玖波 大歳神社

神社の豆知識

気候変動などに伴う、古代日本人の状況について

2024-05-17 13:01:11 | 日記

 10万年前の日本列島に人類の痕跡(金取遺跡で石器が出土)が見つかっていますが、3万8千年ほど前に日本列島にハプログループD1が渡来し3万年前にD1a2が誕生したと考えられ、現在の日本人の3割から4割がこのハプログループに属しています。D1a2aはほぼ日本人に特有なハプログループです。
 20000年前には、浜北人(静岡県浜北市)、港川人(沖縄県)が出現しています。
15000年前頃から日本人は石器を新石器と進化させ、石を磨いた磨製石器を使用し、植物食が活発化し、土器・石鏃(石を材料にして作られた道具や武器)の使用が始まります。この頃から縄文時代・草創期になります。
 7万年前から18500年前のヴュルム氷期:Wurmglaciationが終わり、12000年前(アレレード(Allered)期)になると、夏の太陽からの放射量は7%増加し気候は温暖化の方に向かいました。アメリカやヨーロッパなどの氷床は溶け、植生は北へ、北へと移動していきました。二酸化炭素も増加し、特徴的な温暖な時代が13000~11000年前に現れました。
 ヤンガードライアス(Younger-Dryas)期という寒冷期は11000~10720年前のわずか280年間の間再び氷床が著しく発達するなど、氷期の状態に逆戻りします。その原因として、地球の動き、火山噴火、温室効果ガス濃度の変化、海流の変化などいろいろ言われてきましたが、現在のところ、海流のパターン変化がひき起こしたという説と彗星のような天体が地球に衝突したことによるダスト・煙りによる日射の遮蔽の2つの説に絞られてくるようになっています。末期には50年間の間に7℃の温暖化が生じ、この寒冷期が終わります。
 日本においても、氷床が溶けることにより、1万年ほど前に海面が上昇(縄文海進)し、日本列島はユーラシア大陸から分離します。この頃から、定住化が進み、貝塚が作られるようになり、漆の使用も始まります。大陸から犬も持ち込まれます。

 9000年前には、大阪平野や名古屋近辺が、暖かさの指数から見るとすでに照葉樹林が生えても良い条件となっているにもかかわらず、実際の植生は紀伊半島のあたりを北上中であったことが花粉分析から明らかになっています。ここからも、気候の急激な温暖化に植生の反応(移動)が全くついていっていないことがわかります。花粉分析では、たとえば紀伊半島南部から大阪まで、この後、照葉樹林群落が拡大するのに3000年かかったという結果が得られています。
 8千年前の日本においては、対馬海流が日本海へ流入し、気候が暖かく安定し、海面が現在よりも2~3メートル高くなり、稲作(陸稲)が中国(南部)から伝わります。(稲作に関しては、鹿児島県の遺跡で、紀元前10000年頃の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっていると報告されています。)この頃から縄文早期に入ります。①人口は2万2千人程度です。7000~5000年前、年平均気温が現在より2℃程度高かったと推定されています。しかし植生の拡大・北上はこの温暖化になかなか追い付けませんでした。6500年前には、照葉樹が大阪まで広がり、ブナなどの冷温帯林の寒冷側の生育限界における現在の気候条件は、北海道における北限(いわゆる黒松内線)付近と、本州における高度限界付近でかなり異なります。前者の方は後者に比べて温暖な傾向があります。このことは、現在においてもなおブナ林が北海道で分布を北の方に拡大している最中であることを示しています。
 6000年前のヒプシサーマル期(気候最適期)には、全地球的に夏の気温が現在より2~4℃高い期間が始まりました。この頃、夏の太陽からの放射量は現在より4%多く、冬は逆に4%少なくなりました。黒点数から見た太陽活動も、この時期、非常に活発になります。日本においても、最温暖期になり海進が最盛期となる事で、貝塚が増加し、漁労が発達します。紀元前約4000年の岡山の朝寝鼻貝塚でプラント・オパールが見つかっています。この頃から縄文前期に入ります。人口は10万6千人ぐらいに増加します。

 ここで韓半島の大まかな状況を、重ねておきたいと思います。②紀元前1万年前の旧石器遺跡は50カ所程度発見され、人は住んでいたようですが、日本で発見された1万カ所以上と比べるとごく僅かであることが分かります。紀元前1万年から前5千年までの五千年間韓半島では、ほとんど遺跡は発見されていません。このことは、人が住んでいなかったことを意味します。沖縄の港川人についても発見後1万数千年の間、人骨や遺跡は消え人がいなかったと考えられます。その後、縄文前期の伊礼原遺跡が発見され、九州産の黒曜石・土器・糸魚川の翡翠などが発見され、沖縄の祖先は本土から移り住んだ人々であり、交流も行われていたことを示しています。紀元前3千年の縄文中期には日本では青森県青森市にある1500年続いた日本最大の集落が出来る(三内丸山遺跡)など、縄文時代の最盛期を迎えます。ヒプシサーマル期の後、太陽活動が一気に衰弱します(シュメール第一、第二極小期:SumerianIandIIminima)。そしてネオグラシエーション(Neoglaciation)が起こりますが、日本においては、大阪の上町台地以外の部分や、名古屋城より海側から岐阜県にいたる広い地域はこの時まで海でしたが、気候は冷涼・湿潤化し、降水量も増加します。降水量の増加のため自然の埋め立てが進みます。沖積平野はこの時期にできたといわれています。韓半島においては、櫛目文土器の時代に入りますが、櫛目文土器は縄文前期の曽畑式土器そのものであり、東山道貝塚では縄文土器や西北九州の釣針・黒曜石が発見されています。このことは、韓半島各地へ移り住んだ縄文人が日本との間を行き来していたことを意味します。因みに、縄文中期の人口はおよそ263000人ぐらいです。
 紀元前2000年頃から縄文後期に入ります。この頃以降には冷涼化することが多くなります。寒冷化のために人口は161000人程度に減少します。紀元前約1500年前の南溝手遺跡で籾の痕がついた土器が見つかっています。水田稲作に関しては約2600年前とされていましたが近年の炭素14年代測定法により紀元前約1000年頃(前10世紀後半頃)の菜畑遺跡、雀居遺跡で水田稲作が開始されたことになっています。この頃、ハプログループO1b2(現在日本人の約3割を占めます。Oグループのサブグレードの1つ。日本人及び朝鮮民族に30%程度見られ、満州族では15%前後見られます。アイヌには見られないことから、弥生時代以降の水稲農耕民、弥生人の遺伝子で、O-M176の子孫グループに属す集団)が中国江南から日本列島へ水稲栽培をもたらしたとしています。因みにO1b2a1a1は日本人特有です。D1a2aは南から流入してきたO1b2a1a1に北方に押されながらと融合していきます。この頃縄文晩期から弥生時代に移っていきます。弥生時代の人口はおよそ602000人ぐらいです。

 ハプログループO1は、人類の移動次期に崑崙山脈の北ルートを取ったハプロNO系がN系とO系に別れたO系の子孫です。N系東に向い、O系は南下して少しでも暖かい平原を目指し、多くのO1系はヴュルム氷期に海面が100メートル程度低くなり広大な平野であったタイランド湾から南シナ海へかけて存在したスンダランド(現在のマレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚)とサフールランド(オーストラリアとニューギニアの間の平野)で生活し、紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没したことにより、O1b2系は温暖化に伴い北上して中国南部を中心に中国全土に広がっていき、O1b1系はニューギニアを中心に広がって行きます。海面上昇により日本は他者が進入しづらい場所になったため、紀元前約1000年頃、日本に移動してくるまでに年数を要したのでしょう。{縄文海進は、最終氷期の最寒冷期後(約19、000年前)から始まった海水面の上昇を指し、日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり(年速1-2センチメートル)、ピーク時である約6、500年前-約6、000年まで上昇が続きました。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下しています。またピーク時の気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1-2℃高かったようです。}
 紀元前750年前後のホーマー極小期・紀元前330年前後のギリシャ極小期では寒冷期になり、日本の水稲作地域の拡大は沈滞してしまいます。ただ、この二つの極小期の中間の温暖な時代(紀元前500~400年)には、水稲作地域が加賀(石川県)から弘前(青森県)まで日本海沿いに一気に拡大したと推測されています。
 鉄器の使用に関しては、中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、それほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であったようです。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及します。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けます。例として、秦は高度に精錬された青銅剣を使っています。一方の東アジア北部では中国よりも早くに鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年頃に鉄器時代を迎えています。
 日本においては、水田稲作が開始されて後の約600年後、青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、中国東北系の鋳造鉄器が紀元前3世紀に北部九州に持ち込まれたことで日本に於ける鉄器使用が始まります。前3世紀以降には朝鮮系の鎌などの小鉄器鍛造品も出現します。前2世紀以降には北部九州で鉄斧や鉄製鍬先や鋤先など農工具の鉄器化が進んだことにより耕地の開発が進みます。3世紀までに鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かです。
 その後も、1~2世紀頃には寒冷期を迎え、300年頃に温暖な状態に一旦落ち着き、400年頃には冷涼化のトレンドに戻り、5世紀中はそれが続きました。600~750年には再び著しく気候が寒冷化しました「古代後期小氷期(LateAntiqueLittleIceAge)」。
 また鉄器についてですが、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在します。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及します。日本においては鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来したため、耐久性や鋭利さに劣る青銅器は祭器としての利用が主となり、鉄器はもっぱら農具や武器といった実用の道具に使用されることとなっています。
 韓半島においては、靺鞨等の沿海州・北方の異民族が流入し、縄文人は南下したり、異文化交流・人種的混合が始まります。このような状況が紀元前300年頃まで続きます。秦が燕を滅ぼした後、漢は燕を復活させますが、紀元前195年、燕は漢の攻撃を受け、燕王は北方強度に、燕の武将衛満は箕準王の元へ亡命し、衛満は箕準王を追放し「衛氏朝鮮」を建国、しかし、紀元前108年漢によって滅ぼされます。箕準王から衛氏朝鮮の滅亡までを古朝鮮の時代と呼ばれています。前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡の漢四郡(朝鮮四郡)を置きましたが、漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移りましたが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれます。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続します。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて中国王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め、中国文明が朝鮮にもたらされ、高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持ちます。楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与します。楽浪郡と帯方郡の故地には、5世紀まで土着の漢人や新移住者の漢人が住み続けています。
 三国史記(新羅本紀)では、『紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。』『紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。』と有り、また、三国史記(雑志)では、宋祁の『新書』には『東南は日本であり、西は百済、北は高句麗で、南の濱は海である』と言っており、韓半島の東南には縄文人が倭人として住み続けていたことが分かります。新羅とは幾度となく戦い・講和をしています。
 また、好太王碑文(414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦)建立)には、『391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」』と有り、そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していました。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまいました。399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむきます。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにしました。400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援しました。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫りましたが、安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領し、404年、倭が帯方地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させました。この頃から、倭人は韓半島における勢力を失い始めます。倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られています。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出であり、『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅として韓半島に住み続けていたことを示しています。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされました。475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落します。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗びへ遷都します。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られています。一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗します。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅び、新たに建国された唐は、628年に国内を統一します。唐は二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年、661年、667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになります。 新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、百済を滅ぼし、百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請します。中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めます。661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸します。 唐・新羅連合軍の総兵力は不明ですが、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと考えられます。 倭国軍の第一派は1万余人。船舶170余隻。第二派:2万7千人。第三派:1万余人。と考えられます。遅れたこと・兵力差によって倭国は退廃します。これがいわゆる白村江の戦いです。
 戦後交渉および唐との友好関係の樹立のために、天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣します。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定されます。670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられています。天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、遣唐使は長らく継続され、唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調としています。
 この頃の大まかな気候変化は、1~2世紀頃に寒冷期を迎え、西暦300年頃になると温暖な状態に一旦落ち着きます。400年頃には冷涼化のトレンドに戻り、5世紀中それが続きます。更に600~750年には再び著しく気候が寒冷化します。これを『古代後期小氷期(Late Antique Little Ice Age)』呼んでいます。 因みに、奈良時代の人口はおよそ5400000人ぐらいです。
 西暦800~1300年は、現在並み、あるいはそれをやや上回る温暖な時期でした。この現象は全地球的に見られたとされています。この時期、ヨーロッパではノルマン人が大西洋を渡ってグリーンランドに入植しました。また、この頃の大西洋には流氷がほとんど見られなかったと言われています。当時のアイスランドではエンバクなどの麦類が栽培可能でした。この温暖期を中世温暖期(Middle Ages warm epoch)と呼びます。このときの太陽活動は、西暦1100~1300年には現在並みに活発だったとされています。
 日本においても、西暦1200年を中心に、気温の高かった時代があったことが定性的にわかります。平安時代は相対的に、のんびりとした時代であり、当時の貴族の館は『寝殿造り』と呼ばれる、風通しのよさそうな、というよりは寒そうな様式をしています。こんな中世温暖期だったから、貴族も寒さに耐えられたのかもしれません。
 太陽の黒点が少ないことは太陽活動が不活発なことを意味しています。西暦1300年以降、この太陽の黒点が急に少なくなり太陽活動が不活発な時期が繰り返してやってくるようになりました。その時期は1320年頃、1460~1550年,1660~1715年、そして1800年前後です。1320年頃の極少期をウォルフ極小期、1460~1550年のそれをスペーラー極小期、そしてとくに西暦1660~1715年のおよそ70年間の太陽黒点がほとんど無くなった顕著な黒点極少期間をマウンダー極小期(Maunder minimum)、また一番最近の1800年前後の短い極少期をドルトン極少期と、それぞれ呼び、この期間を、小氷期(Little Ice Age)と呼びます。この時期には各地で氷河の前進が起きました。日本でも西暦1300年を過ぎると気候悪化が起こり、降水量が増えて、濃尾平野などでは河道変化が繰り返されるようになり、特にマウンダー極少期とその次のドルトン極少期にあたる1600~1850年の寒さの程度はものすごく、小氷期をこの時期に限定する場合もあります。この時期、日本では大雪、冷夏が相次ぎ、淀川が大阪近辺で完全に氷結したこともあります。大阪の河内地方ではそれまで盛んであった綿作が、気候寒冷化・降水量増加にためにイネ・ナタネに転作を余儀なくされたとも言われています。

 

参照・引用
①「ムー大陸から来た日本人」竹内均小山修三による平均人口
②「日本の誕生」長浜浩明

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玖波と遣唐使船

2024-05-17 12:52:49 | 日記

 国郡誌には玖波の小名として「鉾の峠・唐船濱・馬だめし・中濱・火の子・庭形・江解・潮待の崎・木場・転び石・大人原・大迫原・神田・片山・野口・大盤・廻道・鳴川」が有ります。何れも興味深いのですが、倉橋町史(平成13年刊行)を読んだとき、倉橋での遣唐使船建造の可能性の根拠として、
1 大型船なので喫水が深く潮の流れが早く砂浜が発達していることが必要、倉橋には「桂浜」などの適地がある。
2 倉橋の地名に「唐船浜」や「唐渡(鹿老渡)」など,連想させる名称が存在している。
3 江戸時代を中心に隆盛を極めた倉橋の造船業の技術はどこから発祥したのか当時の最先端の造船技術を,今度は自分の船の建造に生かし後世の基礎を築いたのではないか。
としているのをみて、玖波も、潮待の崎があり、潮の流れを見極める必要があり、唐船濱だけでなく、玖波には船を留める砂浜があったので、玖波での遣唐使船建造の可能性もあるのではないかと、調べてみるべきだと思ったのです。
 まず、遣唐使・遣唐使船について示したいと思います。

遣唐使とは
 遣唐使とは、舒明天皇2年(630)から寛平6年(894)の間に、日本から唐に派遣された公式の使節のことです。およそ20回任命されましたが、そのうち、実際に渡唐したのは16回でした。
 遣唐使船には、大使・副使とその随員以外にも、通訳・医師・留学生・学問僧たち、船を操る船長や漕ぎ手たちと、1隻に120人ほど乗っていました。はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海しましたが、8世紀にはいると4隻となり、多い時は一行全員で500~600人にもなりました。
 遣唐使船とは
 遣唐使船の船にかんする正確な資料は日本中どこにも無いので、現在考えられている「遣唐使船」は「吉備大臣入唐絵詞(12~13世紀)」や「鑑真和上東征絵伝(1298年)」に描かれた遣唐使船をモデルとして考察され、模型も作られています。
 この宋代の船と7~9世紀の遣唐使船は、約500年のズレがあっても略同一と考えられています。
 また、「疇海図編(明時代)」は日本の室町時代に作られた本ですが、日本の船について「大木を角材として継ぎ合わせ、鉄釘を使わないで鉄片を連ね、継ぎ目を塞ぐのに麻筋桐油を用いないで、短水草で継ぎ目を塞いだので労力も資材も非常にかかった。(中略)その上、船底が扁平だったので波を切ることが出来なかった。(以下略)」とあります。
 これらの内容から遣唐使船は推察されていますが、唯一判ることは、遣唐使船の建造には造舶使長官と次官が任命されて船を建造します。
  日本では丸木の刳り船の上に側板・甲板などの構造物を付けた船は作っていますが、一隻に120名もの人が乗る船の建造技術は無く、663年の白村江の戦いで唐・新羅に敗れて、百済人の多くが日本に渡海し、来た建造に携わったため、渡海船を「百済船」と呼んでいます。
 遣唐使船の大きさは長さが30m、幅7~8m、帆柱2本で平底箱型で、船底を航(カワラ)と呼びますが、この部分と戸立て船首(鋭角でなく、横板を貼ったもの)に角材を並べて、釘では無くて鉄の平板で固定していました。そのため波切りが悪く、不安定で、強風や波浪に弱いという欠点がありました。また、航期や航路をあやまることが多く、遭難する船が少なくなかったのです。なお、近年では遭難の最大の原因は、定員オーバーや積載オーバーではなかったかとみられています。
 遣唐使船は無風や逆風の際は帆をおろし、櫓を用いたので多数の漕ぎ手を乗せており、また漂着した場所での安全を守るため、同じく多数の射手を乗せていました。(帆装に関しては、二本の帆柱が縦列にあり横帆での航行し、多くは櫂での漕航だったようです。)
 前期遣唐使(~669)
 前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
 唐への航路は、はじめ朝鮮半島沿いに渡海し、山東半島に上陸して唐の都・長安に向かう北路をとりました。
 第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。

 後期遣唐使(702~)

 しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来た事も一因となり、やむなく東シナ海横断して、揚子江の河口付近に上陸し、長安に向かう「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。

 造船の記録
推古二十六年 618年    河辺の臣を安芸の国に遣わして船を造らせる。
孝徳元年   650年    倭漢直県らを安芸国に遣わして百済船2隻を造らせる。
天平四年   732年    近江、丹波、播磨、備中等國遣唐使のため船4隻造らせる。
天平十八年  746年    安芸の国に船2隻を造らせる。
天平寶字五年 761年    安芸の国に於て船4隻を造らせる。
天平寶字六年 762年    安芸の国に船1隻を造らせる。
寳亀二年   771年    安芸の国に於て船4隻を造らせる。
寳亀六年   775年    安芸の国に於て船4隻を造らせる。
寳亀九年   778年    安芸の国に於て船2隻を造らせる。
と、日本書紀・續日本紀に記載されています。
 この中の、天平四年の近江、丹波、播磨、備中等については、近江のように海に面しない國も含まれており、造船の資金を出させたと解釈する説が有力で、遣唐使船は略安芸の国で造られています。
 
 次に、玖波における造船について示したいと思います。

玖波の問丸
 応仁元年(1467)、周防秋穂の正八幡宮(秋穂八幡宮)が修造される際、安芸国西部の山間部・吉和で材木が切り出されたが、その仲介を玖波の問丸の「中務」という人物が担っいました。「中務」は吉和に赴いて材木を切り出す杣人に代金を支払っています。このことから当時の玖波に吉和など安芸西部山間地域の杣人と木材の取引を行う問丸が存在していたことがわかります。
 つまり、造船に必要な木材の調達が出来る地域であったことが推定されます。

久波の番匠
 永禄四年(1561年)十一月、大願寺円海は、厳島社大鳥居棟上に際しての祝儀・肴の配賦目録を作成していますが、このリストに「久波番匠」がみえます(「大願寺文書」)。玖波には厳島社の造営にかかわる番匠が住んでいたことがわかります。
竹田の田植え囃子の一節「宮島様の御普請には、どなたが棟梁なされた飛騨の匠に竹田の番匠、両人棟梁なされた」と同様に、近世中期のものと推定される玖波の田植え唄として「明神様の御普請には、どなたが大工をなされた飛騨の匠に竹田の番匠、両人棟梁なされた」とあり、明神様とは玖波の大歳神社を指しますが、厳島神社修復のために訪れていた「飛騨の匠に竹田の番匠」嚴島合戦で焼失した社殿も再建して貰ったのだと推測できます。その後も、厳島社の造営にかかわる番匠が住みついたと思えます。玖波には大工技術も集積されていたと思えます。

 『中書家久公御上京日記』より
『三月廿三日、辰尅に打立、かふちといへる村を通り、やかてミしやう川のわたしにて渡ちん、亦お瀬川といへる所ニて渡賃、其川渡れは安藝の内といへり、亦おかたといへる町に着、船をたのミ宮島へ渡、海上の躰、浦々遠く近く打霞、折りしも小雨打そゝきたる躰、類なき景也、當、舟ちの左方ニ、くはたとて町有、是ハ舟を作所成、未作おろさゝる舟五拾二艘、かハらはかりをすゑ置きたるハ數をしらす、亦行て、やせ松、こゑ松とてひやうしくし有、亦行て、もととり山とて明神の御地有、其嶋の岩の上に松有、から崎の松もかくこそあらめなと申あへり、其次にたかねとて塩屋とて村有、亦次に明神の御作とて、橋柱といへる島二ツ有、又右の方に明神の錦の袋を御おとし有しか、今に石と成りてあり、其色をたかへす、さて其次にさかり松とて有、亦次ニ大もと明神とてまします、是宮嶋の本主柱神也、今の明神へ所を御かし候て、大本權現ハすこしの宮にましますと也、庇もやのなといへるためしにや、當宿柳下太郎左衛門、』
 口語訳
3月23日8時頃に出発。
河内という村を通って、御庄川を渡るために渡り賃を払い、小瀬川という所でもまた渡り賃を払う。
その川を渡れば安芸国ということだった。
小方という町に到着して舟を頼んで宮島に渡る。
海上にあって、浦々が遠くに近くに霞んでいた。折しも小雨が降って体に打たれたが、類を見ない見事な景観であった。
船の左手の対岸にはくはた(玖波)という町があって、そこは舟を作る所である。
完成間近の舟が52艘あったが、瓦のようにも見える建造中の舟は数えきれないほどであった。
また行ったところにやせ松、こえ松というのがあり、ここで兵士公事があった。さらに行くと元取山という明神の御地があった。その島には岩の上に松があった。唐崎の松もこのようなものだという説明があった。
その次には高根という塩屋という村があり、その次には明神が作ったらしい、橋柱という島が二つあった。その右手には明神が錦の袋を落として今は石になったということで、その色が変わっていた。さてその次にはさかり松というのがあって、また次に大元明神がおわすという場所があり、これが宮島の本主柱神である。今の明神へ場所をお貸しして、大本權現は少宮におわすということで、これも「やのな」という「ためし」ということです。
この日の宿は柳下太郎左衛門という人の所に一泊。

 この中の「船の左手の対岸にはくはた(玖波)という町があって、そこは舟を作る所である。
完成間近の舟が52艘あったが、瓦のようにも見える建造中の舟は数えきれないほどであった。」とあるように天文三年(1575年)頃の玖波の造船は、島津家久を感嘆させる程、相当の規模で造船が行われていたようです。

 このとき作られていた船は、天正四年(1576年)7月の「第一次木津川口の戦い」、天正六年(1578年)11月の「第二次木津川口の戦い」に使用された可能性が高いと考えられます。

 安宅船について

「安芸国廿日市鋳物師の一考察」藤下憲明 芸備地方史研究 台二二五号の一節に次のようにあります。
 『安宅船の船釘鋳造
 文禄・慶長の役出兵のためには大量の軍需物資を海上輸送しなければならず、秀吉は毛利氏に朝鮮渡海用の安宅船(軍艦)を建造するよう申付けており、この安宅船は安芸国久芳浦(大竹市玖波町)の唐船浜で造られている。
 唐船浜は玖波村の町並みの東に位置する馬ためし峠(唐船ケ峠)と鉾ノ峠(長峠)の間の入り江で、天正三年(一五七五)の「中書家久公御上京日記」によると「・・・前略・・・儻舟ちの左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・後略・・・」とあり、相当の規模で造船が行われていたようである。 唐船浜で造られた安宅船の数量については定かではないが、宮徳丸、安穂丸、防房丸などの軍船が造られていたことが記されており、これらのうち宮徳丸、安穂丸は秀吉によって日本丸と呼ばれている。
 安宅船の規模について宮徳丸は船内に筵を五十八枚も敷くほどの広さで、兵糧が二万三千俵積むことが出来たという。また、安穂丸は長さ七十間(百三十八メートル)、横四十間 (七十九メートル)で十八畳敷が三間あり、兵糧がー万二千俵積まれたとある。しかし、九鬼氏が文禄・慶長の役の際に伊勢で造った大安宅船は「志州鳥羽船寸法」という造船史料によると長さ八十三尺(二十五・ニメートル)、幅三十一尺三寸(九・五メートル)とあり、また、世紀の巨艦といわれた戦艦大和の全幅は三十八・九メートルであり、これらと比較すると桁外れの寸法であり、これらの出典史料は後世に規模などを誇張して記されたものとみられ信憑性に乏しいものと思われる。
 安宅船を建造するためには多くの材木が集められており、安芸・周防国境の小瀬川沿いにある小瀬村(岩国市小瀬)の山からも船板に使用する材木が搬出されていたものとみられ、享和頃(一八〇一~一八〇三)には船板という地名が残されていた。また、船板を止めるためには大量の船釘や鎹などが必要でありこれらは梵鐘を鋳替えて鋳造をしていたのである。
 「防長寺社由来」宇佐村(山口県玖珂郡錦町)宇佐八幡宮の梵鐘の項に「此鐘の儀巳前毛利宰相様芸州の内玖波村と申処へ御取被迎船釘ニ相成由申伝ニて御座候事」とあり、ここの梵鐘は玖波村で船釘に鋳替えられたようである。
 玖波村で船釘が鋳造されたということであるが玖波村での鋳物師の鋳造活動については明らかでない。しかし、西隣の黒川村(大竹市黒川)では廿日市鋳物師の一族が鋳造活動をしていたことが知られる。
 黒川村の「国郡志下調書帳」に「当村百姓与頭林蔵先祖往古者山田治部少輔と申鋳物師ニ御座候所、先年京都蔵人所より海田市廿日市当村へ次職改ニ登候様御廻状到着仕候節、 当村よりハ上京不仕夫故中絶仕候」とあり、廿日市の鋳物師である山田家の一族が黒川村に移住していたことを伺うことができる。
 与頭林蔵の先祖である山田治部少輔は文禄・慶長の役に伴っての特需鋳造のために黒川村に移住したのではないかと思われるのである。江戸時代に入ってからも鋳造活動を行って鋳物師支配をしていた真継家の支配を受けており、文政二年 (一八一九)ころには鋳造活動は休止して真継家との関係は断絶していたようである。
 史料的には裏付けできないけれど大胆な推察をすれば、黒川村で鋳造活動をしていた山田家の一族は安宅船の船釘をはじめ鎹、装甲板、錨、国崩なども鋳造していたのではないかと思われるのである。黒川村での鋳造活動地の確認と発掘資料でこれらの推察を補強できることを期待したい。』
 更に、『玖珂郡志』によれば、天正十八年(1590)、朝鮮出兵に当たって豊臣秀吉が唐船浜(玖波東方の入江)で防房丸などの船を造らせたという。現在の岩国市小瀬には「船板」という字名があり、防房丸の船板はこの辺りから唐船浜へ送られたとする記述があります。  玖波では安芸西部や周防東部の豊富な森林資源を背景に造船業が盛んであったことが推定されます。
  文禄1 (1592) 年,豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し,御座船として九鬼嘉隆に命じて伊勢国 (三重県) の大湊で造らせた大型の安宅 (あたけ) 船。船底材の長さ約 25m,肩幅 9.4m,深さ 3mの,当時としては最大級の安宅船で,御座船らしく豪華な装飾の屋形が設けられていた。一説には,同2年に毛利輝元が建造した『宮徳丸』のできばえがすばらしく,それに感嘆した秀吉が『日本丸』と改名させたということです。
 中近世の玖波の造船の凄さが分かるのではないでしょうか。

 参考『玖珂郡志』
九月十日祭之。此石巌根ニ有テ、二間余程也。此石霊石ニテ、郷人神ト称ス。参詣貴賎不絶。願望无不叶。昔此石ヨリ血流シコト有リ。往古怪蛇海中ヨリ上リ、神霊トナルトモ云。
太閤朝鮮征伐ノ砌、文禄元年四月、芸州広島ニ稽留シ、又嚴島ニ詣デ給ヒ、此度大明征伐ノ勝利ヲ祈リ給ヒ、何トゾ奇瑞ヲ現シ給ヘト誓ヒ給ヘバ、海上ニ雲起リ飛龍出、其中ヨリ怪蛇二ツ出テ、東西ニ別レ、一ツハ此立石ノ内ニ入、一ツハ芸州ノ立石ノ内ニ入。是天正十八年朝鮮へ投翰ノ書曰、「乗時運而龍ノ如ク飛」トアリテ、符節ヲ合セシヨリ、信心肝ニ銘ジ、芸州ノ玖波唐船浜ニテ、防房丸出来、船板乙御ヨリ、御帰陣和木今津。

 廻船

 「近世玖波の風俗」石本清四郎著によれば、
 『玖波は驛所であったため、人口過剩となり、農業のみを以ては生活に窮したので、商業を兼ねたものが多かった。商業は奥筋の山荷物、板材、木炭、薪、茶、塵紙等を入れて問屋を營みまたは入港の船舶に雑穀、干鰯、塩その他の物資を販賣したが、奥筋の山荷物は大阪方面へ舟運して交易を行った。文化年間までは玖波の商業は盛であって、大阪への廻船七七艘を備え、塵紙及び木炭等を積み出し、大阪南横堀その他の問屋と取引をし、上方方面では、草津から大竹 に至る佐伯郡沿岸一帯の廻船はすペて玖波立の名で呼ばれていた。
 當時は奧筋、西方筋の出荷が多く、日々この方面からの出馬があったので、町内に煮売、餅屋等の店を出し、これを渡世とするものが多かった。また近在の小方、大竹、岩國、湊附近の米も、玖波に集荷し積み出し、小郡、筑前葦屋その他遠國の米船も入港する?態であったが、文政時代以降は、奥筋の荷物は廿日市に出荷し、西方筋は小方に、紙の売買及大阪廻船は大竹、木野に、米の積み出しは湊、宮島に移り、玖波の商藥は急激に衰微するに至ったのである。』とあり、文政の頃までは、廻船だけでなく船の出入りも多く、造船・修理等を行っていたと考えられます。
 
 玖波は、造船のための木材を始め、多くの物資・人・技術等が集積され、『中書家久公御上京日記』・『玖珂郡志』からも造船に適した場所であったといえます。
 遣唐使船が、玖波で作られたのか、倉橋で作られたのか、調べた範囲では断定することは出来ません。
 残念なことは、倉橋が遣唐使船のレプリカを造ったり、朝鮮通信使の行列を行うなど頑張っているのに、玖波では、遣唐使関連のものを造ることも、行事を行うことも一切無いことです。何かを行って、倉橋と共にどちらが本当か議論を続けて町を盛り上げることが出来ればと思います。

 参考までに、文禄・慶長の役の時の安宅船を始め多くの軍船を造船したことに対し、豊臣秀吉から唐船濱の地名を頂いたとする説もありまが、玖珂郡志に「玖波の唐船濱にて、防房丸出来し時‥」と有り、安宅船造船の時には、唐船濱の地名はあったと考えられます。

参考
倉橋町史(平成13年刊行)
国郡誌
戦国日本の津々浦々
中書家久公御上京日記
玖珂郡志
近世玖波の風俗 石本清四郎
安芸国廿日市鋳物師の一考察 藤下憲明 芸備地方史研究
疇海図編(明時代)
日本書紀
續日本紀

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