忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

暗きより暗き道へと入りぬべき~和泉式部

2012年03月10日 | 歴史を歩く

暗きより暗き道へと入りぬべき~
     和泉式部

 黒髪のみだれもしらずうちふせば
            まずかきやりし人ぞ恋しき
   物おもへば沢の蛍も我が身より
            あくがれいずる魂かとぞみる
 あらざらんこの世のほかの思ひでに
            今ひとたびの会うこともがな

いずれも後拾遺和歌集に選ばれた和泉式部の歌である。
先日、書寫山圓教寺を訪れた際、先ず迎えてくれたのが、この和泉式部と圓教寺との縁を書いた絵巻のパネルであった。
和泉式部-、大江雅致と平保衡の娘の子として生まれ、昌子内親王の女童とて内親王の廷内で育ち、長じて橘道貞に嫁す。道貞と共に任国の和泉の國に下るが、帰京後は不仲となり、冷泉天皇の第三皇子為尊親王と親しくなってその廷に召される。ところが親王が早世し、その後は親王の同母弟の敦道親王と親しくなって世間を騒がせる。親王との間に一子をもうけるが、寛弘四年(1007)に親王が亡くなり、一条天皇の中宮彰子の女房として出仕しする。長和二年(1013)、道長の家司の藤原安昌に嫁し、夫の任国である丹後へと下るが、帰京後は安昌ともうまくいかなくなって離別したようだが、そのあたりの事情は分からない。
親しくした男性は他にも多数あったらしい。
奔放な恋に生きた女流歌人である。

   暗きより暗き道へと入りぬべき
         はるかに照らせ山のはの月 

書寫山圓教寺の奥の院にある和泉式部歌塚の説明板によると、
この歌は、和泉式部が性空上人に教えを乞うべく圓教寺を訪ねた折り、
上人に居留守を使われ、その無念さを歌に詠んだもので、
この歌に感銘した上人は、
  日は入りて月まだ出ぬたそがれに
         掲げて照らす法の灯
と返歌した
と説明されている。
       
和泉式部の寺として知られる京都市中京区新京極の誠心院所蔵の和泉式部絵巻によると、
「宮廷歌人として名を馳せた和泉式部は、晩年、世の無常と来世への不安から、
女官2人を伴い性空上人に会うために書写山圓教寺を訪ねたが、門が閉ざされて入れて貰えなかった。
そこで
  暗きより暗き道へと入りぬべき…
の歌を詠んで開門を請うた。
歌に感じ入った上人は門を開けて和泉式部と対面した。
女人の身で西方浄土へと往生する道はないでしょうかと問う和泉式部に対し上人は、石清水八幡宮の八幡大菩薩は阿弥陀如来の化身だからこの神様を祈れば良いと教える。教に従い和泉式部は石清水八幡宮で七日七夜のお籠もりをする。すると夢の中に八幡大菩薩が現れ、私は神の道に入って久しいので仏の道は忘れた。京都の誓願寺の阿弥陀如来は一切衆生を極楽へ導いてくれるからこの寺でお祈りしなさいと告げた。お告に従い和泉式部が誓願寺で四十八日のお籠もりをしていると、夢に尼僧が現れ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば女人でも極楽往生できると告げた。これを信じてた和泉式部は出家し、誠心院専意法尼と名を改め、日夜、南無阿弥陀仏のお唱えを怠らなかった云々…」
となっている。

書寫山圓教寺での性空上人と和泉式部との対面はほんとうにあったのだろうか。
歌塚の説明板に書かれている「暗きより暗き道へと入りぬべき…」の歌は、和泉式部の作としては拾遺和歌集に載せられている唯一のもので、和泉式部の歌が多く世に出るのは後拾遺和歌集から後である。
拾遺和歌集が1006年頃に成立したとされていることからすると、この歌は和泉式部が恋に浮き身をやつしていた、まだうら若い年頃に詠んだ一首、ということになる(和泉式部の生年は974~978年とされている)。
歌の題には「性空上人のもとに、よみてつかわしける」とある。
ある言い伝えでは和泉式部は中宮彰子のお伴で圓教寺を訪れたともあるが、和泉式部が中宮彰子に仕えるようになったのは、敦道親王が没した後の1008~1011年頃のことで、性空上人はこれより先の1007年に寂している。

誠心院の和泉式部絵巻に出てくる誓願寺は京都市中京区新京極通三条下ルにある西山浄土宗深草派の総本山である。
 
誠心院は誓願時の東約100メートルの新京極通六角下ルにある。
 
出家した和泉式部は藤原道長より法成寺の東北門院の傍らにお堂を授かり、これが誠心院の始まりとされており、現在の地に移転したのは天正年間、秀吉の命による。
現在は新京極通に面するこじんまりとした寺であるが、これは明治四年に境内を切り取るようにして新京極通りが開設され、境内のほとんどが失われたことによる。
新京極通は廃仏毀釈の時代の遺産である。
それ以前の誠心院は寺町通に面するかなり立派な寺院であったようだ。
今は真言宗泉涌寺派の末に連なる。
お堂の前には和泉式部の歌碑があり、その傍らで紅白の梅の蕾がふくらみ始めていた。
お堂の横の墓地の一角に和泉式部の墓とも称される宝篋院塔があり、現在は総門とは別に新京極から塔へと入る門が設けられている。
                            
和泉式部がこの寺の住職となったのは、かなりの齢を得てからと考えられる。
拾遺和歌集に載せられた歌の「暗きより暗き道へと入りぬべき…」の上三句は、法華経の巻第三化城喩品第七の「衆生常苦悩、盲冥無導師、不識苦尽道、不知求解脱、長夜益悪趣、減損諸天衆、従冥入於冥、永不聞仏名」の「従冥入於冥」や無量壽経巻下の三毒五悪段の「悪人行悪、従苦入苦、従冥入冥」の「従冥入冥」から来ていることは疑いない。
「冥」とは煩悩ゆえに苦の三塗へと展々輪廻し出離を果たせぬ衆生の生き様をいう。
和泉式部が生きた時代は法華経が宮廷貴族の間で広く読誦され、末法思想を背景として浄土教が広がりつつあった時代と重なっている。
まだうら若い娘時代に、習い覚えた仏典の言葉を巧みに折り込み才気にまかせて詠んだこの歌の心を、読み人である和泉式部本人がほんとうに理解できるようになったのは、最後の夫とも離別し、娘の小式部にも先立たれ、孤独な老を迎えて後のことではなかったろうか。


1 コメント

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勉強になりました。 (あき)
2024-01-05 23:11:48
和泉式部は魅力的な歌を詠む方ですね。清少納言や赤染衛門、紫式部の歌で印象に残る歌はあまりないのですが、くらきより…は一番大好きな和歌です。勉強になりました。有難うございました。
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