玖波 大歳神社

神社の豆知識

二 古代社会の変化  四 武士の台頭と伊勢神道の成立

2012-01-24 20:14:37 | 日記・エッセイ・コラム

 四 武士の台頭と伊勢神道の成立
 平安中期になると、私領たる荘園が増加し国家財政の基盤が崩壊していった。一方で地方の在地領主となった者は、自衛策を立て、武力を養っていった。このことは中央における朝儀・神事等をわずかに面目を保たせる程度にしてしまった。しかし、太政官符に「国の大事、祭祀より先はなし」として祭祀の厳修を戒め、延喜臨時祭式等に「凡そ諸国の神社は、破るるに随いて修理せよ」と規定し、神社を守らなければならないという気持ちが窺える。
 武士について言えば、平忠常の反乱(一〇二八)を平定した源頼信が晩年(一〇四六)誉田陵の八幡祠に「告文」を納め祈願をしたとき、武門の野望を吐露したと言われている。このことが清和源氏の氏神として八幡神を仰ぎ崇拝する伝統の始まりと言われている。この頃から武士の勢力が伸長していった。一方で、厳しい租税に苦しんでいた農民たちが自分たちで開墾した田畑を寺社に寄進し、その中から「夏衆」「神人」になる者も出るようになり、寺社は勢力を強めていった。その例として、石清水八幡宮別宮の提訴により国守源則理が流刑にされ、伊勢神宮では御託宣により斎宮寮頭相通夫婦を流刑にし、世俗においても摂関家と並ぶ権力を誇示したことがあげられる。また、摂関家や上層貴族もまた勢力を伸ばそうと荘園(私領)を増加させていった。これに対し、国司たちは荘園の乱立を阻止するために朝廷に荘園停止の法令発布を奏上した。これを受けて朝廷は次々に荘園整理令を発布し、更に農民を荘園に逃げ込まないようにするため租の率を国司の判断に任せず一率にする公田官物率法を制定した。
 院政の頃になると僧兵の対立抗争が繰り返され、朝廷はそれを押さえるため武士の力に頼らざるを得えなくなった。しかし、寺社の武力による行動が高まり、寺の鎮守社の神木や神輿を担いで強訴すること(神木動座・神輿動座)が行われた。このことは、寺の力によって神祇が再び力を盛り返してきたように感じられる。
 十二世紀に入ると法や秩序は力を失い、様々な事柄の解決に武士の力を頼らなければならなくなった。このことは、確実に武士の勢力が確固たるものとなり、保元平治の乱は平氏の時代を生み出した。更に中世になると頼朝は、「義経、行家探索」という名目の基に、平氏全盛の時に作られた国衙行政における軍事指揮官の守護、荘園・公領の検察力を認められた地頭をより強化し、武士による強力な政権作りを始めた。そのため、僧兵などの武力を持つ寺社は、力を維持できたが、そうでない寺社は次第に弱体化していった。その後、各神社は式に規定された公的祭祀を行っているだけでは運営が困難になり、私的祭祀も積極的に行わざるを得なくなってきた。
 伊勢神宮においては、皇祖神が祀ってあり、天皇のみが祭祀の主体者であり私的祭祀は禁止されていた(私幣禁断)のだが、原理原則だけでは維持が困難になり、平安末期には伊勢の下級神職も個人祈願を取り次ぐようになったり、権禰宜は在地領主の私的祈祷に応じるようになった。これが伊勢の御師の始まりであり、祓いを行うとき数取りに用いた祓串を箱に納めて願主に届けたのが御祓大麻であり神宮大麻の起源である。
 この頃まで私有財産としての「家」の継承は殆どなかった。貴族階級においては、国家役人には男女問わず公的「家」が設置されていた。この「家」は、役職に支給されるもので資格が無くなれば回収され、継承されるものではなかった。しかし、九世紀後半から十一世紀後半にかけ次第に父子継承が芽生え、強化され、家柄・家格が定着してくる。女性は出仕することが少なくなり夫の家に包摂されるようになる。これは女性社会から男性社会への変化を迎えたことを表す。豪族も在地領主として勢力拡大のために地域に根を下ろして、父子継承を成立させ、一般の人々も「在家」を単位とした新租税が始まっていることから「家」の成立が見えてきた。
 中央の動揺と混乱が下々にも反映し、厳しい経済関係が今までの共同体に依存した状態だけでは破綻してしまうような危機感を深めていった。そのために、どの階級も経済的に安定した生活と社会的地位の向上を目指して、夫婦関係・親子関係を強化した「家」を繁栄させる努力をしていたのであろう。また、この「家」の成立と個人祈願の広がりは需要と供給のバランスとその時代の経済推移とに相まっている。
 伊勢神宮においては、困難な局面を迎える度に、その時々の情勢を的確に判断をすることで、奉仕する神の神徳を高揚できるか考え努力しており、清浄・正直を旨に祭祀を厳修していたこと、国家的国民的自覚を失わなかったことに見習うべき点が大いにある。ただ、変わるべきでなかった点・変わって良かった点などを第二章の五で考えていきたい。
 伊勢神道は、前述の内容に加え、次のことを説いている。外宮祀官度会氏を中心として、神宮の古伝承に両部神道の胎金・太極図説的考え(天照皇大神を胎蔵界の大日如来・光明大梵天王・日天子【火】とし、豊受大神を金剛界の大日如来・尸棄大梵天王・月天子【水】)に基づいて内宮外宮が合体して大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成し(二宮一光の理)、一方で五行説によって、外宮を水徳、内宮を火徳に配し、五行相克説に基づけば、水克火であることから外宮の優越を説く。また、豊受大神を天御中主神と同体として、神統譜からも外宮の先行を強調している。また、「三角柏伝記」「中臣祓訓解」では、神を、本覚神、不覚神、始覚神に分類して、本覚神を「本来清浄の理性、常住不変の妙躰」と定義し、伊勢神宮のみがこれに当たるとし、不覚神を実神、始覚神を権神としている。


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