会社を経営するのにとても才能のあると思えた人を雇い、最初の1年ほどはうまくいった。しかしその後、将来のビジョンが分かれ始め最終的に仲たがいとなった。そうなったとき取締役会は彼の側に付いた。それで私は30歳にして失職した。しかも、とてもおおっぴらに。私は大人としての人生全体の中心だったものを失い、それは衝撃的だった。

何ヶ月か何をすべきか全く分からなかった。一世代前の起業家達を失望させたのではないかと感じた。私に渡されつつあったバトンを落としてしまったと。デービッド・パッカードとボブ・ノイスと会った。そして、失敗してしまったことを謝ろうとした。私はよく知られた落伍者となり、シリコンバレーから逃げることも考えた。しかし、何かが徐々に私の中で湧き上がってきた。自分がしてきたことが、まだたまらなく好きだった。アップルでの出来事はほんの少しの影響も与えなかった。私は拒絶されたが、まだたまらなく好きだった。そして私はやり直すことを決意した。

そのときには分からなかったが、アップルを首になることは私に起こり得る最善のことだった。成功していることによる重圧は、再び新参者となったことによる軽快さで置き換えられ、何事にも確信の度合いが減った。私は人生で最も創造性豊かな時期へと解き放たれた。

それから5年間、私はNeXTという会社を起こし、もう1つPixarという会社も起こし、素晴らしい女性と恋に落ち結婚した。Pixarは世界初のコンピューターアニメーションの長編映画、トイストーリーを製作するまでになり、現在最も成功しているアニメーション制作会社だ。驚くべき事態の展開により、アップルはNeXTを買収し、私はアップルに戻り、NeXTで開発された技術は現在進行中のアップルのルネッサンスの中核をなしている。そして、ローレンスと私は素晴らしい家庭を築いている。

私がアップルを首にならかったら、これらのことは1つも起こらなかったと私は確信している。ひどい味の薬だったが、この患者には必要だったのだと思う。人生は時にレンガで頭を殴る。信じることを止めてはいけない。私は自分がしていることがたまらなく好きだ。それが私を動かし続けている唯一のものだと堅く信じている。たまらなく好きなことを見つけなければならない。そしてそれは仕事についても愛する人についても真実だ。仕事は人生の大きな部分を占めることになり、真に満足を得る唯一の方法は偉大な仕事だと信じることだ。そして偉大な仕事をする唯一の方法は自分がしていることをたまらなく好きになることだ。まだ見つけていないなら探し続けなさい。妥協は禁物だ。核心に触れることはすべてそうであるように、それを見つければ分かる。そして素晴らしい関係は常にそうであるように、それは年を経るにつけてどんどん良くなっていく。だから見つかるまで探し続けなさい。妥協は禁物だ。

3番目の話は死について。

17歳のとき次のような一節を読んだ。「毎日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずひとかどの人物になれる」。私は感銘を受け、それ以来33年間毎朝鏡を見て自問している。「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」。そしてその答えがいいえであることが長く続きすぎるたびに、私は何かを変える必要を悟った。

自分が間もなく死ぬことを覚えておくことは人生の重要な決断を助けてくれる私が知る限り最も重要な道具だ。なぜならほとんどすべてのこと、つまり、他の人からの期待や、あらゆる種類のプライド、恥や失敗に対するいろいろな恐れ、これらのことは死を前にしては消えてしまい、真に重要なことだけが残るからだ。いつかは死ぬということを覚えておくことは落とし穴を避けるための私が知る最善の方法である。何かを失うと考えてしまう落とし穴を。あなたはもう丸裸だ。自分の心のままに行動しない理由はない。

約1年前私はガンと診断された。朝7:30にスキャンを受け、膵臓にはっきりと腫瘍が映っていた。私は膵臓とは何かも知らなかった。医者達はこれはほぼ間違いなく治癒しない種類のガンだと告げ、3ヶ月から6ヶ月より長くは生きられないと覚悟するように言った。医者は家に帰って身辺整理をするように勧めた。これは医者の言葉で死の準備をせよということだ。子供にこれから10年間に教えようと思っていたことすべてをたったの数ヶ月で教えろということだ。可能な限り家族が困らないように万事準備が整っていることを確かめておけということだ。別れの言葉を言っておくようにということだ。

私は一日中その診断と共に過ごした。夜になって生体検査を受けた。つまり、内視鏡を喉、胃、腸を通して膵臓に針を刺し腫瘍から何個か細胞を採取したのだ。私は鎮静剤で眠っていたが妻もそこに居たのでその時の様子を教えてくれた。医者達は細胞を顕微鏡で見ると叫び出したそうだ。なぜなら非常に稀な形体の膵臓ガンで手術で治癒可能なものと判明したからだ。私は手術を受け今は全快している。

これはこれまでで最も死に接近した体験だ。そして何十年かに渡ってこれが最接近であり続けて欲しいと願っている。この体験を経て、死が有用ではあるが純粋に概念上のものであった時よりはより自信を持って次のように言える。

死を望む者はいない。天国へ行くことを望む人でさえ、そのために死にたいとは思わない。それでもなお死は我々すべてが共有する運命だ。それを免れた者はいない。そしてそうあるべきなのだ。なぜなら死はほぼ間違いなく生命による最高の発明だからだ。死は生命に変化をもたらす主体だ。古き物を消し去り新しき物に道を確保する。現在は皆が新しき物だが、いつかそう遠くない将来皆は徐々に古き物になり消し去られる。芝居がかった表現で申し訳ないが正に真実だ。

皆の時間は限られているから誰か他の人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない。教条主義の罠にはまってはならない。教条主義とは他の人々の思考の結果に従って生きることだ。他の人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消されないようにしよう。そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。心と直感は本当になりたい自分をどういうわけか既に知っている。その他すべてのことは二の次だ。

私が若い頃、全地球カタログという驚くべき出版物があった。私の世代の必読書の一つだった。スチュアート・ブランドという人物が、ここからそう遠くないメンロ・パークで制作し、詩を思わせる作風を施して世に送り出した。1960年代後半でパソコンもそれによる印刷もなく、タイプライターとはさみとポラロイドカメラだけで作られていた。グーグル誕生の35年前のペーパーバック版グーグルのようなものだ。理想に満ちていて、巧妙な道具や偉大な概念が溢れている。

スチュアート達は全地球カタログの版を幾つか重ね、自然な成り行きとして最終版を迎えた。それは70年代半ばで私は皆の年齢だった。最終版の裏表紙は朝の田舎道の写真で、冒険好きがヒッチハイクをしていそうな場面だ。その下にこんな言葉がある。「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」。これはスチュアート達が活動を終えるに当たっての別れの言葉だ。ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。そして私は常にそうありたいと願ってきた。そして今、皆が卒業して新たに歩みを始めるに当たり、皆もそうあって欲しいと思う。

ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。

ご静聴どうもありがとう。


タモリ弔辞全文

2008-08-22 17:20:39 | 文化人
タモリさんの弔辞は以下の通り。 「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。   10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。  終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。  しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。  赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。  あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。  あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。  いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。  あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。  私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」

和田義彦氏・スーギ氏の作品を切り貼りか?

2006-06-09 22:05:47 | 文化人

 開いた口がふさがらん状態になりますね・・・・

  

                      

  上のSughi氏の二つの作品をよーく見ておいてください

 

    つぎに和田義彦氏の作品を見てください 

 

            

 

    皆さんはもうお分かりですよね、和田氏がSughi氏の作品から

 

 

            の部分を抜き出して

     自分の作品に模写していたのです・・・

 

  画壇でも Adobe Illustrator CS2.0  などを導入されているようですねえ

  

    さいごに

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「盗作」の和田氏 東郷青児美術館大賞も取り消し

2006年06月07日21時00分

 洋画家和田義彦氏(66)の盗作疑惑で、損保ジャパン美術財団は7日、02年に和田氏に贈った「第25回安田火災(現・損保ジャパン)東郷青児美術館大賞」の取り消しを決めた。

 同財団は選考委員を集めて再検討した結果、和田氏の受賞作「想」(01年)が、イタリア人画家アルベルト・スギ氏(77)の「交差点のバー」(97年)と酷似し、審査基準の「独自の世界の形成」などから逸脱していると判断。理事会で取り消しを決定した。

 再検討には当時の選考委員5人のうち、陰里鉄郎・女子美術大教授、米倉守・多摩美術大教授、石井敏彦・元同館長が出席。同館の宇野智久館長は「和田氏に対しては、残念さを超えて悲しさを覚える。今後このようなことが起きないよう、選考方法を考え直し、不名誉を克服していきたい」と話した。

 同賞は77年に創設、実力のある中堅画家に贈られてきた。02年には、東郷青児美術館で和田氏の受賞記念展「和田義彦展 煌(きらめ)く刻(とき)」を開催。同展図録で作風について「深い内面性と象徴性を感じ取ることが出来ます」としていた。

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   この記事には書かれていませんが、

        賞金200万円も返せ!

                           といわれているみたい。


和田義彦氏・スーギ氏絵画比較 2

2006-06-08 23:16:49 | 文化人

 

               

  左 Alberto Sughi 氏         和田義彦 氏

       

      「景色」1992           「森」1994

    

   「アドリア海の別荘」1973     「アドリア海の海へ」1982

   

   「カバンを持った男性はどこにむかうのか?」1982 Sughi 氏

                  「旅人」1991 和田義彦氏

   

   「ベランダ」1992         「庭」2001 

   

   「どこへ行く?」1991     「何処に」1991

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        Sughi 氏 「夕食を食べる人」1975                              

                       

     やせたので頬がこけました      

                          和田義彦氏 「食べる人Ⅱ」2001

 

     つづいて・・・

 

     Sughi氏 「サタデーナイト」1985

 

           和田義彦氏 「カフェ」1991   

 

  違いは

  カフェのギャルソンがメードに変身したようです

 

  

 

                  

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   昨年盗作疑惑を掛けられたときに、Sughi氏からの手紙を公開したそうです。

 

  

   僕は、和田義彦のことを追想している。

  チェザーナとローマのアトリエで共に仕事しあったことである。

  先輩・後輩、イタリア人・日本人の友情を越えて互いの絵画観について

  意見交換しながらいくつかの絵画を生んだ。こうして二人は豊富な想像力や

  技術力を得たのである。

   そう、もう40年近くもこの関係が続いている体験に近い仕事が、私たちの

  現在の基盤になったのだ。

   僕は君との出会いに感謝し、これからの人生の糧にしたいと思っている。 

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      原文はイタリア語で和田氏の翻訳?とされています。

 

  しかしTBSの昼番組での学習院大学講師 押場靖志氏の話だと

  

  先輩・後輩、イタリア人・日本人の友情を越えて互いの絵画観について

  意見交換しながらいくつかの絵画を生んだ。

 

   この部分は和田氏の自由訳と表現されていました。

 

  本来の翻訳をすれば

  文化的経験の交換がイタリアの老画家と日本の若い画家の

  双方にお互いの仕事を豊かにする機会を与えてくれた。 

                                    だそうです。

 

     さらに

     チェザーナとローマのアトリエで共に仕事しあったことである。

 

    この部分についても

 

  私のスタジオでワダが働いていたときのことを思い出す。 のようです

  

  つまり二人で絵画を作製したこともないし仕事もしていない

                   ってことですね! 

 


和田義彦 盗作疑惑2

2006-06-06 21:41:22 | 文化人

 

 TVのワイドショーネタになりましたね・・・

  大人から子供まで直ぐに理解できますからね・・・

 

      

 和田義彦氏「ナイトクラブ」(2000年)         スギ氏「ノクターン1」(1998年)

     

 和田義彦氏「二つの世界」

 

 和田義彦氏「天空」             スーギ氏の作品を探し中 

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 その結果 

 
和田義彦氏の芸術選奨取り消しについて説明する芸術選奨選考審査員の、右から建畠晢、酒井忠康、草薙奈津子の各氏=5日

 芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した洋画家の和田義彦氏(66)の作品がイタリア人画家、アルベルト・スギ氏の作品と酷似している問題で、文部科学省は5日、授賞取り消しを正式決定した。1950年に創設された芸術選奨の賞取り消しは初めて。小坂憲次文科相は「授賞取り消しという事態を招いたことについては、誠に遺憾」とのコメントを出し、選考方法などを早急に改善するよう文化庁に指示した。

 文化庁芸術文化課の鬼沢佳弘課長によると、午前に開かれた臨時審査会では事前に意見収集した高階秀爾氏ら4人の有識者が全員「盗作とみられてもやむをえない」との見方で一致したことが報告され、3月の審査会で和田氏を推した美術評論家の瀧悌三氏(5日は欠席)から「(両氏の作品の)酷似は模写の一形態で、和田君のオリジナリティーに帰することは出来ません」などとする書面も示された。作品が酷似している23点を検証し、「構図、色彩、モチーフの基本が同じで、盗作したと判断せざるをえない」として出席した審査員3人の全員一致で取り消しが決まった。

 審査会は両氏の調書も検討。和田氏がスギ氏に謝罪し、酷似作品をイタリアに送るのに同意した部分からも盗作を否定する和田氏の釈明には説得力がないと判断した。

 和田氏に対し、5日から1週間程度の弁明期間を設けたうえで取り消しが確定し、賞状と賞金30万円の返還を求める。スギ氏には在伊日本大使館を通じて取り消しを報告し謝罪する。

 賞取り消しを受けて文化庁は「審査員の増員や、文化庁による候補者の調査の充実を検討する」(鬼沢課長)という。【米本浩二、手塚さや香】

 ◇東郷青児大賞でも

 一方、和田氏が02年に「安田火災(現損保ジャパン)東郷青児美術館大賞」を受賞した「想」も、スギ氏の作品と構図などが酷似していることが指摘されており、美術館を運営する損保ジャパン美術財団は7日、当時の選考委員を集めて会議を開く。委員会の見解を受け、同日の財団理事会で、受賞取り消しを含めた何らかの判断を下す予定という。 同大賞は、中堅洋画家を対象に77年に創設された、美術界の権威ある賞の一つ。

 ◇「違い」より際立つ同質性

 芸術選奨文部科学大臣賞の取り消しという厳しい処分で、画家・和田義彦氏の盗作疑惑騒動は一つの決着をみた。画家の栄光が地に落ちたのみならず、文化功労者、文化勲章への一里塚ともいわれる同賞の権威に染み付いた汚点も、しばらくは消えそうもない。

 和田氏は疑惑が発覚して以来、一貫して盗作の事実を否認し続けた。しばしば「相手の了承を得ている」などの理由を挙げたのは、かつてみずからが手がけた歴史的名画の模写と同類の行為と主張したかったのか。しかし、一連の酷似作品には模写とは一つも明記されてはいなかった。

 他方、毎日新聞社などへファクスで送られてきた賞の返上を願い出る文書では、「形を同化して私なりの空間、造形性を技法とマチエール(絵肌)で盛り込み、独自の世界を創造する」のが狙いだったとも釈明している。

 なるほど現代でも、他人の作品を元にして描かれる絵画は少なくない。たとえば画家のアトリエを訪れた国王一家を描いたベラスケスの名画を、アングルの違う特異な絵に作り替えた福田美蘭氏のように。

 だが、和田氏の作品がそんな“本歌取り”に該当するかについては、美術界でも疑問視する見方が圧倒的だ。色調やマチエールは変わっても、「同化」した形や構図と同様、作品の意味内容が原作から少しも一新されていないからである。これでは、著作権意識が高まっている現在、盗作という判断が下されてもやむを得ないだろう。【三田晴夫】

毎日新聞 2006年6月5日 19時47分 (最終更新時間 6月6日 2時04分)

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 せっかく獲得した賞は剥奪されるみたいですね。

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  さーあいくらまで値段があがるのでしょうか?


和田画伯 作品 画像比較

2006-06-02 22:44:56 | 文化人

昨日今日TVで大きく取り上げられている

 芸術選奨文部科学大臣賞受賞の和田義彦氏ネタを取り上げます。

 

       もう盗作犯確定ですね・・・ 

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和田氏の盗作疑惑、スギ氏「完全に私の作品だ」

2006年06月01日11時10分

 洋画家の和田義彦氏(66)の盗作疑惑について、作品が酷似しているとされるイタリア人画家のアルベルト・スギ氏(77)は31日、朝日新聞の取材に「画家だとは知らず、私の大ファンだと信じていた」と語った。和田氏は洋画家で05年度の芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)を受賞したが、スギ氏は「彼の作品は完全に私の作品の盗作だ」と批判した。

写真

「和田君は私の大ファンだと信じて疑わなかった」と話すアルベルト・スギ氏=ローマ市内で

 スギ氏によると、和田氏は5月13日、通訳と共にローマ市内のスギ氏のアトリエを訪問。泣きながら謝罪して「訴訟を起こさないで欲しい」と頼んだという。スギ氏は「盗作した作品をすべて送ってくれ」と求めた。

 スギ氏は「和田氏から5月18日に受けた」と説明しながら2枚のイタリア語ファクスも示した。この中では、和田氏とみられる人物が「自宅に保管している作品はすべてそちらへ送った」と述べるとともに「今回の事件について、深くおわびします。私はもう、美術界で生きていくことはできないでしょう。私の短い余生を、今回の事件から離れて送りたい」「私にとって必要なのは、あなたからの『法的に訴えない』と保証する一筆だけ。訴えないという手紙を送っていただければ、心が落ち着きます」などとしていた。

 スギ氏は「いまだに盗作は1枚も届いていない。大変な詐欺師だ」と怒りをあらわにした。

 スギ氏によると、和田氏とは約40年前に知り合った。和田氏が電話で「お会いしたい」と連絡してきたという。和田氏はスギ氏のアトリエで「私はあなたの絵が大好きだ。作品に恋をしている」と語り、興奮した様子で写真を多数撮影したという。

 その後も多い時には年5回アトリエを訪問。スギ氏は「今から思えばあらゆる角度から写真を撮り、大げさすぎる称賛を繰り返していたが、その時は私の絵の大ファンだと思って、ただうれしかった。画家だということも最近まで知らず、日本で西洋美術を教えている学者だと信じていた」と語った。

 スギ氏は「和田氏ひとりが悪いのではない。調査もせずに賞を与えた者も間違いだ。日本政府からの説明をまちたい」と話した。

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 20年近く同業者の盗作を見抜けなかった会員の人たちのあがき

                 本当か? 

 日本の有名画家も日本ではメジャーじゃない

         画家の作品をコピーしていたりして・・・

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国画会の皆様へ   

                                  国画会                                                                                                                

和田義彦会員への盗作疑惑報道について 昨年暮れに国画会事務局に届いた匿名の投書から始まったこの度の騒動について、国画会では再三に亘り慎重に検討を重ねながらも、誠に残念なことではありますが事後の責任は当事者本人が負うべきものであるとの判断から今まで静観してまいりましたところ、5月29日各種報道機関によって盗作疑惑報道されるに及び、国画会に所属する皆様にご心配とご迷惑をお掛けする事態に至りました。国画会では5月31日絵画部会務委員会を開催し最終的な対応策を慎重に協議し、和田会員に対して退会を勧告する決定をいたしました。この措置につきましては皆様どうぞ深いご理解を下さいますよう、また来年度からの国展の新しい出発のために今後とも変わらぬご協力の程をお願い申し上げます。

                                       以上

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   平成17年度芸術選奨 受賞者及び贈賞理由   美 術   

和田義彦氏は早くに西欧古典技法を習得、氏の高度な油画技術と正確な素描力と重厚な着彩とは、既に定評がある。その氏が平成17年に行った「ドラマとポエジーの画家 和田義彦展」(三重県立美術館、4月~6月ほか)は、初期から現在まで46年の作歴を示し、骨太な表現と変化に富む内容は圧巻であった。氏の作画世界は、群像等で劇的な情景を設定しているが、示唆するものは社会の不条理や人々の不安、孤独など内面の実存である。常に問題意識が現代の核心に触れていて、その時事性もまた評価できる。

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永井龍之介氏メッセージ

      なんでも鑑定団によく出演されています。

  この人の審美眼ってあるの?

         絵を鑑定して飯食っているんでしょ?                        

 

和田氏は、天性に加え、長年の絵画修養のうえに築き上げられた卓越したデッサン力、ヨーロッパルネサンス以来の数々の名画の模写、修復を通して獲得した素晴らしい構成、造形、表現力、そして豊かな感性を通して、詩的でドラマチックでロマン溢れる作品を描き続けています。当代屈指の画家です。

歴代実力者が受賞している安田火災(現在損保ジャパン)東郷青児大賞や洋画、日本画、現代美術の垣根をはずし、グレードの高い絵画全般のなかから選出される「両洋の眼展」河北倫明賞を受賞されるなど、近年美術界での評価も急上昇です。本年は、三重県立美術館、渋谷区立松涛美術館、茨城県つくば美術館の公立三館で個展開催中です。現役洋画家が同一年に公立三会場で個展を開催されることは稀有であり、画期的な出来事です。いま最も話題の画家として本コーナー第一回目にご紹介をさせて頂きます。また、10月には永井画廊にて和田義彦デッサン・挿絵展を予定しておりますので、是非お越し下さい。

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スギ氏はイタリア画壇でも有名な人だそうです。

その人の作品をコピーしていた和田氏に対する

         この称賛ぶりは一体どういうことなのでしょうか?

 

 文化庁をはじめ絵画の素人たちを

   画壇・画廊がぐるでだましていたのか?

 

          

和田義彦氏の「母子像」(96年)       アルベルト・スギ氏の「Virgo Laurentana」(95年

 

和田義彦氏「夢想」(04年)           アルベルト・スギ氏「ピアノ・バー、イタリア」(96年)

 

  これが盗作でなければ盗作って一体何?


文化人いろいろ

2006-04-13 01:55:27 | 文化人
「議論が尽くされていない」 →筑紫好みの結論が出ていないという意味

「内外に様々な波紋を呼んでいる」 →筑紫とその仲間が騒いでいるという意味

「皆さんにはもっと真剣に考えてほしい」 →アンケートで筑紫に不利な結果が出てしまいましたという意味

「心無い中傷」 →筑紫が反論できない批判という意味  

「異論が噴出している」 →筑紫が反対しているという意味

「ハー、ハー、フンフン」 →今愚民が話中です。というテレビの前の愉快な仲間達に対する合図

「とはいうものの」 →今までのことは忘れ、以下述べることだけを覚えろという意味

「でしょうか」 →そうなんだよ!わかったか愚民どもという意味

「この国」 →おれ(筑紫)がわざわざニュースを伝えてやっている愚民の国という意味

「今日はこんなところです」 →おれ(筑紫)がわざわざニュースを伝えてやったんだから、もう寝ろという意味