忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

紀州加太-淡嶋神社

2016年10月10日 | 旅ぶらり
南海和歌山線を紀ノ川駅で降りて加太線に乗り換え、終点の加太で下りる。
しばらく歩くとそこは加太漁港である。
古い家なみの集落をぬけるとその先に朱塗りの鳥居が見えてくる。
淡嶋神社(加太神社)である。





全国に約1000社、といわれる淡嶋神社の総本社である。
祭神は少彦名命、大己貴命、息永足姫命の三柱である。





少彦名命は高皇産霊神の子で医薬の神、大己貴命は国譲りの大国主命、息永足姫命は仲哀天皇の皇后で天皇の死後に自ら兵を率いて三韓征伐をしたとされる神宮皇后その人である。





医薬の神といわれる少彦名命と姫神である息永足姫命を祭神とするだけにこの神社は婦人病や安産、子授けに功験があるといわれ、昔から参詣客の多くは女性である





人形供養の神社としても広く知られ、本殿の中も、





そして境内にも参詣客が供養のため納めた雛人形、市松人形など、あらゆる人形でいつぱいである。




神社では納められた人形をしばらくあずかり、定期的にお清めと魂抜きのお払いをしたの後に焼却する。





祭神の息永足姫命が三韓征討の帰路に海が荒れ、お祈りをすると「船の苫を海に投げ、その流れるままに船を進めよ」とのお告げがあり無事に友が島までたどり着いたのを感謝し、持ち帰った宝物を友が島で少彦名命と大己貴命の二神に奉納したのが神社の起こりで、後に子の仁徳天皇が友が島から加太の地に社を移したと神社の縁起が伝える。

神社のすぐ目の前紀淡海峡にその友が島の島影が浮かんでいる。

源平ゆかりの古刹-須磨寺

2016年09月29日 | 旅ぶらり
山陽電車を須磨寺駅で下り、駅前商店街をぬけると、やがて前方に山門が見えてくる。
真言宗須磨寺派大本山の上野山福祥寺(通称須磨寺)である。




周辺は須磨離宮公園や須磨寺公園などがある閑静な環境地域だが、参道へと通じる須磨寺商店街の辺り一帯は門前町をなしている。





朱塗りの龍華橋を渡り仁王門をぬけると参道の両側に塔頭寺院が建ち並ぶ。
参道右(東側)奥の蓮生院は源平の闘いで平敦盛を討った源氏武将の熊谷直真の出家後の法名に因む。
直真は戦いの後、法然の下で出家し、蓮生坊と名乗った。





蓮生院と参道を挟んで向かいあって平敦盛と熊谷直真が須磨海岸で演じた一騎打ちの場を再現した源平の庭がある。





参道奥の階段の上に壇上伽藍が建ち並ぶ。





本堂は度々焼失しており、現在のものは豊臣秀頼によって再建されたものと伝えられる。
本尊は聖観世音菩薩、脇侍は毘沙門天と不動明王である。




寺伝によれば、和田岬沖の海中から引き上げられた聖観音を安置するため淳和天皇の勅願により会下山に恵偈山北峰寺が建てられ、その後、光孝天皇の勅命により聞鏡上人が現在の地に上野山福祥寺を建てて北峰寺から聖観音像を遷して本尊としたのが須磨寺の起こりとされている。





寺の正式な名称は上野山(じょうやさん)福祥寺であるが、須磨寺の名で親しまれている。





三重の塔は昭和59年に再建されたもので室町時代の様式の塔である。
境内にはほかに護摩堂、大師堂、本坊・書院、鐘楼などがあり、





源平縁りのものとしては敦盛塚(首塚)が、そして敦盛首洗い池、弁慶腰掛けの松などの史蹟がある。
一の谷の戦いで熊谷直真に討たれた平の敦盛の首はこの寺に、その胴は須磨浦公園の「敦盛塚」に葬られたと伝えられる。
敦盛が愛用したといわれる「青葉の笛」もこの寺に納められている。





境内奥の山の上に奥の院がある。





奥の院への参道は十三仏・七福神巡りの札所が置かれ、九十九折りの参道階段の踊り場には十三仏・七福神の祠が置かれ納札所となっている。
それぞれの祠に札を納め、最後に奥の院に納札して満願となる。

須磨寺は他の古刹にはない独特の趣がある寺であり、神戸観光の名所の一つとなっている。  

京都西山-大原野神社

2016年07月11日 | 旅ぶらり
都が奈良から長岡京へ、さらに平安京へと移ると、京都の西山に優美でなだらかな峰を連ねる小塩山に、かつて奈良の春日山や高円山に寄せていたのと同じように神が宿る山という思いを懐くようになった。

嵯峨天皇を嗣いで即位した淳和天皇は、自分の死後、亡骸は稜に葬らず小塩山に散骨するよう遺言し、遺言どおりその遺骨は小塩の峰に散骨された。





その小塩山の麓に広がる大原野は大宮人から奈良の春日野のように愛された。
藤原氏によってその大原野に氏神である奈良の春日大社を勧請して造られたのが大原野神社で「京春日」とよばれ、朝廷から特別の尊崇をうける22社の一つとされた。

源氏物語の作者である紫式部も大原野神社を自らの氏神と崇め、源氏物語の中にも登場させている。





藤原氏は女子が生まれるとその子がやがて入内し、中宮や皇后へと出世するよう、先ずはこの神社にお参りし、宿願が達せられる盛大な行列をしたててお礼のお参りをしたと伝えられる。





神域は8万3000平方メートル、うち6万6000平方メートルが緑の森で秋は紅葉の名所となる。

奈良の猿沢の池を模して作られた鯉沢池には杜若や睡蓮が咲き、境内の瀬和井(せがい)は名水が湧く井戸として和歌に多く詠まれた。

大原や せがいの水を手に結び
            鳥は啼くとも 遊びてゆかむ
                  (大伴家持)         
  



境内の千眼桜は3日で散るといわれ幻の桜とされている。





毎年秋、五穀豊穣を神に報謝する御田刈際が行われ、神相撲が催される。





この季節、神域はとても静かで、緑の杜はすがすがしい冷気につつまれる。

南山城の古刹-大御堂 観音寺

2016年06月28日 | 旅ぶらり
ここは京田辺市普賢寺下大門、
普賢寺川のせせらぎが聞こえる静かな里である。
観音寺は普賢寺とも呼ばれる。
現在は真言宗智山派のお寺である。





発祥は古く、白鳳時代に天武天皇の勅願により法相宗の義淵が開基した観心山親山寺に遡る。
奈良時代の天平16年(744年)に聖武天皇の御願により、良弁が伽藍を増築し普賢教法寺と呼ばれるようになった。





最盛時には五重塔を含む諸堂13、僧房20余を数える大寺院であったが何度も火災に見舞われ、その都度、藤原によって再建が果たされきた。
かつてはこの寺が藤原氏の氏寺である奈良興福寺の別院であったからである。
しかし、永享9年(1437年)の火災以降、寺勢は衰微に向かった。





現在は本堂(昭和28年再建)と庫裡、鐘楼だけが残る。
本堂の本尊である十一面観音立像は普賢教法寺に天平16年(744年)に安置されたもので、国宝である。
木芯乾漆造の見事な天平仏である。





境内の背後の田辺丘陵は京阪奈学研都市の一部として開発が加えられ、昭和61年(1986年)、同社大学の京田辺キャンパスが開かれ、JR学研都市線の同志社前駅も新設された。

しかし、この観音寺の周辺は普賢寺川のせせらぎと田園、そして木々の緑に包まれる昔ながらの静かな里の風情が今もしっかりと残されている。





春には田に菜の花が、そして参道、境内に桜が開花し、御堂は春の彩りにしっとりと包まれる。

百合の花咲く夢の島-大阪舞洲

2016年06月12日 | 旅ぶらり
見わたす限りユリ、ユリ、百合の花盛りである。





日本に生息する百合の種類は約15種といわれるが、ここは何と約50種類、その数は250万本といわれる。
まさに百合の楽園である。
その一本、一本いま見頃を迎え互いにその妍を競い合っている。





ここは大阪市此花区、といっても市街地の中ではない。
埋め立てによって出来た舞洲である。





白、赤、ピンク、黄色、オレンジ、鹿の子など、その彩りは誠にカラフルで、鈍びた水無月の海によく映える。





見物客の日傘ともうまくコラボして見る人の詩情をさそう。




かつてのゴミの島、舞洲は、この季節、百合の咲く夢の島となる。





また立ちかへる水無月の
     
嘆きを誰にかたるべき
     
沙羅の瑞枝に花さけば
     
かなしき人の目ぞ見ゆる

    (芥川龍之介 相聞)

東京青梅-草思堂(吉川英治記念館)

2016年05月30日 | 旅ぶらり
吉川英治が東京赤坂からこの西多摩郡吉野村(現在の青梅市柚木町)の古い民家を買い取って移住したのは昭和19年3月のことである。





そして、ここで翌20年8月に終戦を迎えた。
日本の敗戦に強い衝撃を受け、その日から吉川は筆を断った。
これまでの自らの執筆への姿勢や人間とはどう生きるべきなのかといった問題について突き詰めて考え直す必要を感じていた。





吉川は父の事業の失敗によって若くして苦難の人生を余儀なくされ、職業を転々としたが、大正3年に講談倶楽部のに応募した懸賞小説「江の島物語」が一等当選を果たして文壇にデビューし、「親鸞記」「剣魔侠菩薩」「鳴門秘帖」「江戸三国志」など次々と作品を発表し、昭和10年には朝日新聞に「宮本武蔵」を連載して文壇に揺るぎのない地位を築いていた。





この吉野村で晴耕雨読の生活を送るとともに地元住民との交流に勤め、俳句の指導や公民館建設への尽力など通じての地元へも多くの貢献をした。

庭に生える椎の大木は樹齢500年とも600年ともいわれ、吉川は樹下に毛氈を敷き、夫人の点てるお茶を飲んだといわれる。





その吉川が週刊朝日に「新・平家物語」の連載を始めたのは昭和25年4月のことである。以来、物語の完結に至るまで足かけ7年にわたって連載を続けた。





その連載小説の中で吉川は平安末期の摂関政治の廃頽によって新しく台頭してきた武家の平氏と源氏の権力を巡る修羅の争いの歴史の中に、本来なら決して登場する筈のない庶民の阿倍麻鳥なる貧しい薬師夫婦を隠れた主人公として登場させ、人間が追い求めるの真の幸せは摂関家が同族相争う堂上における位階や栄爵や、武家が権力を巡って争う修羅の営みによっては決して得ることが出来ず、かえって権力者のこうした営みによっていつも苦しめられ、虐げられている貧しい庶民のささやかな日々の営みの中にこそしっかりと花開くものであることを語ってみせた。
こうした物語の展開は、宮本武蔵などの戦前の作品にはなかったもので、断筆後初めての大作である新・平家物語で吉川は新たな境地を開いたと言える。




単行本にして全16巻というこの長編の歴史小説は約半世紀を経た現在も世代を問わず広く読まれている。
吉川の小説が国民文学と呼ばれる所以である。





その後も吉川は毎日新聞に「私本太平記」を、さらに日本に「新・水滸伝」の連載を始めたが、病を得てその完結を待たずに永眠した。
享年70歳であった。

「我以外 皆 我師」は、吉川が好んで書いた座右の銘である。

南山城の古刹-蟹満寺

2016年05月13日 | 旅ぶらり
木津川市山城町綺田(かばた)の蟹満寺は今昔物語集巻16の「山城国女人依観世音助遁蛇難語第十六」にある蟹のご恩報じ説話の寺として知られている。





信心深い土地の娘が村人が食べようとしている蟹を助けて川に放生した恩で、蟹が娘を大蛇の被害から救ったとされる説話で、娘がその地に蟹に殺された大蛇の屍骸を埋め経巻を写して供養したのが寺の起こりであるとれている。





似たような説話は日本霊異記にもある(日本霊異記中巻第十二「蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報に蟹に助けらるる縁」)。





寺の歴史は古く平成2年(1990年)の発掘調査で7世紀末の遺構が見つかっており、白鳳期に秦氏の一族によって建てられたと言われている。





現在の本尊の阿弥陀如来丈六座像は白鳳期の金銅仏(国宝)で、その黒光りする姿は奈良薬師寺金堂の薬師三尊の薬師如来座像を彷彿させるすばらしい仏像である。





平成12年(2010年)に250年ぶりに改築され、新しい本堂に建て変わっている。
現在は真言宗智山派の寺である。

蛙なく井手の玉川

2016年04月25日 | 旅ぶらり
  かはず鳴く 井手の山吹 散りにけり
        花のさかりに あはましものを
               
                 (よみ人しらず 古今集)





山吹の名所として知られた井手の玉川は、また蛙の鳴き声でも知られていた。

   色も香も なつかしきかな 蛙なく
            井手のわたりの 山吹の花

               (小野小町 小町集)





   駒とめて なほ水かはむ 山吹の
            花の露そふ ゐでの玉川

                (藤原俊成 新古今集)


かつては野をさらさらと流れる小川で、岸辺には山吹が咲き、思わず駒を止め、馬に水でも飼いたくなる清流であったのだろう。





しかし、その玉川は永い年月の間に土砂が河床に堆積して今は天井川となり、両岸に築かれた堤防には桜が植えられ、





季節ともなれば、さくらまつりが催され、多くの花見客で賑わう。
かつて山吹の花で歌枕となった井手の玉川はいまは桜の名所となっている。





人も野もすべては移ろう世のならい、であろうか。

竹の寺ー地蔵院

2016年04月18日 | 旅ぶらり
京都市西京区の松尾山の麓、西芳寺川の流れる松尾谷の竹林に囲まれて建つ地蔵院は訪れる人から「谷の地蔵さん」、「竹の寺」などと呼ばれている。





藤原家良の山荘があった場所に南北朝時代の貞治6年(1367年)に管領の細川頼之が無窓国師の高弟宗鏡禅師を招請して建立した禅寺で、開祖は夢窓国師、現在は臨済宗の単立寺院である。





本堂には本尊の地蔵菩薩を中央に夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像が安置されている。





方丈庭園は「十六羅漢の庭」として知られる平庭式枯山水庭園であるが、写真撮影が許されていない。
庭には白木蓮が静かに開花していた。





南北朝時代は北朝系の崇光、後光厳、後円融の三代の御願寺として境内17万平方メートルを有する大禅刹となったが応仁文明の乱で全寺灰燼に帰した歴史がある。





いまは境内の竹林を歩いていると静けさに吸い込まれそうな静かな寺である。





    散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
             花も花なれ 人もひとなれ

方丈の柱の色紙に書かれたこの歌、

細川ガラシャ(細川忠興の妻)が命を絶つときに詠んだとされる辞世の和歌である。

春の桂川河川公園をぶらり

2016年04月14日 | 旅ぶらり
春の一日ぶらりと桂川河川公園を歩いた。
数日続いた春寒がうって変わったように暖かく汗ばむ一日であった。





写真の中央部に写るのが桂大橋でその西詰に写る森は桂離宮である。





堤防には菜の花が満開で花の黄色が周囲の緑に映えとても美しい。





日本では農家が菜種を栽培しなくなって久しく、
   菜の花畑に入り日薄れ…
と童謡に歌われた景色がすっかり過去のものとなってしまったが、最近ではこうした河川の堤防や野原などで自生の菜の花を見かけるようになった。





それはそれで春らしくうららな景色なのだが、私などは毎年菜種の収穫時期になると農作業に駆り出され、収穫の作業にこき使われた辛い思出がフラッシュバックしてきてせつなくなる。





大きく枝を大きく茂らせる巨樹は楠のようである。
堤防に植えるのは護岸のためであろか。





散り初めた桜がまだかろうじて花を残している。
堤防の東岸に接して流れ下るのは天神川で、少し下流で桂川に合流する。





このあたり川の西岸は桂、東岸は西京極である。