言いたい放題

コメント大歓迎…チューチューマウスと仲間たち

江戸探訪「八丁堀」●八丁堀の七不思議

2005-02-03 10:51:21 | 眇め草紙
江戸探訪「八丁堀」●八丁堀の七不思議
  (イラスト:八丁堀の旦那)

八丁堀の七不思議には諸説がある。ここでは三説を取り上げた。まず、安藤菊二著の「八町堀襍記(ざっき)」から紹介してみる。(編者が現代文に置き換えるなど、抄訳した)

★(出典)「八町堀襍記」安藤菊二著、郷土史だより、第43号、1984.3.31京橋図書館発行 
(前文略)…八丁堀の方は、ねっから不思議でないところに話の落をつけて喜んでいるのだから他愛もない。それに同じ七不思議も語り手に若干相違がある。どれが正論だと力むこともないが、元八丁堀の与力、佐久間長敬翁の「嘉永日記抄」に載るものは、さすがに真実味が篭もっていて、これは正論だという感じがする。
①「奥様あって殿様なし」
与力の妻を奥様、奥様と敬語を使い、主人を旦那様といって、殿様とはいわない。江戸時代の殿様というのは御目見以上(旗本)を呼ぶ敬称なので、与力(御家人)は殿様といわない。
② 「女湯に刀掛けがある」
同心の足洗ということだったが、やがて大衆の入る銭湯に変わったことで、同心は朝のうちに女湯に入るので刀掛けが必要だった。
③「ドブ湯」
前記の風呂屋のこと。元は足だけを洗うためだったので、〈ドンブリ入る〉と言う言葉を約して〈ドブ〉といった。
④ 「鬼の住居に幽霊が出る」
幽霊横町のこと。鬼とは与力同心をいう。
⑤ 「地蔵の像なくして地蔵橋がある」
組屋敷内の旧与力・多賀仁蔵の門前に石の橋があって、「仁蔵橋」と称していた。その家が潰れた後、与力の共有にして「地蔵橋」と改称した。また昔、橋の際に小さな石地蔵があったが、大火のために焼き崩れたともいう。
⑥ 「百文あれば一日快楽のできる土地」
貧乏小路に住んでいる者の言葉。渡し船を渡る船遊びといい、入湯、ひげそり、めし、さけ、その他が極めて安値で快楽である。
⑦ 「一文なしで世帯が持てる土地」
背割長屋に入ると、敷金も道具もいらないで、一日稼いで幾らか手に入れば、一膳飯屋で腹がいっぱいになる。飲みたい者は酒屋の店先で枡を冠る。ちょっと塩をなめ五合くらい。
時折火事があれば出役の同心の後を追ってその場に駆付ける。布団一枚くらいとるは見逃す。八丁堀同心の長屋に住んで、多少その顔を見知られることを私かに得意とした(与力・同心は自分の家を又貸しした)。

◇幽霊横町は、名前のように両側は与力屋敷の高い塀、ちょうど後ろ向きの暗い新道で、夜な夜なしらしらとしらけた首も飛び出し、通行人のそでを引きとめるなど、怪談もある。
◇貧乏小路は、まこと貧民窟であると記している。
この横町に住む同心のうちに、自分の拝領屋敷内に背割長屋を作る者があり、軒並み背割長屋のスラム街ができてしまった。安永4年吉文字屋次郎兵衛版の「築地八丁堀日本橋南絵図」にも、地蔵橋に近い竹島町の南側に「百間長屋」とある。
背割長屋はこけら葺の平屋で、間口は9尺、奥行2間、表は雨戸2枚、踏み込みは土間で、部屋は3畳1間、裏は3尺のあげ板敷、雨戸1枚建つばかり、安普請だが、家賃も安く、日掛50文ずつであった。
路地は3尺隔てて、幾棟も建て込んでいたから、貧乏長屋の称があった。
ここに住むのはその日稼ぎの者で、男女ともに与力同心の家に出入りするか、あるいは与力の下男などに懇意な者が多かった。それゆえ、沢庵、漬け菜の類を貰ったり、来客の食あまったものなどももらえた。その代わり、中間小者の衣類の洗濯などは、この連中が引き受けていたので、貧民窟といっても、場末のそれに比べるとずいぶん来やすいところであった、とある。
家に女中の7、8人もおき、両刀を帯して、着流しの雪駄ばき、一目でそれと見てとれる、八丁堀の旦那衆の住む町のすぐ近くに、こうして吹き溜まりの人生があったことを、与力は八丁堀の七不思議の中に数えていたのである。

★また、次のような七不思議もある。(出典)文:中村整史郎(作家)、「江戸町奉行」歴史群像ライブラリー3、学習研究社1995
①「奥様あって殿様なし」
200石(200俵)取りの旗本は殿様、その妻は奥様と呼ばれていた。しかし、町奉行所与力の場合は「旦那(だんな)様」と呼ばれ、妻のほうは他の旗本なみに奥様と呼ばれた。
主人が旦那様なら、妻は御新造(ごしんぞう)様でないと釣り合わない。それなのに主人が殿様でなく、妻だけが奥様というのが不思議というわけである。
普通、与力格の妻は玄関に出たり、外部の者と接触しなかった
なかったが、町奉行所与力の妻は例外であった。夫の職務柄、来客は頼みごとが多いが、いかめしい男よりも女性のほうが訪問しやすく、頼みごともしやすい、ということで妻が活躍するようになった。このため、しっかり者でなければ勤まらなかったので、一般から尊敬され、『奥様』と呼ばれていたのである。
②「女湯の刀掛け」
町奉行所の与力・同心は毎朝、女湯へ一番先に入った。このため女湯に刀掛けが用意されていた。女湯に入ったのは、女性は家事などの関係で早朝から入浴しなかったのと、隣りの男湯の話しを盗み聞きするのに都合がよかったからである。
③「金で首がつなげる」
八丁堀の与力の家には、頼みごとのための来訪者が多かったので、「金を出して頼めば、斬られた首もつながる、つまり賄賂(わいろ)がきく」、という噂がたち、こんなことが囁かれたらしい。
④「地獄の中の極楽橋」
八丁堀組屋敷内に「極楽橋」という小さな橋が架かっていた。犯罪者を断罪する八丁堀役人を『地獄の獄卒(ごくそつ)』と考え、彼らの住んでいる組屋敷を地獄に見立てたのである。だから、その中に極楽橋があるというのは不思議と考えられたのである。
⑤「貧乏小路に提灯かけ横丁」
八丁堀組屋敷内に提灯(ちょうちん)かけ横丁というのがあった。「掛け」か「欠け」か、不明だという。貧乏小路とは30俵2人扶持の同心の生活が苦しいと諷(ふう)したのであろう。八丁堀同心の台所は豊かで、他の同心たちのように傘張りなどの内職をしないでも悠々暮らすことができた。外部の者にはそんなことはわからないから、柱二本を立てただけの木戸門から見える組屋敷は、ほかの同心組屋敷同様、貧乏くさい感じがしたらしい。
⑥「寺あって墓なし」
万治(まんじ)のころまで八丁堀一帯は寺町であったので、その寺々の名が小路名として残っていた。そこかから、寺の名前があるが墓がまったくないのは七不思議の1つに数えられるようになった。
⑦「儒者、医者、犬の糞」
犬の糞というのは、いたるところに落ちている。その犬の糞のように八丁堀には多数の儒者(学者)や医者が集まっていたというわけである。
江戸後期になると、与力や同心が拝領した屋敷地は、小遣い稼ぎや生活費の足しにするため、その一部を人に貸し与えるようになった。表向きは、武家屋敷地には武士以外住むことを禁じられていたので、内密に貸していたのである。
しかし、町人では何かと問題を起こしたりする心配があったので、儒者や医者に貸すようにした。このため、八丁堀一帯にはこれら職業の人が集まるようになったのである。

★さらに、七不思議はこのようにもいわれる。(資料)「わが町のあゆみ」、八丁堀3丁目西町会刊、昭和50(1975).5.5発行
①女湯の刀掛け――同心が一般住民との混浴を嫌い、一般が入る前に女湯を使ったため、刀掛けがあった。
②貧乏小路の提灯横町――貧乏長屋でありながら、提灯をぶら下げてあった。(内職の提灯を干していたか)
③金で首がつながる――金(カネ)さえ出せば、という政治に対する風刺か
④奥様あって、殿様なし――(前出とおなじ)
⑤地獄の中の地蔵橋――裁きによって討ち首になる刑場は地獄だが、その側に地蔵橋があった。
⑥血染めの玄関――同心の間米藤十郎が丸橋忠弥召し捕りの際、そのときの功によって玄関を許された。(子孫の間米長十郎氏は八丁堀3-14に居住していた)。「間米の玄関」
⑦寺あれども、墓なし――亀島山玉円寺のこと。文久時点の切絵図には玉子屋新道(現、八丁堀3-15-10)の角にある。寛永年間、幕命によって他の寺は移転したが、この寺は命に服さず、現在地で墓地を置くことを禁じられた。

平成17年2月3日

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。