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二 古代社会の変化  二 仏教の伝来

2012-01-24 20:07:54 | 日記・エッセイ・コラム

 二 仏教の伝来
 仏教は六世紀欽明天皇の頃(実際には帰化人等の関係もあってもっと前から日本に入っていたと考える方が自然だと思われるが)に伝来した。その中心が大臣の蘇我稲目である。
 日本書紀によると、欽明天皇は、百済の聖明王から釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻献上された。その時天皇は、仏を広く礼拝することの功徳について使者を通じて聞き、群臣に対し「祀るべきかどうか。」を尋ねられたそうで、開明派の蘇我稲目は「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか。」と、国粋派の物部大連尾輿・中臣連鎌子は「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今初めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう。」と応えられ、天皇は、「それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう。」と言われた。稲目は、喜んで小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺としたが、この後国に疫病がはやり、若死にする者が多く続き、物部大連尾輿・中臣連鎌子は「あのとき、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。今もとに返されたら、きっとよいことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです。」と進言し、天皇は、「申すようにせよ。」と言われ、役人はそれにより、仏像を難波の堀江に流し捨て、寺に火をつけ、余すことなく焼いた。
 敏達天皇の時にも同様なことが起こった。大臣の蘇我馬子は鹿深臣から弥勒菩薩の石像一体を佐伯連から仏像一体を請い受け、仏法の師として高麗の人恵便を選び、善信尼(嶋)禅蔵尼(豊女)恵善尼(石女)三人を出家させ、ひとり仏法に帰依した。その後石川の家に仏殿を造った頃から仏法は広まり始めた。この頃また、疫病が流行り、物部弓削守屋大連・中臣勝海大夫は「どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ」と申し上げ、天皇は詔して、「これは明白である。早速仏法をやめよ。」と言われた。物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ火をつけて焼き、同時に仏像と仏殿も焼いた。そして、焼け残った仏像を集めて、鞋波の堀江に捨てさせ、更に尼たちを鞭うつ刑に処した。その後、天皇と物部弓削守屋大連が疱瘡に冒され、疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。国民はひそかに「これは仏像を焼いた罪だろう。」と語り合った。
 馬子宿爾は、「私の病気が重く、今に至るもなおりません。仏の力を蒙らなくては、治ることは難しいでしょう。」と天皇に申し上げたら、「お前一人で仏法を行いなさい。他の人にはさせてはならぬ。」と言われ、三人の尼も返し渡された。馬子宿禰はこれを受けて喜び感歎し、三人の尼を拝み、新しく寺院を造り、仏像を迎え入れ供養した。
 用明天皇は仏法を信じ、神道を尊ばれたとあり、文献として初めて「神道」の文字が出てきた。天皇が病んだ時、仏・法・僧の三宝に帰依したい旨を示すと守屋大連と中臣勝海連は「国つ神に背いて他国の神を敬うのか。このようなことは今までに聞いたことがない。」と言い、馬子大臣は「詔に従って協力すべきだ。」と言い、穴穂部皇子が豊国法師をつれ内裏に入られた。これにより両者は衝突し中臣勝海連が殺された。そして、崇峻天皇の時、馬子大臣は守屋大連を滅ぼそうと謀り、厩戸皇子等と軍勢を率いたが、守屋大連の軍勢は勢いが強く三度退却し、このままでは負けるかも知れないと感じ、厩戸皇子は護世四王に、守屋大連は諸天王・大神王に「勝たせて下さったらそれぞれのために寺塔を建てる。」と誓いを立て願を掛けた。守屋大連等は殺され、乱は収まり四天王寺・法興寺等を誓願通りに建てた。
 霊の存在を大前提としている時代に「国つ神の怒りを受けるであろう」とまで言われても仏教を取り入れようとした蘇我氏の意図するところは何だったのだろうか。第一には、素直に仏法の魅力に取り憑かれ信仰心を深めたと考えることも出来るが、馬子大臣の出家後の悪逆の行為は信仰心を感じさせない。第二には、蘇我氏は三韓征伐で貢献のあった武内宿禰の子孫とされているが、石河宿禰の後から高麗までの実体が不明瞭で百済からの帰化人との説が有り、朝鮮半島の情勢についても過敏で、本拠地についても諸説有り、稲目の様子は、大伴氏、葛城氏、物部氏と比較して新興勢力のような存在であったように思われる。また、稲目の頃に急速に勢力を増してきたのは積極的に皇族と姻戚関係を結んだためで、その動きの速さは古豪とは思えないこともその理由である。概略を述べると、欽明天皇の第二と第三の妃は稲目の娘で姉の堅塩媛の息子が用明天皇で娘の豊御食炊屋姫が異母兄の敏達天皇の妃となり、後の推古天皇になった。妹の小姉君の息子が崇峻天皇で娘の穴穂部間人皇女は用明天皇との間に聖徳太子を産んだことになっているのである。新興勢力が権威者に近づくために興味をそそるものを提供することはよくあることだと思う。この時期、仏像も経典も思想も魅力的であり、蘇我氏にとっては仏教が格好の材料だったのではないか。第三には当時日本近隣諸国は仏教全盛で流入してくる文化も仏教色が濃く、諸国との交流には仏教を軸に展開した方が有効と考え、また、渡来人や仏教を崇敬したい人たちに対する信教の保護の必要性を感覚的に掴んでいたためと思える。蘇我氏が武内宿禰の子孫であったとしても、百済からの帰化人であったとしても、他の群臣よりも国際情報収集に長じていたことは言うまでもないであろう。
 ただ、考えなければならないのは天皇の心である。仏教を広めること、更に帰依にまでいたることが、天皇自らの存在の裏付けを否定する結果になる可能性(大共同体を一体化することや祖先崇拝を壊す可能性)があったはずである。天皇にとっても従来の神にとっても前代未聞の危機だったはずである。大航海時代以降キリスト教によつて多くの国がそれぞれの土着の宗教を失ってきたことを見ても分かるだろう。しかし、インターナショナルな新興宗教を受け入れることについて、国粋派の群臣が諫めても、試しに礼拝させてみたり、自ら「帰依したい。」と言い出すなど、危機感が感じられない。これは、その時期、天皇を中心とする組織が天皇の親政ではなく、群臣の意見による合議制であり、その組織が確固たるものであったからで、仏教を広めても天皇の存在が否定されることはないという自信があったのだと思う。
 それに反して、国粋派の群臣にとっては、一大事に感じられた。現代においても日本の国体を真摯に考えている人たちには、天皇がすべき行為ではないと感じられるはずである。しかし、歴史は仏教興隆をすすめる時代に入っていくのである。

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