忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

氷室の池の寺~勧修寺

2012年03月18日 | 歴史を歩く

      氷室の池の寺~
    京都山科勧修寺

その昔、「氷室の池」に張る氷を宮中に献上し、その厚さによってその歳の五穀の豊凶を占ったとか。
京都市営地下鉄東西線の小野駅から西へ、山科川を越えてさらに一丁ほど歩いた所にその寺はある。
西には東山の裏峰を、東には醍醐の山を望む風雅の地である。
白壁の築地塀の長い参道を歩き詰めたその先に寺の山門がある。
春は桜のアーチとなる。
 
勧修寺、正確には亀甲山勧修寺。真言宗山科派の総本山である。
醍醐天皇の発願によって母の藤原胤子の菩提を弔うため母の生家である宇治郡の大領、宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺にしたものといわれる。
代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えた。
宮道弥益の娘列子と藤原高藤とが結ばれた縁については今昔物語に説話が残されている。
原文はかなり長文なので、これを分かりやすく要約すると次のようなことになる。

…藤原冬継(北家、藤原宗家)の子の良門に高藤という息子がいて、幼い頃から鷹狩を好んだ。高藤が15、6歳になった9月のある日、南山階へ鷹狩に出た。夕刻になって空がにわかに暗くなって雷鳴がとどろき強い吹き降りに見舞われた。供の者はそれぞれに雨宿り先を求めて散っていった。高藤は馬飼いの供一人を連れ檜垣を巡らし唐門のある家の軒下に雨宿りした。すると青鈍の狩衣に袴をつけた齢40過ぎと思われる男が出てきて
「どうぞ家の中でお休み下さい、濡れた衣も乾かしてさし上げましょう」
と招じ入れた。好意に甘えて座敷にあがり、やれやれと寛いでいると、歳の頃13、4と思われる見目麗しい女が現れて酒食の世話をしてくれた。高藤はその女に心惹かれ、一夜を共にして女と深い契りを結び、将来を堅く約束して太刀を形見に残して帰った。その後も高藤は女に会いたかったが、道案内をしてくれた供の者が暇を請うて田舎へ帰ってしまったので、女を訪ねることが出来ないままに年月が経ってしまった。何年かしてまた案内をしてくれた馬飼の男が田舎から戻ったので久方ぶりに女の許を訪ねた。すると、女は見違えるほど大人びて美しくなっていて、傍らに5、6歳の女の子がいた。女の父の弥益の話によると子は去る年に高藤が女と契った夜に妊った我が子と知り、母子共々我が家に呼び寄せ、他の女には目もくれずその女を妻として慈しんだ。その女(列子)の産んだ子(胤子)が長じて宇多天皇の女御として入内し、産んだ皇子が後の醍醐天皇である。
列子は高藤との間に次々と男の子二人を産み、それぞれに出世し、高藤も内大臣にまで昇進した云々…
           (巻二十二の第七「高藤の内大臣の語」の段)

賤の親の娘が藤原宗家に連なる係累の御曹司に娶られ、その子が入内し皇子を生み、やがて國母となる。
今昔物語の結びではないが、「…此くめでたき事も有るは、此れ皆前生の契りなり…」である。
今の世に言うシンデレラ物語である。
中門を入ると、境内の右手奥に宸殿、書院、五大堂、本堂が並ぶ。
宸殿、書院はは明正天皇の旧殿を下賜されたものとか。
本堂は霊元天皇の仮内侍所を下賜されたものといわれ、本尊は千手観音菩薩である。
庭には親、子、孫の三代の梅の木(臥龍の老梅)があり、今は孫の梅のみが開花する。
その南に樹齢750年という偃柏槙(はいびゃくしん)が茂り、その樹の茂みに抱かれるようにして勧修寺灯籠が立っている。水戸光圀が寄進したものという。
 
 
        
庭は勧修寺氷池園という池水回遊式の庭園になっていて、氷室の池の畔には観音堂が立っている。
梅、杜若、睡蓮、紅葉など季節季節の風情を鑑賞できる。
 
どこにレンズを向けても絵になる寺である。


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