玖波 大歳神社

神社の豆知識

玖波と遣唐使船

2024-05-17 12:52:49 | 日記

 国郡誌には玖波の小名として「鉾の峠・唐船濱・馬だめし・中濱・火の子・庭形・江解・潮待の崎・木場・転び石・大人原・大迫原・神田・片山・野口・大盤・廻道・鳴川」が有ります。何れも興味深いのですが、倉橋町史(平成13年刊行)を読んだとき、倉橋での遣唐使船建造の可能性の根拠として、
1 大型船なので喫水が深く潮の流れが早く砂浜が発達していることが必要、倉橋には「桂浜」などの適地がある。
2 倉橋の地名に「唐船浜」や「唐渡(鹿老渡)」など,連想させる名称が存在している。
3 江戸時代を中心に隆盛を極めた倉橋の造船業の技術はどこから発祥したのか当時の最先端の造船技術を,今度は自分の船の建造に生かし後世の基礎を築いたのではないか。
としているのをみて、玖波も、潮待の崎があり、潮の流れを見極める必要があり、唐船濱だけでなく、玖波には船を留める砂浜があったので、玖波での遣唐使船建造の可能性もあるのではないかと、調べてみるべきだと思ったのです。
 まず、遣唐使・遣唐使船について示したいと思います。

遣唐使とは
 遣唐使とは、舒明天皇2年(630)から寛平6年(894)の間に、日本から唐に派遣された公式の使節のことです。およそ20回任命されましたが、そのうち、実際に渡唐したのは16回でした。
 遣唐使船には、大使・副使とその随員以外にも、通訳・医師・留学生・学問僧たち、船を操る船長や漕ぎ手たちと、1隻に120人ほど乗っていました。はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海しましたが、8世紀にはいると4隻となり、多い時は一行全員で500~600人にもなりました。
 遣唐使船とは
 遣唐使船の船にかんする正確な資料は日本中どこにも無いので、現在考えられている「遣唐使船」は「吉備大臣入唐絵詞(12~13世紀)」や「鑑真和上東征絵伝(1298年)」に描かれた遣唐使船をモデルとして考察され、模型も作られています。
 この宋代の船と7~9世紀の遣唐使船は、約500年のズレがあっても略同一と考えられています。
 また、「疇海図編(明時代)」は日本の室町時代に作られた本ですが、日本の船について「大木を角材として継ぎ合わせ、鉄釘を使わないで鉄片を連ね、継ぎ目を塞ぐのに麻筋桐油を用いないで、短水草で継ぎ目を塞いだので労力も資材も非常にかかった。(中略)その上、船底が扁平だったので波を切ることが出来なかった。(以下略)」とあります。
 これらの内容から遣唐使船は推察されていますが、唯一判ることは、遣唐使船の建造には造舶使長官と次官が任命されて船を建造します。
  日本では丸木の刳り船の上に側板・甲板などの構造物を付けた船は作っていますが、一隻に120名もの人が乗る船の建造技術は無く、663年の白村江の戦いで唐・新羅に敗れて、百済人の多くが日本に渡海し、来た建造に携わったため、渡海船を「百済船」と呼んでいます。
 遣唐使船の大きさは長さが30m、幅7~8m、帆柱2本で平底箱型で、船底を航(カワラ)と呼びますが、この部分と戸立て船首(鋭角でなく、横板を貼ったもの)に角材を並べて、釘では無くて鉄の平板で固定していました。そのため波切りが悪く、不安定で、強風や波浪に弱いという欠点がありました。また、航期や航路をあやまることが多く、遭難する船が少なくなかったのです。なお、近年では遭難の最大の原因は、定員オーバーや積載オーバーではなかったかとみられています。
 遣唐使船は無風や逆風の際は帆をおろし、櫓を用いたので多数の漕ぎ手を乗せており、また漂着した場所での安全を守るため、同じく多数の射手を乗せていました。(帆装に関しては、二本の帆柱が縦列にあり横帆での航行し、多くは櫂での漕航だったようです。)
 前期遣唐使(~669)
 前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
 唐への航路は、はじめ朝鮮半島沿いに渡海し、山東半島に上陸して唐の都・長安に向かう北路をとりました。
 第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。

 後期遣唐使(702~)

 しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来た事も一因となり、やむなく東シナ海横断して、揚子江の河口付近に上陸し、長安に向かう「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。

 造船の記録
推古二十六年 618年    河辺の臣を安芸の国に遣わして船を造らせる。
孝徳元年   650年    倭漢直県らを安芸国に遣わして百済船2隻を造らせる。
天平四年   732年    近江、丹波、播磨、備中等國遣唐使のため船4隻造らせる。
天平十八年  746年    安芸の国に船2隻を造らせる。
天平寶字五年 761年    安芸の国に於て船4隻を造らせる。
天平寶字六年 762年    安芸の国に船1隻を造らせる。
寳亀二年   771年    安芸の国に於て船4隻を造らせる。
寳亀六年   775年    安芸の国に於て船4隻を造らせる。
寳亀九年   778年    安芸の国に於て船2隻を造らせる。
と、日本書紀・續日本紀に記載されています。
 この中の、天平四年の近江、丹波、播磨、備中等については、近江のように海に面しない國も含まれており、造船の資金を出させたと解釈する説が有力で、遣唐使船は略安芸の国で造られています。
 
 次に、玖波における造船について示したいと思います。

玖波の問丸
 応仁元年(1467)、周防秋穂の正八幡宮(秋穂八幡宮)が修造される際、安芸国西部の山間部・吉和で材木が切り出されたが、その仲介を玖波の問丸の「中務」という人物が担っいました。「中務」は吉和に赴いて材木を切り出す杣人に代金を支払っています。このことから当時の玖波に吉和など安芸西部山間地域の杣人と木材の取引を行う問丸が存在していたことがわかります。
 つまり、造船に必要な木材の調達が出来る地域であったことが推定されます。

久波の番匠
 永禄四年(1561年)十一月、大願寺円海は、厳島社大鳥居棟上に際しての祝儀・肴の配賦目録を作成していますが、このリストに「久波番匠」がみえます(「大願寺文書」)。玖波には厳島社の造営にかかわる番匠が住んでいたことがわかります。
竹田の田植え囃子の一節「宮島様の御普請には、どなたが棟梁なされた飛騨の匠に竹田の番匠、両人棟梁なされた」と同様に、近世中期のものと推定される玖波の田植え唄として「明神様の御普請には、どなたが大工をなされた飛騨の匠に竹田の番匠、両人棟梁なされた」とあり、明神様とは玖波の大歳神社を指しますが、厳島神社修復のために訪れていた「飛騨の匠に竹田の番匠」嚴島合戦で焼失した社殿も再建して貰ったのだと推測できます。その後も、厳島社の造営にかかわる番匠が住みついたと思えます。玖波には大工技術も集積されていたと思えます。

 『中書家久公御上京日記』より
『三月廿三日、辰尅に打立、かふちといへる村を通り、やかてミしやう川のわたしにて渡ちん、亦お瀬川といへる所ニて渡賃、其川渡れは安藝の内といへり、亦おかたといへる町に着、船をたのミ宮島へ渡、海上の躰、浦々遠く近く打霞、折りしも小雨打そゝきたる躰、類なき景也、當、舟ちの左方ニ、くはたとて町有、是ハ舟を作所成、未作おろさゝる舟五拾二艘、かハらはかりをすゑ置きたるハ數をしらす、亦行て、やせ松、こゑ松とてひやうしくし有、亦行て、もととり山とて明神の御地有、其嶋の岩の上に松有、から崎の松もかくこそあらめなと申あへり、其次にたかねとて塩屋とて村有、亦次に明神の御作とて、橋柱といへる島二ツ有、又右の方に明神の錦の袋を御おとし有しか、今に石と成りてあり、其色をたかへす、さて其次にさかり松とて有、亦次ニ大もと明神とてまします、是宮嶋の本主柱神也、今の明神へ所を御かし候て、大本權現ハすこしの宮にましますと也、庇もやのなといへるためしにや、當宿柳下太郎左衛門、』
 口語訳
3月23日8時頃に出発。
河内という村を通って、御庄川を渡るために渡り賃を払い、小瀬川という所でもまた渡り賃を払う。
その川を渡れば安芸国ということだった。
小方という町に到着して舟を頼んで宮島に渡る。
海上にあって、浦々が遠くに近くに霞んでいた。折しも小雨が降って体に打たれたが、類を見ない見事な景観であった。
船の左手の対岸にはくはた(玖波)という町があって、そこは舟を作る所である。
完成間近の舟が52艘あったが、瓦のようにも見える建造中の舟は数えきれないほどであった。
また行ったところにやせ松、こえ松というのがあり、ここで兵士公事があった。さらに行くと元取山という明神の御地があった。その島には岩の上に松があった。唐崎の松もこのようなものだという説明があった。
その次には高根という塩屋という村があり、その次には明神が作ったらしい、橋柱という島が二つあった。その右手には明神が錦の袋を落として今は石になったということで、その色が変わっていた。さてその次にはさかり松というのがあって、また次に大元明神がおわすという場所があり、これが宮島の本主柱神である。今の明神へ場所をお貸しして、大本權現は少宮におわすということで、これも「やのな」という「ためし」ということです。
この日の宿は柳下太郎左衛門という人の所に一泊。

 この中の「船の左手の対岸にはくはた(玖波)という町があって、そこは舟を作る所である。
完成間近の舟が52艘あったが、瓦のようにも見える建造中の舟は数えきれないほどであった。」とあるように天文三年(1575年)頃の玖波の造船は、島津家久を感嘆させる程、相当の規模で造船が行われていたようです。

 このとき作られていた船は、天正四年(1576年)7月の「第一次木津川口の戦い」、天正六年(1578年)11月の「第二次木津川口の戦い」に使用された可能性が高いと考えられます。

 安宅船について

「安芸国廿日市鋳物師の一考察」藤下憲明 芸備地方史研究 台二二五号の一節に次のようにあります。
 『安宅船の船釘鋳造
 文禄・慶長の役出兵のためには大量の軍需物資を海上輸送しなければならず、秀吉は毛利氏に朝鮮渡海用の安宅船(軍艦)を建造するよう申付けており、この安宅船は安芸国久芳浦(大竹市玖波町)の唐船浜で造られている。
 唐船浜は玖波村の町並みの東に位置する馬ためし峠(唐船ケ峠)と鉾ノ峠(長峠)の間の入り江で、天正三年(一五七五)の「中書家久公御上京日記」によると「・・・前略・・・儻舟ちの左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・後略・・・」とあり、相当の規模で造船が行われていたようである。 唐船浜で造られた安宅船の数量については定かではないが、宮徳丸、安穂丸、防房丸などの軍船が造られていたことが記されており、これらのうち宮徳丸、安穂丸は秀吉によって日本丸と呼ばれている。
 安宅船の規模について宮徳丸は船内に筵を五十八枚も敷くほどの広さで、兵糧が二万三千俵積むことが出来たという。また、安穂丸は長さ七十間(百三十八メートル)、横四十間 (七十九メートル)で十八畳敷が三間あり、兵糧がー万二千俵積まれたとある。しかし、九鬼氏が文禄・慶長の役の際に伊勢で造った大安宅船は「志州鳥羽船寸法」という造船史料によると長さ八十三尺(二十五・ニメートル)、幅三十一尺三寸(九・五メートル)とあり、また、世紀の巨艦といわれた戦艦大和の全幅は三十八・九メートルであり、これらと比較すると桁外れの寸法であり、これらの出典史料は後世に規模などを誇張して記されたものとみられ信憑性に乏しいものと思われる。
 安宅船を建造するためには多くの材木が集められており、安芸・周防国境の小瀬川沿いにある小瀬村(岩国市小瀬)の山からも船板に使用する材木が搬出されていたものとみられ、享和頃(一八〇一~一八〇三)には船板という地名が残されていた。また、船板を止めるためには大量の船釘や鎹などが必要でありこれらは梵鐘を鋳替えて鋳造をしていたのである。
 「防長寺社由来」宇佐村(山口県玖珂郡錦町)宇佐八幡宮の梵鐘の項に「此鐘の儀巳前毛利宰相様芸州の内玖波村と申処へ御取被迎船釘ニ相成由申伝ニて御座候事」とあり、ここの梵鐘は玖波村で船釘に鋳替えられたようである。
 玖波村で船釘が鋳造されたということであるが玖波村での鋳物師の鋳造活動については明らかでない。しかし、西隣の黒川村(大竹市黒川)では廿日市鋳物師の一族が鋳造活動をしていたことが知られる。
 黒川村の「国郡志下調書帳」に「当村百姓与頭林蔵先祖往古者山田治部少輔と申鋳物師ニ御座候所、先年京都蔵人所より海田市廿日市当村へ次職改ニ登候様御廻状到着仕候節、 当村よりハ上京不仕夫故中絶仕候」とあり、廿日市の鋳物師である山田家の一族が黒川村に移住していたことを伺うことができる。
 与頭林蔵の先祖である山田治部少輔は文禄・慶長の役に伴っての特需鋳造のために黒川村に移住したのではないかと思われるのである。江戸時代に入ってからも鋳造活動を行って鋳物師支配をしていた真継家の支配を受けており、文政二年 (一八一九)ころには鋳造活動は休止して真継家との関係は断絶していたようである。
 史料的には裏付けできないけれど大胆な推察をすれば、黒川村で鋳造活動をしていた山田家の一族は安宅船の船釘をはじめ鎹、装甲板、錨、国崩なども鋳造していたのではないかと思われるのである。黒川村での鋳造活動地の確認と発掘資料でこれらの推察を補強できることを期待したい。』
 更に、『玖珂郡志』によれば、天正十八年(1590)、朝鮮出兵に当たって豊臣秀吉が唐船浜(玖波東方の入江)で防房丸などの船を造らせたという。現在の岩国市小瀬には「船板」という字名があり、防房丸の船板はこの辺りから唐船浜へ送られたとする記述があります。  玖波では安芸西部や周防東部の豊富な森林資源を背景に造船業が盛んであったことが推定されます。
  文禄1 (1592) 年,豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し,御座船として九鬼嘉隆に命じて伊勢国 (三重県) の大湊で造らせた大型の安宅 (あたけ) 船。船底材の長さ約 25m,肩幅 9.4m,深さ 3mの,当時としては最大級の安宅船で,御座船らしく豪華な装飾の屋形が設けられていた。一説には,同2年に毛利輝元が建造した『宮徳丸』のできばえがすばらしく,それに感嘆した秀吉が『日本丸』と改名させたということです。
 中近世の玖波の造船の凄さが分かるのではないでしょうか。

 参考『玖珂郡志』
九月十日祭之。此石巌根ニ有テ、二間余程也。此石霊石ニテ、郷人神ト称ス。参詣貴賎不絶。願望无不叶。昔此石ヨリ血流シコト有リ。往古怪蛇海中ヨリ上リ、神霊トナルトモ云。
太閤朝鮮征伐ノ砌、文禄元年四月、芸州広島ニ稽留シ、又嚴島ニ詣デ給ヒ、此度大明征伐ノ勝利ヲ祈リ給ヒ、何トゾ奇瑞ヲ現シ給ヘト誓ヒ給ヘバ、海上ニ雲起リ飛龍出、其中ヨリ怪蛇二ツ出テ、東西ニ別レ、一ツハ此立石ノ内ニ入、一ツハ芸州ノ立石ノ内ニ入。是天正十八年朝鮮へ投翰ノ書曰、「乗時運而龍ノ如ク飛」トアリテ、符節ヲ合セシヨリ、信心肝ニ銘ジ、芸州ノ玖波唐船浜ニテ、防房丸出来、船板乙御ヨリ、御帰陣和木今津。

 廻船

 「近世玖波の風俗」石本清四郎著によれば、
 『玖波は驛所であったため、人口過剩となり、農業のみを以ては生活に窮したので、商業を兼ねたものが多かった。商業は奥筋の山荷物、板材、木炭、薪、茶、塵紙等を入れて問屋を營みまたは入港の船舶に雑穀、干鰯、塩その他の物資を販賣したが、奥筋の山荷物は大阪方面へ舟運して交易を行った。文化年間までは玖波の商業は盛であって、大阪への廻船七七艘を備え、塵紙及び木炭等を積み出し、大阪南横堀その他の問屋と取引をし、上方方面では、草津から大竹 に至る佐伯郡沿岸一帯の廻船はすペて玖波立の名で呼ばれていた。
 當時は奧筋、西方筋の出荷が多く、日々この方面からの出馬があったので、町内に煮売、餅屋等の店を出し、これを渡世とするものが多かった。また近在の小方、大竹、岩國、湊附近の米も、玖波に集荷し積み出し、小郡、筑前葦屋その他遠國の米船も入港する?態であったが、文政時代以降は、奥筋の荷物は廿日市に出荷し、西方筋は小方に、紙の売買及大阪廻船は大竹、木野に、米の積み出しは湊、宮島に移り、玖波の商藥は急激に衰微するに至ったのである。』とあり、文政の頃までは、廻船だけでなく船の出入りも多く、造船・修理等を行っていたと考えられます。
 
 玖波は、造船のための木材を始め、多くの物資・人・技術等が集積され、『中書家久公御上京日記』・『玖珂郡志』からも造船に適した場所であったといえます。
 遣唐使船が、玖波で作られたのか、倉橋で作られたのか、調べた範囲では断定することは出来ません。
 残念なことは、倉橋が遣唐使船のレプリカを造ったり、朝鮮通信使の行列を行うなど頑張っているのに、玖波では、遣唐使関連のものを造ることも、行事を行うことも一切無いことです。何かを行って、倉橋と共にどちらが本当か議論を続けて町を盛り上げることが出来ればと思います。

 参考までに、文禄・慶長の役の時の安宅船を始め多くの軍船を造船したことに対し、豊臣秀吉から唐船濱の地名を頂いたとする説もありまが、玖珂郡志に「玖波の唐船濱にて、防房丸出来し時‥」と有り、安宅船造船の時には、唐船濱の地名はあったと考えられます。

参考
倉橋町史(平成13年刊行)
国郡誌
戦国日本の津々浦々
中書家久公御上京日記
玖珂郡志
近世玖波の風俗 石本清四郎
安芸国廿日市鋳物師の一考察 藤下憲明 芸備地方史研究
疇海図編(明時代)
日本書紀
續日本紀



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