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倭人についての記述

2020-09-28 11:12:59 | 日記・エッセイ・コラム

倭人についての記述

「倭人」という語の起こりは、黄河流域を現住地として政治的・軍事的に覇権を掌握した民族が、とりわけ秦・漢の時代以降、彼らの迫害によって四散亡命した長江流域の現住民に対して、蔑んでつけた卑称で、長江流域に発祥し、稲作と高床式住居を顕著な文化的特性として東南アジア諸国からインドネシア諸島嶼、朝鮮半島中南部、日本列島に移動分布した民族のことです。
倭についての中国書には、『論衡』・『山海経』・『漢書』・『後漢書』檀石槐伝・『魏志』倭人伝・『晋書』・『宋書』・『南斉書』・『梁職貢図』・『梁書』・『北史』倭国伝・『南史』倭国伝・『隋書』東夷傳・『旧唐書』・『新唐書』・『通典』などがあります。
『論衡』
周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、成王の在位は前1042年~前1021年とされていますが、『論衡』自体は1世紀に書かれたものです。
『山海経』
概ね前三世紀後半以降の文献と認められます。
『漢書』地理志燕地条・地理志呉地条
中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのが、紀元前1世紀頃の『漢書』地理志です。
中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書で、二十四史の一つです。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれています。
『後漢書』檀石槐伝
范曄は字を蔚宗と言い、幼い頃から学問に長じ、経書に通じて文章・音楽を良くしたといいます。南朝宋の創始者の劉裕に仕えて尚書吏部郎となったが、432年(元嘉9年)に事件を起こし、左遷されて宣城郡太守になり、在任中に『後漢書』を著したとされています。范曄が執筆したのは本紀と列伝のみです。志については、范曄が後に文帝の弟の劉義康擁立の事件に関わったことで処刑されたので書かれていません。後に南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けます。このため現在伝わるのは、後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した北宋時代の版本に基づくものです。
范曄著『後漢書』の成立は432年以降と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、年代的には『後漢書』より後の時代の範囲を記述している『三国志』の方が、范曄の『後漢書』よりも約150年も前に既に成立しています。後漢滅亡から200年余りの間に後漢についての歴史書を数多くの史家が著しています。後漢がまだ存続していた時から書かれた同時代史書である『東観漢記』、東晋の袁宏の『後漢紀』などです。その他にも数多くの史書が存在していて、これを八家後漢書(あるいは七家)と呼んでいます。
『魏志』倭人伝
成立時期は西晋による中国統一後の280年以降とされています。
『晋書』
中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂されています。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体です。
『宋書』
中国南朝の宋の60年間ついて書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約(441年-513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂しています。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つです。
宋代のうちに何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができ、本紀・列伝は1年ほどで完成していますが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになります。宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高いものです。
北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったといわれています。
『南斉書』
中国南朝の斉について書かれた歴史書。梁の蕭子顕が書いた紀伝体の史書です。二十四史の内の一つ。原名は『斉書』であったが、李百薬の『北斉書』に鑑みて、宋の時に手直しされています。
本紀8巻、志11巻、列伝40巻の合計59巻(一説には著者である蕭子顕の自叙1巻があったものの、紛失して59巻になったと言われています)。高帝の建元元年(479年)から和帝の中興2年(520年)までの南斉の歴史が記されています。また、北朝に関しては「魏虜伝」に記載されています。
蕭子顕が斉の高帝の孫に当たることから、記事の内容は詳細を究めており、趙翼の『廿二史箚記』は隠諱・直書に優れているとしてその公正さを評価しますが、同書の執筆対象である斉の旧皇族が書いた歴史書であることから、公正さは期待できないという厳しい評価を下す歴史学者もいます。趙翼も高帝の子は大勢いるのに、蕭子顕が自分の実父である豫章王蕭嶷のために、列伝一巻の編纂(列伝第三)を行ってその人物を賞賛した事は、親孝行ではあるが歴史家の執筆態度としては相応しくないと批判しています。『南史』が編纂された後は読まれる事が少なくなったそうです。
『梁職貢図』
中国王朝からみた諸夷と呼ばれた周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章とともに絵図として描いています。梁(南朝)から清朝の時代まで複数の存在が確認されています。
『梁職貢図』は、梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられています。蕭繹は学問好きで、蔵書は10数万巻に及んだといわれています。蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にしたといわれています。
『梁書』
南朝梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書。56巻。629年(貞観3年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が成立させています。
『北史』倭国伝
中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された二十四史の一つです。
全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっています。
南北朝時代(439年-589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記しています。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどでありますが、断代史の4書に見られない記述も少なくありません。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きいとのことです。
『南史』倭国伝
『南史』(なんし)は、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成されます。二十四史の一つです。
全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっています。
南北朝時代(439年-589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどですが、断代史の4書に見られない記述も少なくありません。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著です。
『隋書』東夷傳
『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたります。中国史の中における隋代を扱った歴史書で、志の部分だけは通史です。
『旧唐書』
『旧唐書』は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉ク・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書です。二十四史の1つです。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれています。
当初の呼び名は単に『唐書』でしたが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになりました。
『新唐書』
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史です。五代の後晋の劉?の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ばれますが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ばれることもあります。
北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰です。225巻あり、仁宗の嘉祐6年(1060年)に成立しました。
『通典』
、唐の杜佑が書いた、中国の歴史上初めての形式が完備された政書で、十通の1つです。全200巻あり、加えて考証1巻があります。
代宗の大暦元年(766年)から徳宗の貞元17年(801年)の三十余年をかけて編纂されました。
黄帝と有虞氏(舜)の時代から唐の玄宗の天宝の晩期の法令制度の制度の沿革に至るまでを記録し、その中で唐代を最も詳しく述べています。


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