玖波 大歳神社

神社の豆知識

神宮大麻の意義

2012-01-31 18:04:27 | うんちく・小ネタ

  神宮大麻の意義

 神宮大麻の意義を明確にするために必要な材料として、一、歴史的経過、二、構成要素、三、条文の規定や語意を詳らかにし、頒布側からと拝受側からとの受け止め方の差違を検討していく必要がある。

一、歴史的経過
 歴史的経過として次のようなことが挙げられるであろう。

 一、内裏から伊勢国へ
 元々崇神天皇の頃まで天照皇大神は倭大国魂と共に天皇の御殿内に祀られていた(依り代を奉齊していた)けれども、天皇は神の勢いに不安を感じ、天照皇大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫村に祀り、倭大国魂を渟名城入姫命に託した。しかし、渟名城入姫命は髪が落ち躯が痩せ細り祭りをすることが出来なくなり、大田田根子を大物主大神を祀る祭主に、長尾市を倭大国魂を祀る祭主にした。
 垂仁天皇の時、天照皇大神を倭姫命に託し、倭姫命は各地を廻り伊勢の地に祀った。
 神は近くに置くことも畏れ多いもので、更に鎮座される場所も大変慎重に吟味しなければならなかったのである。
 また、古代からそれぞれの共同体ごとに、共同体の神を奉齊し、他の共同体のものに祀らせることはなかった。 渟名城入姫命が祀るべき者でなかったためであろう。

 二、私幣禁断から私祈祷へ
 次に参考になるものが私幣禁断である。伊勢神宮では皇祖奉齊の天皇祭祀に限られていた。しかし、律令制度崩壊の頃から経済基盤が崩れ始め、それを乗り切るために口入神主を各地に派遣し、寄進神領からの神税上分米を徴収した。帰参し神前に領地の願意を奏上していたことから詔刀師・御祷師とも呼ばれた。これが後に願主としての檀那の取持ちをする御師の発芽となり、室町期になると神領の廃絶に連れ、祈願の対象が一般庶民にまで拡大していった。そして、祈祷をした験として御祓大麻を渡すようになっていった。
 この頃の大麻は、祓具・祓いの験であり、渡す時期は秋から冬の神税上分米を徴収する時であろう。更に時代が進むと正・五・九月を中心に参詣が盛行し、祈祷・配札も全国に展開していった。更に御師などは伊勢講の組織化・宿泊・案内・神楽・遙拝社・神明社の創建を始め活躍していた。江戸期には頒布の割合も全戸の八十九%に達していた。

 三、明治時代から終戦まで
 しかし、明治維新は、四百年以上活躍していた御師の私祈祷を御神徳を汚す悪習と決めつけ、排除していった。その裏には、欧米列国の脅威や外来宗教による日本の伝統の崩壊を恐れ、その対策として国民を統合し、国粋主義化を目差す意図があった。
 初期には神宮教院が全国三十一教区の組織を挙げて頒布を行い、神道事務局・神道神宮教・神宮奉齊会・全国神職会と担当が推移し、道府県の神職団体に委託したり、地方行政庁又は郡市神職団体に委託していたようであり、更に大日本神祇会へと移行していった。
 戦後、大日本神祇会と神宮奉齊会そして皇典講究所を纏める形で神社本庁が設立され、その性格から、神宮大麻の頒布を委託された。
以上が歴史的経過の概略である。

二、構成要素
 神宮大麻を構成しているものとして、御真(麻串)・「皇大神宮御璽」の印・天照皇大神宮の御名(神号)・「大神宮司之印」の印がある。

 一、御真(麻串)
 御真(麻串)を中心に納めていることについて、一方で御師制度の廃止により「御祓大麻」の祓具・祓いの験としての性格は失われており、氏神神璽を奉製する際に中に祓串の印を押捺している例もあり、清浄を意味するものと捉える考え方があり、他方で御師活動が全廃されても、祓具・祓いの験と言う意味は継承されておりその上に重層的にその他の意味も包含するようになっていったとの考え方がある。

 二、「皇大神宮御璽」の印
 「皇大神宮御璽」は神宮大麻が「天皇の大命」(御裁許)により初めて公的に家庭にいながら「朝に夕に皇大御神の大前を慎み敬い拝がむ」(明治五年四月一日の神宮大麻御璽奉行式の祝詞を参照)ための「シルシ」となるものであり、雲形御璽印と言う。
 これにより、皇室の祖先神(一般庶民の祖先ではないことの認識は不可欠である。)である皇大神宮の御名札を日本全国津津浦々に奉安する事を公式に認めて戴いたのである。ただ、神宮大麻は更新累加することが大きな意味を有し、一般庶民には毎年頒布されているのに、「天皇の大命」(御裁許)が明治初期の変革時期のみであることは不十分に思える。時代は大きく変化し、大正・昭和・平成と天皇も代替わりされており、毎年とは言わなくとも代替わりの都度御裁許を戴かなければ、天皇公認の御名札としての意味が一般庶民に理解を得ることが出来ない。

 三、天照皇大神宮の御名(神号)
 天照皇大神は「オオヒルメムチ」であり、ムスヒの神などの霊(ヒ)の神にお仕えする神であり、大嘗祭は天皇が天照皇大神と一体になる儀式で天皇自ら霊(ヒ)の神にお仕えする「ミコ」になられることを意味している。「日本国民の総氏神」と言うことはあくまで一種の方便であり、説明する時間があまりないときに理解を得やすい説明でしかない。 天照皇大神には更に祖先神がおられることは周知のことである。
 他の方便として、現代における自然環境保護の高まりに沿う形で自然神・太陽神と説明することもあるけれども、神話との矛盾を生じないように注意が必要である。

 四、「大神宮司之印」の印
 「大神宮司之印」は、明治初期に神祇省が全国の「氏神社」に天照大神を勧請し、各家庭の神棚にも「神宮大麻」を奉斎することを義務づけようとしたのであるが、「天皇の允許」を得ることができず、「皇太神宮大麻」の全国頒布を神宮大宮司の責任において担当することについては允許を得ることが出来た「シルシ」である。

三、条文の規定と語意
 一、神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱
 『神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱』の第二条(大麻の本質)に「大麻は、天照皇大神の大御稜威をあまねく光被せしめる大御璽として、希望する者に頒布する。これを毎年頒布するのは、御恩頼の更新累加を意味するものである。」と規定されているが、大御稜威・大御璽・御恩頼などは一般庶民に理解が得がたいので平易なものにした方がいいのではないだろうか。
 また、大麻の意義を「神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱」に規定するのではなくもっと相応しい規定場所はなかったのだろうかと疑問視する人がいる。
 第三条(大麻及び暦頒布の意義)には、「大麻の頒布は、本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆に寄与する目的で、神社本庁が包括するすべての神社およびその関係者が一致して実効を挙げなければならない事項とする。」と規定されているが、順序が逆に思える。本来は「神社本庁が包括するすべての神社およびその関係者が一致して本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆に精勤し、それが大麻頒布に結びつく。」とあるべきではなかろうか。考えるべき事は、如何にして、本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆をもたらすかである。その如何にしての部分を具体化し実効していくことをしなければ衰退の一途を辿ることになろう。

 二、氏神・氏子
 明治二十九年六月二十三日の社寺局長の回答で氏子は一戸一神社に限ることが国の原則で、氏子の権限義務は府県社以下の神社としていた。しかし、戦後、憲法二十条により氏子制度は廃止されてはいないが廃止されたようなものである。 氏子制度が維持できているとすれば各神社規則の規定通りに「氏子崇敬者名簿」を作成・登録し、毎年更新している神社だからである。
 神社側でも建築業者と契約し、氏子区を無視して地鎮祭等を行っている例も少なくない。神社としては氏子・氏子区を掌握することが大切であり、それがなければ大麻頒布数の割合も意味を失い、負担金の算定に氏子割りがあることも意味を失ってしまう。
 その様でありながら、崇敬神社に対し、なわばり意識を捨てて、何処にでも大麻を頒布しなさいと、言う人もいるのである。出来れば本庁で氏子を基本にするか、氏子区を無視した自由な活動を基本にするのか決定して戴きたい。
 また、家庭の有り様も変化し、戸と世帯が一致しなくなり大麻頒布数の割合も実体を正確に示しているとは言えなくなってきている。
 ただ、神宮大麻の一つの意義として、「神社(神職)と地域住民とのお付き合いの深さのバロメーター」であると言える。 
 
 三、初穂料
 初穂料という言葉も農業中心の時代ならいざ知らず次第に語意が不明になりつつある。一般庶民からすれば、神宮大麻の売値・料金であろう。神職の中にも大麻を何体売ったと言う人がいる。それは間違いなので是正しなければならない。初穂料はやはり中世の税金である上分米が変化したもので今は税金ではないけれども、まず神宮に対する敬拝の意志を持って寄進してもらうものである。その寄進を受けて、初めて神宮大麻を頒ち与えるのである。
 日本において御祓大麻が発生した頃、中世ヨーロッパにおいては、贖宥状(免罪符)が販売されていた。 贖宥状(免罪符)は本来善行や寄進による現世の罪の免除を証明するものであったが、次第にこれを買うことにより全ての罪が許されると信じられるようになり、ローマ教皇庁の資金集めに利用されていった。この事をマルティン・ルターが「内心の信仰によって人は神から直接に救いを期待しうる。」と非難したのであるが、御祓大麻は非難されることなくそれどころか各地に多く受け入れられていった。この違いは、上分米の徴収と祈祷をした験として渡す御祓大麻が区分されていた点にある。

 四、家庭の神棚に奉る原則
 現在の神宮大麻は、「天下の人民の家々に漏落る事無く頒給はむとす」(明治五年四月一日の神宮大麻御璽奉行式の祝詞を参照)、「家毎に斎き奉り」(大麻修祓式祝詞文)などから家庭の神棚に奉ることが原則である。
 理想を言えば「日本人であることを意識した生き方」「神代からの伝統に即した生き方」「家を中心にした生き方」「四季の変化を感じる生き方」をすべきであり、神社人として理想を目差し、一般庶民を啓発教化していくべきであるが、社会は大きく変化してきており、現実には「国民意識の希薄化」「伝統の断絶によるマニュアル中心の生き方」「共同体・家庭の崩壊」「季節感のない生き方」になっている。
 この現実に目を向けて考えるとき、伝統・神道について理解のない者にも理解しやすく、気軽に受け入れられやすい書物が必要である。書店を見ても神道関係の書物の絶対量が少なすぎる。また、現実を受け入れて、個々を対象にした大麻が頒布されてもよいのではないだろうか。

四、現代
 一、頒布を困難にする実体
 先に述べたように現実は厳しい状況になりつつある。その具体例として次の点が上げられるであろう。
 その一つとしては、共働きで日中誰もいない家が増加し、マンションなどでは住人に会うことすら出来ないものもあり、夜大麻を持って伺うことに対する抵抗感もあり、地域の自治会などを利用することも次第に難しい状況になってきており、時には神職としてのプライドを傷つけるような中傷電話・手紙・言葉・態度なども増加していることである。
 大麻の頒布数を伸ばすためには、神社(神社以上に行える組織があればそれも含めて)を如何に国民全体を網羅して親しくお付き合いできる組織にしていくことである。神職も遊んでいるわけではなく地域の住民と親しく触れ合える場を持とう・作ろうと努力している。しかし、地域の住民と親しく触れ合える場がどれだけあるだろうか。PTA活動や自治会社会福祉協議会での活動に積極的に参加していてもいつも同じような顔ぶれでもっと多くの人に接したいと思ってもできない苛立ちを覚えた人も多い。
 更に言えることは、神職の神職副業化であろう。現実に兼業をしている神職は多い。以前は、副業に融通が利いて、まず神事、後他事と出来ていたものが、世相の変化で、副業も厳しくなり、適当なことが出来なくなり、生活を維持する方が主になってきている。つまり、頒布する時間や余裕のない神職が増えてきているのである。信仰心・崇敬心があっても物理的に不可能なものは不可能なのである。
 この平成十五年度の神職資格取得方法の変更は、神職の専業化を促そうという意思も感じられるが、裏目に出て、神職の子弟の神職離れに繋がる可能性もあり、それが地方神社の荒廃を招き、更には、大麻の頒布数の減少に繋がることもあり得なくもない。神職が専業化できるだけの経済基盤の確立を第一に考え、そのために神社本庁が包括するすべての神社およびその関係者が一致して本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆に精勤しなければならない。
 また、 明治時代の神宮大麻の公化は、欧米列国の脅威や外来宗教による日本の伝統の崩壊を恐れ、その対策として国民を統合し、国粋主義化を目差す意図があったが、現代の神宮大麻には似非宗教・擬似宗教から日本人本来の伝統宗教・正しい信仰を守り、崩壊しつつある家庭・共同体の回復を図る意義がある。一般庶民を迷いから救うことを考えなければならない。

 二、一般庶民の意識
 神宮大麻を受けている人たちの多くは「親が受けて奉っていたから」や「神職さんや総代さんとのお付き合いで」との理由で受けている。つまり慣習によるもので、大麻の意義を深く考えている人は少数派であるが、服忌については、「一年間」「百日間」「五十日間」「三十日間」など様々な流布に敏感でその年の拝受を遠慮する事が多いのである。
 しかしこれは神宮大麻を拝受している人たちのことで、日本の世帯を四千数百世帯あり千世帯が拝受しているとすると、残りの三千数百世帯は、神宮大麻そのものを知らないか、興味すらないのである。神職が社頭で教化しようとしてもこの人達に対しては為す術がないのである。
 神宮大麻を拝受する者が多数派の時は、それに引きづられて増加していき、少数派になったときは逆に慣習が崩れ、一気に減少していくことになるかもしれない。

五、神宮大麻の意義
 今まで述べてきたことを基にして神宮大麻の意義を考察していきたい。
 一、今までの説
 説としては、「庁報」(昭和二十七年十一月)によると大御璽・遙拝のみしるし・神徳神護表徴・御稜威の宿るもの・神籬・恩頼・御分霊・霊代・御像代・神体・祓の具など、山本信哉(大麻に就きて)によると神体・神符・祓具(維新前)・神徳標章(維新後)などがある。
 その中で、御分霊・霊代・御像代・神体・神籬などは「内裏から伊勢国へ」で述べたように否定されるべきであろう。特にこの中の「御分霊」については、一年ごとに拝受する理由も消失してしまうし、現在神宮も否定している。但し、大正五年五月に「御霊代たる意義」として神宮部内の意見を統一するために今井清彦小宮司が山下三次神部署長の意見書を回覧しているため、「御霊代たる意義」を肯定する意見も多い。
 遙拝のみしるしについては日の丸を通しても遙拝しているので、特に神宮大麻に限る意味はないだろう。しかし、「御はらひ様は、(略)遥拝礼拝の一種の標的と観るべきものと思ふ」(『神社協会雑誌』第十一年第八号、大正元年八月)など根強いものがある。
 大御璽については『神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱』の第二条からも構成要素の「皇大神宮御璽」からも当然に正しい意義であろう。標章などのシンボル的な意義を代表してもいいのではないだろうか。ただ大御璽と言っても次のように考え方が多数あり、意見の分かれるところである。
 「皇大神宮崇敬の対象」(江見清風 大正五年)
 「皇大神宮御祈祷の御璽」(松木時彦禰宜 大正五年七月)
 「神宮大麻は我国民が各自其家庭に於て日別朝夕 神宮を敬拝し 天照皇大神の御神徳を仰ぎまつらるるために神宮より全国の全家庭へ頒布する大御神の大御璽であらせられます。」(神宮神部署編『参宮の栞』、昭和二年刊)と解し、より平易には「神宮大麻は我が国民が家庭に於て 皇大衡神を敬拝する 神宮のみしるし」(坂本広太郎神部署長 謹話に依る)
「これを受けた者は、家内の浄所に奉安し、伊勢の大神を拝するみしるしとして祀つた」(梅田義彦の「神宮大麻の由来と意義について」 (『瑞垣』五八、昭和三十七年九月))などにみられるように「皇大神宮敬拝の御璽」等。
 祓具・祓いの験については構成要素の御真(麻串)に述べたように意見が分かれるところである。
 このように消去法を行うのもいくらか意味があるのではあるが、もっと一般庶民に理解を得やすい表現はないだろうか。

 二、私的解釈
 今までに述べたことを総括し、戦後日本の国があまりにも平和だったこと、占領政策の流れを汲み日本人らしさの喪失してしまった状態にあることなどから、「神宮大麻は、日本国及び日本国民統合の象徴たる天皇により公に奉ることを許された天照皇大神(皇室の祖先神の中で選ばれた)の念入りに清められた御神札で、身近に置くことにより日本人らしさを意識させてくれる存在の一つであり、天照皇大神の霊力によって日々ある恵みに感謝し、毎年御初穂を捧げることにより拝受でき、それにより更なる霊力が重ねられていく御神札である。」と言うのは如何なものであろうか。神に携わる者の叡智によって、更なる検証・批判を加えて戴き、「頒布趣意書」・「神宮大麻の歴史と意義」・「神宮大麻・暦についてのQ&A」などを参照し、素晴らしい解釈をして戴けることを期待します。

 三、全国頒布と神社本庁・氏神神社が頒布を行う意義
 全国頒布と神社本庁・氏神神社が頒布を行う意義については、教学的には今回の教学研究大会の坂本是丸教授の基調発題の通りであるし、付け加えるとすれば、単に組織上の問題であることと過去百三十年の歴史と更には御師からの歴史をも背負っており、拝受者に対して将来に渡りフォローをしていく責任を考えると頒布する窓口となっている神社に突然大麻が無くなることがあってはならないし、本庁・各神社庁の予算の大部分が負担金と大麻頒布に依っている点からも無くなることがあってはならないだろう。


喪服について

2012-01-31 18:03:31 | うんちく・小ネタ

  喪服について

 『日本書紀』や『隋書倭国伝』などを見ると古代の喪服が白かったということが分かります。しかし、718年に養老喪葬令が出され、「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定められます。当時の注釈書によると、「錫紵」とは「いわゆる墨染めの色」のことです。これは中国の『唐書』に「皇帝が喪服として『錫衰(しゃくさい)』を着る」と書いてあり、この中国の制を真似して定めたものと考えられます。ところが、唐でいう「錫」とは、灰汁処理した目の細かい麻布のことで、それは白い布のことなのですが、日本人はこれを金属のスズと解釈し、スズ色、つまり薄墨に染めてしまったようです。
 この「錫紵」の色は、平安時代になると貴族階級にも広まって、薄墨だった色合いも次第に濃くなっていきます。これはより黒い方が深い悲しみを表現すると考えられたからで、養老喪葬令の時、喪に重い軽いが定められ、平安になると着る色もこれにより決められたので、『源氏物語』でも、妻を亡くした光源氏が「自分が先に死んでいたら妻はもっと濃い色を着るのに、自分は妻の喪だから薄い色しか着られない」と嘆く場面があります。その後平安後期になると、一般的に黒が着られるようになりました。
 ところが、室町時代に白が復活し、江戸時代に水色が登場したりしますが、基本的には白が続いています。養老喪葬令以降、喪服を黒くしたのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったと思われます。昔は人の死を「穢れ(けがれ)」と考えていて、一度着用した喪服を処分していたようですが、白い布を黒く染めるには染料もいりますし、手間もかかります。そんな手間をかけたものを庶民が簡単に捨てたとは考えにくいし、現代よりもはるかに信心深い時代ですから、たたりや災いが起こるのではないかという恐れが強かったために、先祖代々受け継いできた伝統(葬式の形式)を変えるには、相当の勇気が必要だったはずです。
 養老の喪葬令で喪服が黒とされて以来、室町以降も格式や形式を重んじる宮中では「決まり事だから」という理由で頑なに黒のままを守り続け、それと同じように、庶民は貴族の「黒」におされながらも、形式を変えることへの恐れや経済的理由などから「白」という色を守り続けていたのだと言うことです。
 明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、現代に至っています。
 弔辞でない場合も、宮中で偉い人の装束は「黒」ですが、一説にこの「黒」は、赤を何度も重ねて染め上げた色だと言われています。思うに、昔は、墨を何度も重ねて染め上げた「黒」と、赤を何度も重ねて染め上げた「黒」とが有り、それぞれ使い分けていたのではないでしょうか。そのために、現代でも宮中では、慶事においても鯨幕を使用しているのではないでしょうか。

 参考文献  増田美子『日本喪服史 古代篇──葬送儀礼と装い──』


国歌と国旗の知識

2012-01-30 18:23:32 | うんちく・小ネタ

 国歌と国旗の知識

 国歌と国旗は、国家の独立と尊厳をあらわす象徴です。したがって、世界中どの国でも自分の暮らす国の国歌と国旗を大切にすると共に、他国の国歌や国旗に敬意を示すのが当然の礼儀です。
 そのため、国内の祝祭日や公的行事はもちろん、外国からのお客さまを歓迎するときや国際的な儀式・スポーツ競技などの機会には、必ず国族をあげ、国歌を演奏し参会者は起立して敬意を表します。

国歌 「君が代」
 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて苔のむすまで

 この歌は、小さな石がたくさん集まり固まって大きな岩となり、さらにその岩に苔がむすはどまで、長い長い年月、まさしく千年も万年も永久に、大君のみよが栄えますようにとの意味を込めたお祝いの歌です。
 その原歌(もとうた)は、延喜の頃(十世紀始め)に『古今和歌集』巻七に「読人しらず」の賀歌として

わがきみは ちよにやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで

とみえます。これが平安後期頃から「わがきみは」より「きみがよは」の形で広まり、人々に親しまれてきました。
 そこで、明治の初め、外交儀礼の必要からも国歌を制定するにあたり、維新政府は、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中で歌われていた「君が代」を歌詞に選びました。そして軍楽隊教官のイギリス人フェントンに作曲を依頼し、明治三年九月八日、わが国最初の陸軍観兵式に際して、明治天皇の御前で演奏しました。
 しかし、そのメロディーが日本語になじまないため十年後、宮内省伶人長林広守作曲(原作奥好義、編曲海軍省傭教師エッケルト)の「君が代」が完成し、同十三年十一月三日の天長節(天皇誕生日)に宮中で初演奏されました。
 その歌詞と楽譜が次第に広まり、特に同二十一年、『大日本礼式』に納めた楽譜が外国に送られ、また同二十六年、祝祭日奉唱歌として文部省より告示されました。
 それ以来すでに百年にわたり日本の国歌として奉唱されてさた「君が代」は、荘重なメロディーが外国の人々からも高く評価されています。また、平安朝の古い歌に由来する雅やかな歌詞は、日本国およぴ国民統合の象徴と仰がれ敬われる天皇の御代の弥栄を寿ぐことにより、国家の永続と国民の和合を念ずることになる最も日本にふさわしい国歌として、広く親しまれています。

 国旗 「日の丸」
 世界の国旗には、それぞれの建国の由来や理想があらわされています。たとえば、アメリカ合衆国の星条旗には、独立した当時の十三州を示す条線と、現在の合衆国を構成する五十州を示す星が描かれています。また、フランスの三色旗には、市民革命の旗印とされた自由・平等・博愛が青、白、赤の三色で示されていまず。
この点、日本の国旗となった「日の丸」は、さらに古い歴史をもっています。赤い丸は万物に恵をもたらす太陽をかたどったものであり、皇祖神を天照大神と仰ぐ日本人が考えだした最もシンプルなデザインです。
 その早い例は、王朝時代の元日朝賀や即位の儀場に掲げられた「日章」の幡にみえます。やがて、源平以来の武士たちは扇面に好んで日の丸を描きました。また建武中興を敢行された後醍醐天皇は、日の丸を旗印として掲げられたと伝えられます。さらに秀吉、家康の時代に活躍した御朱印船には、朱の丸が旗章に使われています。
 やがて、幕末にいたり、外国船がしきりに来航し、また、諸大名も巨大な船を造るようになったので、幕府は安政元年(一八五四)七月、日本の船が外国船とまぎれないように「白地に日の丸の幟」を「日本の惣印船」と定め布告しました。
 ついで、維新政府は明治三年(一八七〇)一月二十七日、太政宮布告により郵船商船規則を公布しその中で正式に「御国旗之事」を定めました。それによれば国旗のサイスは縦七十、横百の比率の白地に、赤い日章の直径は縦の五分の三となっています。この一月二十七日が「国旗制定記念日」です。
 平成十一年には「国旗および国歌に関する法律」として定め、日本の国旗は「日章旗」国歌は「君が代」と明文規定しています。

(国旗の掲げ方)
 国民の祝日や国家的なお祝いの行事には、家々でぜひ国旗を掲げましょう。
 家庭で門前に掲げる時は、門内からみて右(外からみて左)側、また二本掲げる時は併立が望ましいですが交差でもかまいません。
 祝意を表す時は、球と旗の問を離してはいけません。(弔意を表す時は、球を黒布で覆い、球と離した旗の上に黒布をつけます。)
 国旗を掲げる時間は日の出から日没までで、雨の日は掲げません。
 外国の国旗にも敬意を表し、丁寧に取り扱う心がまえが大切です。

  参考文献 平成十一年 靖国暦

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禁忌について

2012-01-28 17:12:14 | うんちく・小ネタ

   禁忌について

 現代における神社の在り方を考える上で清浄とそれに対応する「穢れ」・「禁忌」は避けて通ることの出来ない要素であるので少し述べておきます。

 古くから各共同体ごとに異なった「忌」の慣習は存在していただろうが、禁忌は律令が定められ、式を施行していく時代に確立していったものと思われる。
 そのために、「古事記」・「日本書紀」が編纂された時代にはまだ禁忌を具体的に取り入れることが出来なかったと思われる。伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、阿波の水門と速吸名門の海峡の流れが急すぎて筑紫の日向の橘の小戸の檍原で着ているものを脱ぎ祓い、身を削ぐように洗い清め滌いだ事が祓詞として現代の修祓で唱えられるとはこの時代には考えられなかったのではないだろうか。祓詞における「穢れ」と「唐六典」などにより大陸の影響を受けた「六色の禁忌」とは意味が全く違うと考えるべきである。「穢れ」は禊祓を行うことによって全て祓へ清められる方が神話の流れ上良かったのであろう。

 「穢れ」以外に祓詞に出てくる「禊祓」「禍事・罪」についても少し触れておく。
「諸々の禍事・罪・穢れ」があって禊ぎ祓うのであるが、「禍事」とは畏れるべき悪しき事(自然の猛威・神々の怒り・死・病等)であり、罪とはその畏れるべき悪しき事を呼び起こす原因または不吉な禁忌を破る行為で、大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」を代表的な罪だとすれば、それは①神聖を穢す罪、祭りを穢す罪、②農耕社会秩序を乱す罪、③命あるもの、命を終えたものを傷め損なう罪、④人倫を犯す罪、⑤呪いをなす罪、⑥特別な穢れ災いを受ける罪などを挙げる事が出来る。
 それを取り除くために行う①祓へとは着衣を全て脱ぎ祓うことでありそれは、体内等に停滞している物を取り除くことを意味し、②禊とは清らかな水で身を削ぐように滌(濯)ぎ、本来の霊魂を体内に注ぎ、元の状態に戻ることを意味していたが、平安時代には大祓の参加者に清浄を求めており、清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした儀式になったと言える。祓への方法としては「爪等身体の一部を含む財物没収罪を購う儀式(贖いの法)」「撫物・人形・解縄・茅輪・祓麻・祓刀・木綿・布・麻布・幣・大麻・切麻・散米・豆撒き・餅撒きなど水に流す物や祓い清める物や差し出す物を用いた儀式(触浄と名付けるのが適当と思われる)」等が見られる。また、更なる清浄を求める「禊祓」で取り除かれる「穢れ」に、死穢・産穢・月事は含まれていなかったし、天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ。此の時に当たりて、国造等、各祓い柱ぬひ一口を出して解除す」とあり、大祓に際し人柱を用いるということは死そのものを「罪・穢れ」と考えていたとは思えない。

 しかし、律令時代になると、神祇令第十一条の祭祀奉仕者の禁忌規定にあるように神事期間の前後においては、喪を弔い、病を問い、宍を食うことを得ざれ、亦刑殺を判らざれ、罪人を決罰せざれ、音楽を作さざれ、穢悪の事に預からざれという「六色の禁忌」が基本となり、次のように穢限などが定められていった。

延喜臨時祭式穢忌条・改葬傷胎条 延喜式完成 醍醐天皇延長五年(九二七) 延喜式施行 冷泉天皇康保四年(九六七) 穢    限

一 人の亡骸(人死)                     三十日
  改   葬
  胎児四ヶ月以上の流産(傷胎)

二 人の出産                          七日
  胎児三ヶ月以下の流産(傷胎)

三 六畜の死体(六畜死) 牛・馬・羊・猪・犬・鹿          五日(「西宮記」では七日)

四 六畜の出産                           三日
  六畜の肉を食す(宍を喫む)

弘仁式 嵯峨天皇弘仁十一年(八二〇)には次のものなどがある。

問疾(病人見舞い) 三日(延喜式で削除)
失火 神事の時に当たる場合は七日間を忌む

 また『蜻蛉日記』・『古今著聞集』などに「神事及び吉事一般に関与することなく、自宅や寺院などの便宜の場所に引き寵もって、神宮神社に参詣することは勿論、公務公事に就くことをも憚った。」とあり、死穢(亡骸のケガレ)の場合の忌み方について見受けられる。

更に、延喜臨時祭式の触穢条を見ると、「甲処にケガレが発生し、乙人がそこへ行き着座してきた場合、乙人と乙人と共に居る人は皆“触穢”したものと見なす。更に丙人が乙人の処へ行けば、丙人のみ穢れたと判断する。」とか、「甲処で触穢した乙人が丙処へ行き、着座した場合は、丙処に居る人は皆穢れるが、そこへ来た丁人は穢れない。」など穢れの伝染についても示されている。律令の頃からこの触穢と共に続柄による忌服の期間も共存している。こういった状況が明治時代になるまで続いていたと思われる。

 明治時代に入ると、明治五年二月二十五日の太政官第五十六号布告に「自今産穢不及憚侯事」として産穢は遠慮するには及ばないとし、明治五年三月十日の触穢禁忌忌服方法では「死人ヲ取扱者ハ三日ノ後沐浴参宮ノ事但葬式ニ随ヒ及死者同座ノ者ハ沐浴致候ヘハ翌日ヨリ参宮不苦候事」として、三日後沐浴して参宮して良い。葬儀に同席した者は沐浴すれば翌日より参宮して良いとし、「墓参ノ者沐浴ノ後参宮不苦侯事」として墓参りした者は沐浴して参宮して良いこととした。また、明治五年六月十三日の太政官第百七十七号布告では「死葬二預リシ者神社参詣ノ件神社参詣ノ輩自今死葬ニ預リ侯モノト雖モ当日ノミ可相憚事」として産穢に続き死穢の穢限三十日であった古制を改め、一日と減じた。更に、明治六年二月三十日の太政官第六十一号布告では「自今混穢ノ制被廃侯事」として触穢の制を全廃した。そして、明治七年十月十七日の太政官第百八号布告で服忌令京家の制を廃し武家の制を用いるようにした。つまり、続柄による忌服のみを残そうとしたのである。

 ただ、神宮においては触穢を残し次のように定めている。
神宮法規 明治三十五年
墓参会葬ニ付遠慮ノ件 死体ニ触レシ者         五日
埋葬ニ立チ会イシ者               二日
墓参会葬及葬家ニ立入リシ者           当日
神宮規定
勤務を遠慮する場合 死体に触りたとき        三日
墓参、会葬および葬家に立ち入ったとき     当日

 そもそも「忌む」とは、縁起が悪いとか汚いものとして避けると言う意味があり、亡骸や土葬された者や出産時や月経時を不浄とイメージしてきていたことが窺える。そのイメージを明治政府は払拭しようとしたが律令制度からの慣習を壊すことが出来きらなかったように感じられる。

 現代においては、土葬の時代にイメージされていた亡骸の穢れも土葬された亡骸からの白骨(五体不具)の穢れも、火葬によって不浄のイメージは薄らいできているようであり、会葬に当たっても現在は死臭等も感じさせないように葬祭業者が配慮しており、触穢は意義を失って来ている。産穢についても病院で清潔に行われており、月経についても、CM等で見受けるように清潔に保つ用品が開発されて不浄のイメージは無くなってきている。また、葬儀の後すぐに職場に復帰して日常生活をしている現代の状況を見ていると、一定期間を設けて引き籠もる「忌服」は意味を失っている。また、葬儀の場が穢れていると考えると、家には、屋船皇神等がおり、水神様や竈神様のお坐します台所で、水や米を始め様々な霊が宿っているものを調理したり、亡骸の前に供えたりする行為は神々に対して不敬に当たるのではないだろうか。埋葬にしても大地主大神に対して不敬に当たるのではないだろうか。逆に現世から幽界に帰る神聖なものとして扱うべきであり、ただ現世に残った人々の別れに対する感情が悲しみを生み出しているのであって死も葬儀も不浄なものではない。「忍び手」も故人に対する思いのため音をたてることの出来ない心情の表れであって、穢れとは無関係なものとすべきであろう。不浄でなければ葬儀において修祓をすることの是非を考える必要もない。私たちは死に対しても埋葬に対しても穢れと考える慣習を無くす努力をすべきではないだろうか。加えて、神事等に関してのみ「忌」の慣習が幅を利かせていることは不自然としか言いようがない。これも是正するよう取り組むべきだと思う。

 魏志倭人伝に「停喪十余日」とあるがこれは通夜のことなのか、忌服のことなのか、また、魏志倭人伝が示す倭国がどの国を指しているのか。戦国時代を始め、多くの死者や傷病人を出した時代でも、「忌服令」は守られていたのだろうか。神事に携わる神職の忌の期間が一般より短い事は本末転倒ではないだろうか。穢れは不浄と言うイメージだけでなく、日常とは異なる心の状態・ケガレの対象に感情が揺れ動き、正常に日常を過ごせない状態をも含み「気枯れ」・「異枯れ」と解釈することが正しいのか、また、不意に思いがけず、はからずも受ける傷と言う意味で「怪我れ」と解釈することが正しいのか、等々素朴な疑問数え切れないほどあり、「忌み」の有効性を決定付けることは難しいのではないだろうか。

 現代社会において、禊祓の儀式によって刑法上の罪が赦されるわけではないし、目の前のきたなく汚れた状態が清潔になるわけでもない。現代の禊祓は清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした「禊祓」であると考えることが自然である。禊祓の対象としての「穢れ」があるから禊祓が必要であり、「穢れ」があればこそ禊祓は機能的に存在し、また、存在価値が認められるのである。だとすれば、禊祓で清められる「穢れ」のみ「穢れ」とすべきである。出来れば、禊祓を、塵芥埃が溜まるのと同様に、人の心にも、鬱積停滞するものを穢れとみなし、罪についても大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」ではなく、知らず知らずのうちに犯した罪とみなし、それらを祓へ清めることを意味していると考え、仮に「罪・穢れ」が無い人についても清らかな上にも更なる清浄を期することを目的としたもので常に行うべきものと捉えるべきであろう。自然発生的現象であり、その事態が鎮まるまで忌み慎み、その後禊ぎによって浄化されると言う慣習になっている存在も、死も葬儀もそれらによる「異枯れ」等々も「穢れ」とは考えず、「汚れ」の状態を排除して清浄な空間を創り、禊祓の効力によって更にその場所を神聖化すると考えていかなければ禊祓の存在そのものが意義を失うことになるであろう。

   服 忌 表

死去された方                 忌              服

父母      実父母            五十日               十三ヶ月
         養父母           五十日               十三ヶ月
         継父・嫡母・継母       十日                三十日
         夫の父母          三十日                  百五十日

祖父母     父方 祖父母              三十日                百五十日
         母方 祖父母          二十日                 九十日

曾祖父母   父方 曾祖父母             二十日                  九十日
         母方 曾祖父母        な し                 な し
高祖父母   父方 高祖父母              十日                    三十日

        母方 高祖父母        な し                 な し
夫                     三十日                 十三ヶ月
妻                        二十日                       九十日

子      家を継承する子        二十日                    九十日
       その他の子女             十日                    三十日

孫      家を継承する孫         十日                    三十日
        その他の孫            三日                      七日

曾孫・玄孫                 三日                      七日

兄弟姉妹   兄弟姉妹               二十日                     九十日
        異父 兄弟姉妹         十日                     三十日                         

伯叔父母   父方 伯叔父母              二十日                九十日
        母方 伯叔父母        十日                      三十日

甥・姪    兄弟姉妹の子             三日                  七日
       異父 兄弟姉妹の子       二日                     四日

従兄弟姉妹   父の兄弟           三日                   七日
           母の兄弟姉妹の子    三日                   七日

※ 忌の期間に該当する方は、なるべく神社への御参拝・外出・派手な事等をご遠慮下さい。
  服の期間に該当する方は、故人のことを心に留めておられても、御参拝には何ら差し支えございません。


お籠もり

2012-01-28 13:12:11 | うんちく・小ネタ

    お籠もり

 お籠もりの意味として、昔、「お日待ち祭」とも言われ、それは布団などを持ってお宮に集い、直会を行い、夜明けまで過ごすものであったらしい。
 これは、天皇即位の時、大嘗祭を行いその後の大饗の儀で、天皇としての資格完成のために、蓐・衾を備えた悠紀主基殿で神と寝食を共にし、天皇霊が身体に入るまで引き籠もり深い物忌みを行っていることと同義である。(この儀式は、一説には、天孫降臨の時邇邇芸命が真床襲衾を被っていたことに由来するとしており、これを取り除いたとき完全な天子になるのである。)また、「天の岩戸」も同じことで、再生や甦りなどの意味がある。
 また、伊邪那美神が黄泉の国の食事をしたために伊邪那岐神が迎えに行っても戻ることが出来なかったことや「同じ釜の飯を食べたなか」と言う言葉があるが、寝食を共にすることによって人と人のつながりを強くする特別な意味を感じる。それは村社会においては共同体の意識をより強く深めるということである。
 お籠もりは、各地方によって様々な時期に行われているが、当地域では、一年を四月ごと三つに区切り、その始めに神前で心を整え、惰性に流されやすい日々に活力を甦らせることを目的としているものである。
 村という稲作を中心とした共同作業の中で、まず正月に豊かな稔りを祈り、その年の種籾を選び、五月には田植えの順序・手順等を話し合い、九月には、稲刈りの順序・手順等を話し合い、共同体としての絆を深め、村全体の豊かさを求めることを目的としていたために正・五・九月に行われるようになったと考えられる。

参 照

 斎籠もる・忌籠もる
  けがれに触れないように、身体を清めて家または社寺の中にこもる。


  まとめ

2012-01-28 13:05:35 | 日記・エッセイ・コラム

  まとめ
これまでの文書は、10年ぐらい前に頭の中を整理するために書いたメモです。
 読み返して特に思うことは、日本の国を良くしていくためには、第一に、過疎過密を緩やかにし、少子化をくい止めること、第二に、信じられない政治家や官僚にお金を持たさないこと(安価な政府にして、国債などの借り入れ条件のハードルを高くすることが必要です。)
 小泉政権の頃、競争競争で、問屋や仲買が縮減し、大型店舗中心の経済になり、最近は、ネットによる買い物の普及で、小売店も大型店舗も「見本の場」と成りつつあり、店舗の必要性が問われています。また、生き残りのために、コープ・ヨシケイなどのようなご用聞き商法やコンビニですら自動車などによる移動店舗販売を始め、マックでも配達商売を始めるようになっています。このことは、地域地域における経済活動が成立しなくなっていることを意味し、若者や職を失った人たちは、都会に仕事を求め移動しています。関心の目も都会に向き、地方から離れています。過疎過密は更に広がり、限界集落予備軍が日本中に広がっています。政府は地方に対して、補助金などの支援を行っていますが、人に例えれば、補助金など単なる生命維持装置で、植物状態のままです。望むことは、臓器移植に当たる、社会システムの全面改造です。例えば、会社の本社や拠点支店を保育所の待機児も無く、定員割れをしている地域に移転させることを義務付けるとか、尖閣や北方領土などの国の領海領地問題が有る地域に会社の本社や拠点支店を移転させれば補助金を出すとか、ビルを建てるとき四階以上を禁止し土地を極力平面で使わなければならないようにするとか、改造方法は様々にあります。少子化をくい止めるためには、仲人さんが復活することが必要です。結婚したくても、恋愛ができず、異性と接触する機会の少ない人が沢山います。そういう人たちに結婚してもらうことが一番の方法です。
 次に、「信じられない政治家や官僚にお金を持たさないこと」ですが、政治家や官僚は放っておくと自分たちで仕事を作り、予算を付けていきます。彼らの仕事を減らすことが必要なことです。そのためには、国民のみんなは、我慢をして、国に対して要求することを極力減らしましょう。ゴミを減らすのと同じように不要なものは買わず、過剰包装は避けましょう。福祉に予算が必要と言われれば、家族や隣近所で助け合うから必要ないと言いましょう。取り合えず行こうか程度の大学など必要ないから、卒業すれば90%以上希望する職種に就ける大学だけを残し、そうでない大学は整理統合してもらいましょう。普通は、高校を卒業すればふつうの生活ができる社会を目指しましょう。共働きをしなくても楽しく生きていける社会を目指しましょう。腐った飯か黴の生えたパンのどちらかを選べと言われるのはもう懲り懲りです。信じられない政治家や官僚が支配する国に好き勝手をさせてはいけません。信じられない政治家や官僚が勝手なことをするのは、国民が給付欲しさに都合のよい政治家や官僚を野放しにし、我慢を忘れたせいです。その付けが今国民に返ってきています。


現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化 五 大嘗祭の意義

2012-01-27 12:41:35 | 日記・エッセイ・コラム

 五 大嘗祭の意義
 「天の岩戸」伝説を日蝕などの自然現象と考える方も多くおられる様である。しかし、元々の神の性格付けとして、「国生み」の部分では大八洲国や山川草木を生んだ後、天下の主君として日の神・月の神・蛭子・素戔嗚尊を生み、日の神・月の神に付いては天に送り高天原の仕事をさせている。黄泉の国から伊奘諾尊が帰られて禊ぎを行ったとき、天照大神・月読尊・素戔嗚尊の三柱の神が生まれ、天照大神には高天原を、月読尊には青海原を、素戔嗚尊には天下を治めるように任じている。また、一書(第十一)では、天照大神には高天原を、月読尊には日と並んで天のことを、素戔嗚尊には青海原を治めるように任じている。これらの部分ではそれぞれの性格を決めることは出来ない。しかし、素戔嗚尊が田の溝を埋めたり畦を壊したり、荒らしたことから、梅雨や台風や暴風雨などの責任者であった面が窺える。また、保食神の一件については、太陽の運行に沿った季節折々の作業・行事日程が陰暦と不具合(閏月などで旧十一月に冬至が来ないなど)を生じた時の調整役(米・魚・動物など様々なものを揃えて相手の合意を得る)が保食神であって、その調整が上手くいかず、天照大神が暦について一手に扱う事になったことを意味しているように感じられる。天照大神は夏至冬至を始め太陽の運行を把握し、その季節折々の作業・行事日程を決める事を掌握し、月読神は月の運行による暦の編纂を司り、素戔嗚尊は潮の干満を始め、風雨についても司る存在であったのではないだろうか。天照大神が担った暦等に関わる仕事は誰にとっても非常に大切なことである。
 天照大神は多少の素戔嗚尊の荒びについては寛容であったが、行事の中で大切な新嘗祭を行うことの妨害(稚日女尊の死や席を糞で汚したことなど)をされることは許せなかった。岩戸に隠れられたことは、稚日女尊の死を忌むために受け持っている仕事を放棄したことであり、様々な面に支障をきたし、誰もが仕事に復帰することを望んだものと思える。その気持ちを天児屋命の神祝によって、皆に望まれていることを知り復活されたのであろう。この「皆に望まれての復活」こそ大嘗祭の由来だと考えられる。
 因みに新嘗祭は、天皇の御田の新穀を神事にお供えする祭りが中心であり、「天の岩戸」の時点においては、天皇は存在せず、天照大神が御田の新穀を神事にお供えしていたもので、天照大神と天皇が重なって見えてくる。新嘗祭の内容に国民の望むところによって天皇になられる意味を加えた大嘗祭において、「天皇霊が宿る」とは天照大神と一体になることを意味し、お供えの対象の神はおそらく高皇産霊尊であり、神官の最高位として奉仕することも最も大切な仕事の一つであろう。
 今日、皇位継承は日本国憲法、皇室典範によって、規定されておりそれに基づいて決定されるのに践祚の儀・即位式・大嘗祭がなぜ必要なのか疑問に感じることがある。三種の神器を受ける践祚の儀は「天つ日嗣」つまり皇祖の御霊威、御精神を継承される方であることを認める儀式であり、合わせて科学万能の現代においてなお神話とリンクして現在があることを示す儀式として意味がある。また、天皇であることを宣布する即位の儀は広く正統性を明示する儀式であり、公示公告と同様に考えることが出来る。大嘗祭については、新嘗祭が天皇の御田の新穀を神事にお供えすることに対して、「延喜式」の「百姓の営るところの田を用いよ」という規定により、悠紀・主基の斎国を定め、その斎田の新穀を神事にお供えすること、更に、各地の特産農林水産物の献上を行うことであり、この事は、天皇の即位を国民挙って望んでいることを示す意味がある。ただ、歴史的に新嘗祭と大嘗祭に差違があるのか否かについて精査する必要がある。また、大嘗祭が「国家国民挙ってのものでない。」と多くの国民が感じた場合、大嘗祭の意味は有るのか無いのか、もし無いとするならばそれは新嘗祭であり、差違を「天皇の即位を国民挙って望むこと」として意味を持たせたことが、形式としては天皇であっても実質として天皇では無いと言われることに繋がりはしないだろうか。別の場でより深い検討が必要である。


現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  四 人間関係の希薄化

2012-01-27 12:39:33 | 日記・エッセイ・コラム

 四 人間関係の希薄化
 過疎過密と少子化と共に人間関係の希薄化も見逃すことが出来ない。生活が豊かになり楽しみ事が多くなったことや、テレビなどのメディアが視聴率を競って、視聴者の興味・関心を引きつけるために様々な工夫を行い、時計の替わりに常時玉石混合の情報を垂れ流していることなどにより、自分たちの努力で生活の中に楽しみを見付ける事が少なくなり、それだけで満足し、他者との関わりを煩わしいものと感じるまでになっている。それは、貧しい時代に形成された、四季折々の季節の変化を肌で感じ、多くの人々が集い、酒を飲み、会食をし歌舞に興じる様な楽しみを駆逐してしまっている。
 年寄りが、「昔は、腹一杯ご馳走を食べられることが楽しみであちこちの祭りによばれていった。しかし、今は、日頃からご馳走を食べていて、祭りのご馳走を特別に感じることもなく、逆にあまり好まなくなってしまっている。晴と異が逆転してしまった。」と話してくれたことを思い出す。日頃から、テレビで派手で豪華な催し物ばかりを見せられていると田舎の様々な行事が陳腐なものに感じられて、関心も非常に薄いものになってしまっているように思える。
 本来、世界人口と食料の生産量の関係から見て、人間は粗食・粗衣でなければならないもので、日本における生活水準は世界中を見渡しても非常に高いものである。今の豊かさは、先進国の特別なものであり、それを継続することは将来の人類に対して大きな負債を残すことになるだろうし、発展途上国が先進国並の生活水準になると世界規模の危機を迎えることになる。
 また、一人一人が助け合わなくても生きていける社会は、人との関わりを希薄にしていく。隣に誰が住んでいるのかも分からず、孤独によって精神を病むような人々も増加し、更に犯罪も増加してくる。戦後、日本の古きものを否定し、欧米を良しとする方向で進んできたが、今こそ日本の古きものの中にある良きものを見直すべきではないだろうか。その根本が生産を中心とした共同体文化であり、人間関係を濃密にしていくことである。その方法として、「同じ釜の飯を食べた仲」や「お近づきのしるしの一杯」や「一宿一飯の恩義」や三三九度や固めの杯のように寝食を共にすることによって人間関係をより深いものにしていくことが大事である。天皇即位の時、大嘗祭を行い、天皇としての資格完成のために、蓐・衾を備えた悠紀主基殿で神と寝食を共にし、天皇霊が身体に入るまで引き篭もり深い物忌みを行っていることと同様なものであり(この儀式は、一説には、天孫降臨の時邇邇芸命が真床襲衾を被っていたことに由来するとしており、これを取り除いたとき完全な天子になるのである。)、祭りの後の直会も同義であり、日本人の遺伝子にその感覚が残っているうちに、寝食、特に飲食を共にする場を多く持ち、共同体の結び付きを強化していくべきである。強い結び付きは、共同体内での助け合い、孤独感からの脱出、犯罪の減少に繋がっていくと思う。それ以上に、メディアという虚像に人生を支配されることなく、自分に直接触れ合う現実生活を確認しながら生きていける事に繋がり、限りある人生を大切にすることでもある。人生を大切にすることは、自分を大切にすることであり、自分を大切にすることは、自分をこの世に存在せしめるあらゆる存在に感謝の意を示すことである。


現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  三 過疎過密と少子化

2012-01-27 12:37:37 | 日記・エッセイ・コラム
  1.  三 過疎過密と少子化
     地方の在来共同体を捨て、都会に存在していた共同体に入った段階では夢を追い、都会の周辺に家を構え、自動車に乗り、家電品家財道具で家を満たし、休日には家族で出掛ける幸せを手に入れていた。しかし、大不況からその共同体も所属員を限定し始めている現在、人々は何をどうすれば幸せになれるか解らないままに都会を彷徨い始めている。
     過疎過密は、村社会を崩壊させたため地域の行事が荒廃していっているが、過密な都市部においても、住人は自分本位で我が儘な人々の集団と化して、一部のイベントとして派手な行事には挙って参加するが、昔からの地域挙げての行事には参加せず実施を難しくしている。それに加え、少子化問題は、過疎地域をより一層過疎にし、行事のみならず地域そのものが荒廃する状況になり、現在人口増加地域でも長期的に考えれば、人口減少に転じる時期がやってくる。その時慌てても人はすぐには生まれないし育ちはしないのだから、過疎過密と少子化現象をくい止める努力を今の内に行っていなければならない。
     本当は、自然と触れ合える生活・家族との暮らしが、生活を潤し、豊かにし幸せを感じさせてくれると誰もが知っている。しかし、都会の暮らし・便利な暮らしに慣れた人々は自分の楽しみや楽な生活のためになかなかその生活をしようとは考えない。今行うべき事は意識改革である。自然の脅威を恐れる心、自然の恵みに感謝する心、生産することを喜ぶ心、自分たちの生きてきた証を次の時代に繋いでいこうとする心、失われつつある心を取り戻す活動を、国・地方公共団体・住民それぞれが一体となって取り組めればと思う。それが、悪循環に陥っている日本を再生し、良い循環に造り変える基本となるだろう。

現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  二 会社一家の崩壊

2012-01-27 12:35:59 | 日記・エッセイ・コラム

 二 会社一家の崩壊
 日本では、近年まで終身雇用・年功序列が当然であり、会社が栄えれば社員も豊かになれると誰もが考えていた。会社とは、地域の共同体に替わって、商家から発展してきた共同体である。サービス残業をし休日には会社が行う運動会や催し物などに家族ぐるみで参加するなど、会社が全てであり会社の中に幸せを導き出していた。しかし、バブルが崩壊し日本型経営の限界が言われるようになり、不況が長期化してくると、米国型経営に大きく方向転換が始動し、政府も指導し始めた。これが会社一家の崩壊である。具体的に財界が経営のために改めようとしたことは、第一に従業員の身分保障の厚い現状から米国的に必要に応じた期間決め雇用契約・先任権に基づくレイオフ制度・経営階層のスカウト人事などの流動的雇用へシフトすること、第二にコーポレートガバナンス(企業統治)で、従業員優先から株主優先に変え株主の自己資本を守るために経営面のチェックを厳しくし、健全性と透明性を高める義務を課すこと、第三に企業の長期的発展を遂げるために地域からの高い評価を得ることを必要と感じるようになり、ステークホルダーへの対応が無視できない状況になっており、自己の利益追求だけでなく社会に存在する一組織体として調和を図る経営姿勢への転換をすることなどである。しかし、第一については大変な勢いで進んでいるが、第二については時代の流れとしてやらなければならないからするというテンポで進んでいる。第三については平成大不況の中、企業の生き残りこそが命題であって地域への貢献まで及ばないのが現実である。
 古代から維持してきた稲作を中心とする共同体を捨てて会社一家という共同体を選んだ者たちが今また篩に掛けられているのである。篩に掛けられ残れなかった者たちは①元の共同体に戻る・②第三次産業の隙間で生きていく・③家族に寄生して自分の当面の小遣いをアルバイトで過ごしていく・④自分で起業する・⑤破産の道を選ぶなど様々な選択肢が考えられるが、誇りと自信を持って生活出来る仕事は少なくなっているように思える。生活に自信を持てないことが結婚をしないことに繋がり、少子化に繋がっていっていると思う。


現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  一 一次産業の崩壊

2012-01-27 12:33:06 | 日記・エッセイ・コラム

三 共同体の変化
 一 一次産業の崩壊
 戦後の方針で財閥解体と農地解放がなされたが、財閥解体は上手くいかなかったために高度経済成長の原動力となり、農地解放は厳格になされたことにより、大地主から小作等に農地が分けられ、農業は小さな田畑を三ちゃん農業で効率化だけを頼りに行われてきたが衰退の一途を辿っている。農地は売買され家が建ち、減反を繰り返し、豊作でも喜べない現状を考えると人々は農業をする意味を見失ってしまうであろう。見失った人たちは故郷を捨て新天地である都会の二次産業三次産業へと出ていってしまい、農村は過疎化していっている。農業の法人化が言われると、なぜ、あのとき農地解放を行ったのだろうかと疑問に感じる。政府の政策通りにならなかった方と徹底してなされた方との違いを、今日の政府の政策を判断するときには考えてみなければならない。
 漁業についても工場の廃液等で海が汚れ、公害による魚の奇形や漁獲不振が生じたこと、また、多くの埋め立て事業により漁場は狭まり、潮の流れは変わり、海の自然浄化作用も機能しなくなり海を諦め、農業と同じように職場を求めて都会へ出ていくことになっている。
 単なる都会への憧れであれば、夢が覚め元に戻る可能性もあるが、現実の大きな壁がある以上、この流れをくい止めることは出来ないであろう。
 江戸時代前期においてもよりよい生活を求めて「走り(欠落・逐電・退転)」をする者が多かったが、領主達は農民の減少を年貢の減少と一致させて考え、「走り禁令」・「人返し令」などで「走り」の抑制に努めていた。その結果、走ってきた者を本百姓として迎え入れることもあったり、大開墾を行う為に他領地者を招致するなどの農村政策が採られ・比較的安定していた有力な農民は、庄屋・肝いりとして村政の運営を握り、領主は管理を行うために連帯責任による村請制度を確立していった。それぞれが自分たちの事を真剣に考える時代であった。しかし、現代の指導者には農業が無くなったとしても構わないくらいの考えしかなく、農業崩壊に対する危機感がない。故に農業に携わる者にとって可能性の見えない時代が続いているのである。
 近年専業で成り立つ神社は自動車の祓い・地鎮祭・商売繁盛などの雑祭諸々を中心に行っているように感じる。逆に、豊作・豊漁を祈り、祝うことを基本としている神社にとって、一次産業の崩壊は自らの崩壊を意味し、神の概念から言っても大きな柱の一本を失うことになる。だからと言って、ただ単に合祀による統廃合を行い、運営の成り立たない神社をなくす方向は早計であり、山崩しの上の棒だけが残っている姿を連想させ、末端の神職も職業選択の自由だからと言って、神職を捨てることも有ってはならないと思う。兼業などのあらゆる手立てを講じても神職を繋いでいくべきである。そのために、包括団体などは維持に努力する意思のある後継者が生きていけるように誠意のある柔軟な発想を以て対応して欲しい。また、生産の大切さを訴え続ける必要性がある。農業を自らの手で行っていない現代でも、稲作社会の内(弥生時代の延長線上)にあるのだから一次産業が国内において復活する可能性は十分にある。不遇な時代こそ次の時代のための準備期間として努力研鑽を積み重ねていかなければならない。


現代(従来環境の崩壊) 二 家庭の変化 三 生活様式の今後

2012-01-27 12:30:55 | 日記・エッセイ・コラム

 三 生活様式の今後
 生活が便利になるに従い、光熱費・電話代などの負担が重くなるのに加え、介護保険が運用面で国民全体に浸透してくると、社会を支える世帯の公的負担は重くなり可処分所得を減らしていく。しかし、企業が生き残りのために価格競争を行い、中国などに生産拠点を移し国内は急速に空洞化し、デフレの傾向は益々増えてくる。そうすると、所得が減りこそすれ増える可能性が無くなり、倒産、リストラ、失業が増えてくる。新卒者は求人が少なくフリーターと呼ばれるアルバイターが溢れ、もう暫くすると少子化世代によって学校の整理・倒産、新運転免許取得者の減少により新車登録台数の減少、新規造成地の売れ残り、更なる地価の下落による不良債権処理のイタチゴッコ等々という悪循環繰り返し、更なる悪化を生み至るべき所へ至るであろう。
 最悪になる要素は、これ以外にも数えればキリがないが、これだけの要素から見ても当分の間悪循環が続くことは明らかであろう。ではこの状況の中で神社に一体何が出来るのだろうか。


現代(従来環境の崩壊) 二 家庭の変化  二 家族関係の変化

2012-01-27 12:28:51 | 日記・エッセイ・コラム

 二 家族関係の変化
 以前福祉行政関係者に「子供はなるべくなら親とのスキンシップを大切にし、親から様々なことを学ぶべきではないか。零歳児から保育所で半日ぐらいを過ごし、家で食事・睡眠の時間を除けば親と一体どれだけ接することが出来るのか。」と尋ねると「そんなことは分かり切ったことで議論し尽くされている。その上で今の時代は親に育てられ、親と過ごすよりも、保育所で過ごす方が幸せな子どもたちが増えている。そのような子どもたちのためにもしっかり保育して欲しい。」とのことで、また介護保険について、「福祉施設は様々な理由でどうしても保護されなければならない方のためのものではないのか。」と尋ねると「民法上は子どもたちに扶養義務があるけれど、それは直接世話をすることだけではない。逆に今までのままでは多くの場合主婦に負担が掛かり、あまりに不公平な状況にあり、男女共同参画社会のためにも問題になる。」との見解だった。
 このことから、今の社会を分析すると第一に親子の情が薄くなっている。第二に特定の者に多くの負担をかけないような方に向いている。第三にお金で片の付くことはそれで済ますようになっている。第四に福祉は特定の者のためのものではなく条件に当てはまる全ての者が利用している。少なくともこれぐらいのことは分かるだろう。
 そのような社会は、血族といえども皆バラバラで、面倒なことは避けて通るか、お金で解決し、出来るだけ我慢をしないことを意味している。
 そして、その結果として現れた代表的なものが、高齢者の世代では介護保険であるのに対して、若者の世代では、少子化現象と言えよう。
 介護保険制度の成立の背景には、老人保険制度がばらばらで不公平感を持つ者が増えてきて制度の統合をしなければならなかったこともあるが、それ以上に民法上当然の義務である「子が親をみ、親が子をみる」ことが有名無実になってしまったことである。また、結婚したくない人、子供を持ちたくない人が急増していることは、合計特殊出生率からも明白なことである。親子の関係が今の日本には存在しなくなってきているのである。。


現代(従来環境の崩壊) 二 家庭の変化 一 生活様式の変化

2012-01-27 12:26:45 | 日記・エッセイ・コラム

二 家庭の変化
 一 生活様式の変化
 近年の生活の様相を見ると、家族中心から個中心に移行していることが顕著である。「家」とは最小限の社会単位である家族が喜怒哀楽を共に分かち合い、お互いがその中で学んだり、助け合ったりしながら思いやる気持ちを育てるものであり、衣食住を始めあらゆる文化がその中に存在しているものであったはずである。その「家」も、高度経済成長の頃の「核家族」から、一人暮らしの世帯が多くなっている。一人暮らしでない場合でも次第に主人は単身赴任、奥さんはパートに出かけ、大きな子は下宿をし、小さな子は鍵っ子で親が家に帰るまでどこで何をしているのかさっぱり解らない。「家」という建物があり時々戻ったり、寝に帰るだけの場所になってしまっている状況が多くなってきているのではないだろうか。米国の例だと家族が一緒に暮らすのは当然のことで単身赴任など考えられないし、幸せとは家族が一緒に楽しい時間を過ごすことであるらしい。離れて暮らすとすぐ離婚ということになるせいかもしれない。しかし、幸せを家族との時間の中に見いだす努力をしていることはよく考えてみるべきだと思う。
 家の造りから見ても昔は建具をはずせば広く使える造りが多かったが、最近は一階はリビングとキッチンそして和室が一部屋で二階は寝室や子供部屋などに区切られた造りになってきている。親戚縁者など多くの人が集まることの多かった時代から家族がくつろぐ時間以外は個別の部屋で過ごす時代への変遷を感じる。
 また、このような状況だから、食事についても沢山の煮炊きをする必要性が無くなり、仕事をした後に煮炊きをすることを面倒に感じる人が増加してきている。そうすると、コンビニ・スーパーなどがそのような家庭をターゲットにした戦略で個人単位の総菜や電子レンジで簡単に調理できる冷凍食品やインスタント食品を多様に販売し、家庭での煮炊きの必要性を感じさせなくなっている。
 衣類を始め生活必需品についても昔は粗末にせず、大切に使うことが当然のことであったが、その時だけの使い切りで購入する事が多くなってきている。物のデサインなどの変化のサイクルが非常に早くなり一年前に着ていた衣類などを着ることが流行に後れているように感じてしまうのだろう。
 欧州などの生活ぶりをテレビ等で見ていると家の寿命も長く親から子へ衣類やその他の物も多く受け継がれているように見える。自動車について日本におけるモデルチェンジと独逸におけるそれを思い浮かべると一事が万事のように感じる。
 本来、天然資源に恵まれていない日本にとって無駄遣いはしてはならないことであるし、大切にものを使うことは、小さな物一つから始まって身近な人を大切にする気持ちを育てその時その時に出会う事柄を大事にしていくことにつながり、人を育てていく上においてとても重要なことであるが、肥大化してしまった日本の経済や雇用を考えると大量生産大量消費を続けなければならない。この矛盾を抱えたまま時間を重ねることが大きなジレンマとなり、何が人として大切なのかを見失わせ、刹那的な享楽に時間を費やし、地球に住む生物の一員としてどう生きることが幸福を感じることが出来るのかを考える時間を少なくしてきている。


現代(従来環境の崩壊)  一 クニの変化  三 権利と義務(自由の履き違え)

2012-01-27 12:24:59 | 日記・エッセイ・コラム

 三 権利と義務(自由の履き違え)
 米国によって与えられた憲法が国民の考えていた以上に民主的であったことが、長い日本の歴史の中でお上の言うことは従わなければならないという国民性によって、あっさりと受け入れられ、特に「自由」について喜んだようである。この与えられた「自由」が独断専行して今日の日本を造ってきたと言っても過言ではないだろう。仏蘭西においては革命を通じて得ることの出来た「自由」について大変な重みをもっている。「自由」とは権利の一つであり、義務を果たすこと(責任)によって裏付けされていなければならないという意識が徹底している。
自分にとつての自由(権利)が他人にとっての自由(権利)と相反するとき問題が生じてくる。日本における自由について、「国旗・国歌」の周辺を例に見ていきたい。
 一般に独立主権国家は、「国旗・国歌」を持つことは当然のことである。国旗が無いために国旗を付けず他国に侵入した場合、攻撃を受けても仕方ないことであり、オリンピックなどで国旗・国歌を間違えた場合、国際問題になりかねない。「国旗・国歌」を持たないことは、独立主権国家でないことを認めることである。昭和二十五年頃天野貞祐文相が「学校の祝日行事には、学校で国旗掲揚、君が代斉唱をすることが望ましい。」との談話を発表し、通達を出したことに対して、日教組は激しく反発し、新国歌制定運動を起こし「緑の山河」を作ったがほとんど普及することはなかった。この時、日教組が国歌代替案を考えたことは君が代を否定する権利主張のための義務を果たしていると言えよう。しかし、その後の日教組の主張は何が何でも「日の丸・君が代」反対のみであり、仮に「日の丸・君が代」が「国旗・国歌」でなくなった場合のことを何も提言していない。日教組にとって日本は独立主権国家でなくてもいいのだろうかと思ってしまう。
 平成十一年に国旗国歌法が制定されてからも、上司である校長に対して職員組合が団結して自分たちに有利な条件を突き付けたり、教職員が斉唱時に起立しなかったり、妨害したりの行為は法制化以前よりかなり減ったものの未だに存在し、地方公務員法による職務命令違反や信用失墜行為禁止違反に問われる事例があった。犯人は判らないが、日の丸が焼かれる事例もでている。平成十五年には起立しての国歌斉唱率十割となっているが、その実体は、入場から斉唱終了まで全員を座らせない進行方法を採ったことと、日教組自体が自重しているためである。決して理想的な形での国歌斉唱が行われているとは考えられない。
 教育者は、学問を教えるだけではなく、生き方・考え方・人の有り様もその存在によって子どもたちに示していると思う。教育者が義務の裏付けのない権利の主張を繰り返していたらおそらく子どもたちもそれを見習うであろう。否、戦後五十数年間見習い続けた現実が今の日本社会を造り上げている。戦前は、家に鍵をかける習慣の無いことが多かったが、犯罪は少なく、地域の共同体内の結び付きは強く相互扶助を実践していた。親子が互いに養育・養護することも当たり前のことだった。しかし、現在は地域コミュニティーを造らなければならないと言っても造り運営することが難しく、親子の扶養関係も金銭で済ますケースが増えてきている。大人も子供も自分本位で我慢をすることが出来ず我が儘を通して争いになることもあり、裁判件数も増え、常識では考えられない犯罪も増加している。物質的には豊かになっており、人間の中身についても社会の流れに沿った形で変化しているのであるが、どう考えても良い方向に変化しているとは思えない。人と人とが信頼することが出来、いたわり合うことが出来、迷惑をかけないように我慢する気持ちを持つことが出来、またその気持ちを察して助けようと思う気持ちを持つことが出来る家庭・地域・社会を目差すべきだと思う。そのためには、家庭・地域・社会の現在の構成員が率先してそうした姿を実践し、次の世代の手本になっていくことが大切である。「子供は親の言うことを聞かず、する事をまねる。」である。家庭・地域・社会の建て直しを出来るだけ早く行わなければ将来に禍根を残すことになるのではないだろうか。