玖波 大歳神社

神社の豆知識

二 古代社会の変化  三 仏と神の両立

2012-01-24 20:11:08 | 日記・エッセイ・コラム

 三 仏と神の両立
 推古天皇と厩戸皇子は蘇我氏との関係からも、また、十七条の憲法の二条「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」からも仏教を国家的な宗教にしていったことは明らかである。しかし、「古来、皇祖の天皇たちが、世を治めたもうに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心を尽くしてよく神祇を拝するように。」と言われ、皇子と大臣は百寮を率いて神祇を祀り拝された。一説には、「十七条の憲法に神についての規定が何も無いのは、神は皇子を始めそれぞれの先祖のことなので、不滅であることは絶対のことであり、大和の国の何人も疎かに出来るはずが無いことは明白で憲法に取り上げることではなかった。逆に、随帝国の統一に危機感を抱き政治の安定と強化を図る目的で仏教をすすめ、その他にも儒教・法家・道家と言った文化思想哲学を取り入れようとした。」とするものがあり、それは素直に当時の状況を捉えたものであるように思う。
 後の孝徳天皇は仏法を尊んで神道を軽んじられたとされているが、天武天皇の時代になると祈年祭を始め広瀬竜田の神祭り、大祓、大嘗祭等々の祭祀が行われたことが頻繁に出てきている。このことは、天皇が帰依しても、仏教が隆盛しても、祭祀は全く途切れることなく連綿と続けられていることを示している。それどころか仏教が定着するに伴い、今までの神祇制度を「神道」として国家的祭祀・信仰として自覚的に意識されてきた。そしてそれは、「飛鳥浄御原令」(六八九)「大宝令」(七〇一)「養老令」(七一八)の神祇令により法的に整備・確立されていくことになる。
 神仏習合の例として、気比神宮にまつわる伝説に『奈良時代、藤原不比等の夢に気比神宮の祭神(伊奢沙別命)が現れて「神の身に自分は生まれてしまったけれども、仏法を聞いて悟りを開きたい。是非神社の横にお寺を造ってほしい」とのお告げがあり、藤原不比等は気比神宮の横に気比神宮寺を造った。』というのがある。これが本地垂迹の初例であろう。
 本地垂迹説では、無始無終で絶対的・理念的な存在である仏(ホトケ)を「本地」と言い、衆生を救うために歴史的・現実的に具体的な形で現れることを「垂迹」という。それが真理であれば、日本においても当然起こるべきで、日本の在来の神はすべて仏が垂迹した姿である。故に、神と仏は同じであるというのである。そのようなことで、まず、神は仏法によって悟りを開き、菩薩になることができ、それが宇佐八幡大菩薩などの八幡宮に代表されるものである。更に時代が進むと神と仏は同じもの(神は仏が仮の姿で現れたもの)となっていった。これが熊野権現・東照権現などの権現である。その上、神の中には仏を守る法相擁護の神になったものもある。その例として、藤原氏の氏神である春日の神の逸話「春日権現験記」などがある。現代巷では、尊く偉い死者を神と祀り、一般の近親者を仏ということがよくある。なんとなく本地垂迹が逆転したような思いになる。
 律令制度のもと労役のために多くの人々が動員されたが、期限が過ぎても苦しい生活が待っている故郷に帰ろうとせず、都やその周辺に留まり流民化していった。行基ら一部の僧侶は奇跡や呪術を駆使して民衆布教を行い、流民救済を行った。朝廷はこれを邪教として弾圧していったが、民衆の支持を得ており、聖武天皇は、東大寺大仏建立にその力を利用した。この聖武天皇は大変仏教を重んじ大切にしていたが、だからといって神を粗末にしていたわけでもない。東大寺建立のために左大臣橘諸兄を伊勢神宮に遣わし、建立の御神許を請いに行かせている。また、宇佐八幡にも勅使を出して託宣を得さしている。このことは、神を上位に置いていることを示している。
 称徳天皇の時代、僧侶道鏡が政治を行うようになり、天皇は「仏法を護るのが神である。」と詔され、皇室守護神も仏教政治の影響を受けるようになる。しかし、宝亀元年(七七〇)に天皇崩御と共に道鏡が失脚し、反動として伊勢の大神宮寺が神宮の遠方に移されるなど、仏教重視から神祇尊重へと移行していったと思える。この後、平安時代に入っていくと「神道」も「仏教」も新たな展開をしていく。
 この時期学問として、また哲学としての仏教が、それまで行っていなかった加持祈祷を盛んに行うようになってきた。その代表例が天台宗と真言宗と言えよう。どちらも護摩を焚くことを常として教義に関する研究の充実をあまりしていなかったようである。その天台宗・真言宗が神仏混淆の理論を発芽させていくこととなる。
 最澄が帰朝(八〇五)して比叡山にて天台宗を開いたとき、唐の天台宗国清寺に祀られている山王祠(釈迦が法華経を説いたという印度の霊鷲山山王説もある。)を手本に大山咋神を祀る日吉神社を山王権現としたと言われている。また、その弟子円珍の時から法相擁護の神として祀られたと言う説もある。
 翌年空海が帰朝(八〇六)し、高野山に真言宗を開いたとき、丹生明神の託宣を受けて鎮守社として丹生都比売社を祀ったとされる。これらが後に山王一実神道・両部神道になっていく。(両部神道の名は、密教において、宇宙は大日如来の顕現で、それを中心に諸仏・諸菩薩・諸明王や守護神・鬼神を密教の二大法門である金剛界と胎蔵界に分け、配していることになっており、この金剛と胎蔵の両部から付けたものである。)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 二 古代社会の変化  二 ... | トップ | 二 古代社会の変化  四... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記・エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事